7.
不思議だったが、和輝が龍司を、兄と呼んだ記憶はなかった。最初に、兄だと認めないというようなことを言われていたのかもしれないが、和輝にとって龍司は『龍ちゃん』だった。
「・・・龍司さんなんどと呼ぶ奴はあんまりいないからな」
好きに呼べと言った龍司がチャーハンの最後の一口を飲みこんでから言いだした。
「微妙だな。部活のときのアホ共は、龍、か龍司と呼ぶし、あとは高原さんだ」
空の皿を手に立ち上がって、流しに皿を運びに行こうとした。
龍司がもう食べ終えてしまった様子に和輝は急いで口に運んでいたが、どこか不服な様子の龍司の声を聞いて、顔をあげた。
「だが、妥当なんだろうなあ。おまえが、龍、龍司だと呼んだら即、張り倒す」
「・・・そんな風には僕は呼びません・・・」
「じゃあ、安心だ」
固い声で答えた和輝に、向けられた龍司の笑みは礼儀をわきまえろよと、念を押されたような気分になった。
「・・・はあ」
そのあとはこうだった。
「食ったものは自分で洗え。自分で洗うんだから、急いで食う必要などない」
自分の皿をさっさと洗い出した龍司の背中を、しみじみと見つめる和輝は思った。
龍ちゃんだって、とっても・・・微妙だ・・・。
恐い。近くにいるとやっぱり緊張で心臓がどきどきしてくる。だけど時々、なんだか優しい、ような気がする。・・・断言はまだできないのだけど。
でも、こんな様子だって記憶のなかにいる中学生の龍司通りなのだ。変わっていないと感じていた。
昔だって、こんな風にビクビクしていたと生々しく思い出されていた。
中学生の龍司は暗くなった頃に下校だった。小学生でも一年の和輝はそのころにはもう家に帰っているので、玄関で龍司が家に戻るのを日課のように待つ。
でも姿を通りの先に見つけると、和輝はさっと庭木の陰に隠れるのだ。そうしてじっと息を呑んでいると、家に入っていってしまうと思う寸前に学生服の黒い背中は足だけを止めて「おい、行くぞ。親父たちが捜すだろ」と言うのだ。
決まって言う。怒った声で、言われると嬉しいけど恐かったものだ。
だけど、今ならもう一つ思う。それは龍司は、いつもちゃんと和輝に気がついてくれてたということだった。
賞味期限が切れかけ卵のチャーハンだった。手間を惜しんで棄てるという選択肢もあるわけなのに。とことん嫌な相手なら、棄てる方を選ぶんじゃないだろうか。
えへっと声を立てずに笑った和輝は、ゆっくりと龍司が作ってくれた卵焼き付きチャーハンを味合うことにした。
和輝がチャーハンを美味しく食べ終わって皿を洗っている最中に、龍司がどこからかダイニングリビングに一抱えの布団を運び込んでいた。
「これを少し右に移動させろ」
慌てて手を拭いて和輝が飛び付いたのは、長い足が軽く蹴って教える黒いソファーだ。
和輝がソファーを部屋の隅へと押して、開けたスペースに布団がどんと置かれていた。
「おまえの布団だ」
「僕、の?」
「ここには他に部屋はない」
「龍司さんはどこで・・・?」
「俺の部屋のベッドだ」
つまり、龍司の部屋以外の部屋は他にないということだった。
「このあたりを適当におまえのスペースとして使ってろ。水も飲めにゆけるし、トイレももうわかったな。暇ならテレビもここにある、冷暖房はこの部屋が一番効くし、十分、生活ができるはずだ」
と龍司は言い置いて、そのあと和輝を一人置いて部屋に戻っていってしまった。
風呂と洗面所、トイレに往復するときに二回顔を合わせたがそれきりだった。
風呂上がりのパジャマ姿のときには、思い出したように和輝は尋ねられた。
「おまえ、学校はどうするつもりだ、ここから通えるのか?」
「・・・休みです・・・」
「嘘だろ」
「三年で、一月の今の時期は自由登校の時期に入っているから、行かなくてもいいんです。それに僕は、推薦で決まってるから」
「そうか。俺の方は当然、明日も朝から会社だ。じゃあおまえは、適当にしてろ。飯は自分でなんとかできるな。もし暇だったら牧さんのところにでも行っていてもいいし」
深夜一時近い時間になっていて、龍司の部屋の明かりはしばらくして消えてしまった。
もう起きてくる気配はないのだと、二時を過ぎて和輝はダイニングリビングの明かりを落すと、龍司が与えて自分で敷いた布団の中に潜り込んだ。
これではじいちゃんの家と同じ、一人だった。
眠れるだろうかと心配していたが、この日半日、和輝は決断と冒険と緊張の続く時間を過ごした疲れが押し寄せてきたのだろう。二時半過ぎに、足音を忍ばせて水を飲みに出てきた龍司を知らないのだ。
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