6.
泣きやまない。
ソファーを立った龍司はオーディオ機器を載せるスチールラックの縁に置いてあるティッシュペーパーの箱だった。
手にとって、和輝の元まで運んで手渡してやろうとしたが、泣くのに必死で顔も上げず、差し出されていることに気づいていないのだろう。
手渡しを諦めて、龍司は膝を折っていた。
絨毯の上に自分も腰を下ろしたのだ。
すっかり和輝の定位置になっている絨毯に、龍司も座って視線を近づけた。
それでもやはり、龍司にとって和輝は見下ろし位置だったが、仕方がない、和輝がチビなのだから。
「ほら、テッィシュ」
言っても小さく肩を震わしているだけだったが
「・・・おまえ、絨毯に鼻水の染み付けるなよ」
と言ってみると、弾かれるように和輝は龍司からティッシュを箱ごと受けとった。
目の前に龍司が移動したことで、緊張が戻ったためか、和輝の涙の暴発は沈静化しはじめていた。
鼻をかんで、目や頬を拭いて、目の後ろに集まってしまっている涙自体を必死に散らそうとしている様子がよくわかった。
「馬鹿みたいだな」
龍司の低い言葉に、ビクッと和輝は震えた。
「・・・ごめんなさい・・・」
すぐに再び、小さく謝っていた。
「おまえのことじゃない、俺のこと・・・いや、おまえもだな。いったい、俺達は何をやっているんだか・・・」
キス一つだった。
キス一つに、十二年間引きずって揉めていたのだ。
馬鹿げていたけど、決してそれだけではない。二人が揉めて不仲になっていた間には、人生に関わる大きなことに関係した問題も絡み込んでしまっていた。
俺とこいつらとどっちが大事と、腹立ち紛れに龍司に叩きつけられた父が、大きな衝撃を受けたことは間違いないだろし、別れる原因にまったくならなかったとは思えなかった。高校からずっと実家暮らしを避けてきた一方で、父はあの家でずっと一人暮らしをしているのだ。
ちらりと和輝から聞いたが、和輝の母、あの女性・宮田桜子が癌を患って、家を出た後まもなく死んだという事実を聞かされても、弁解にもなりはしないのだ。
一番、キスによって狂ったのは、龍司や和輝でなく、龍司の父・高原孝司の人生だろう。
「・・・おまえも、いい加減、泣きやめ」
「・・・龍、ちゃん、・・・許してくれる・・・?」
いじらしいというか、なんというか。
自分が言っても通じなかっただろうなあと思った。図体がでかいので、同じ台詞を言ってもこんな威力は自分には出せないだろうなあと、どこか冷静な心が感心するのだ。
「俺は、されたことのお返しはちゃんとした」
そうして、こうして滂沱の涙付きの謝罪も聞いてしまった。
長く続いた出来事はようやく、終わった。一つの区切りはついてしまったのだと感じていた。
「・・・おまえ。・・・俺が当時で、ファースト・キスだったんだよな。おまえは?」
「・・・僕?」
意味を図りかねて、ティッシュペーパーの陰から泣きはらした赤い目が龍司を覗いていた。
「おまえ、それ以前に誰かとキスしたことあったのか?」
龍司の素朴な疑問だった。自分はとても憤ったわけだが、じゃあ和輝の方はどうだったのだろうか。
「・・・そんなの。ないよ。あるわけない、僕、そのとき小学校一年生だったんだよ?」
確認されなくてもそんなことは龍司だってちゃんと知っている。
「ははっ、おまえにとっても俺が、ファースト・キス、ってわけね」
なんて無粋な話だと笑った龍司に、和輝はさらにつまらないことを言いだした。
「二回目も、龍ちゃん。僕がキスしたことある相手って、龍ちゃんだけだもん」
「おまえ、高校三年生だろ。恋人とか、そこまで深くなくても女の子とキスぐらい・・・したことないのか?」
「うん、ない。・・・恋人、いないし」
少し考えた後
「龍ちゃんは、高校のときに女の人、恋人いた?」
「いた」
「・・・キスとか、してた?」
「してた」
隠すのも変だろう。
「・・・そうなの・・・僕はいない・・・」
「おまえが、遅いんじゃないか?」
顔を覆っていた手が下りて、涙も止まったようだったが赤くはらした顔で、そうかもしれないね、とこっくり頷かれると、龍司の方がなんだか切ない気分になってくる。
もしかすると、龍司は和輝に対して憐れそうな表情を出してしまったのかもしれない。
普通に乾いた調子で喋っていたはずなのに、くしゃっと崩れはじめた。
「ファースト・キスは、僕の勘違いで意味無くって喧嘩の原因で、二回目はそのお返しで、もっと意味無いっ、僕がしたことがあるキスって、二回とも全然意味無いっーーー」
「泣くなっ、そんなことで!」
「だって、だってっ・・・」
ああ、もうっと言いたい!
それがその和輝の嘆きの解決になるかどうかなど、わからない。が、龍司に他によい方法も思いつかなかったから、とりあえず、だった。
泣く小さいのをちょろまかすために、こんな風に泣かれ続けるのは嫌なので。
「じゃあ、三回目はちゃんと意味があるものにすればいいだろ」
「・・・?」
ぐすぐすと鼻をすすり上げる、涙でずぶ濡れ顔だった。しかも、父がある日、家に連れてきた女性の連れ子。血の繋がりはない。そのうえ、戸籍を移してもいなかったので、完璧に人は、弟と認めないかもしれない弟だった。
けれど、誰がなんと言っても弟だと、龍司は思った。
恋人は放っておけるのだ。
犬猫、弱いペットは龍司には、放っておけない。
だけど、これは犬猫じゃあない。でも無視出来ず、世話をしないといけない。こういうのを、きっと弟と呼ぶんだろうと思った。
「三回目は、意味がある。今までをひっくり返して仲直りだ。そうすればすべて意味があるだろ」
龍司のデタラメな口八丁だった。
「嫌か?」
が、上手く和輝は欺されてくれたようだ。
「・・・べつに、嫌じゃない・・・」
「そうか」
笑顔を作ることなど、社会人の常識的な作業だろう。
けれど、貼り付けたものは一瞬固まった。
「龍ちゃんのこと、はじめからずっと、僕は好きだったよ・・・だけど、龍ちゃんの方が、僕のことを嫌いだったんだ」
真剣な顔で言われるので、まじめに考えて返していた。
「別に、嫌いじゃなかった。・・・腹が立つことはいろいろあったが」
「ほんと?」
嬉しそうに、眩しいほどの素直な表情で確認されると年寄りは大抵、捻くれるものだろう。
「さあ、忘れたな。十二年も昔のことだからな」
「もうっ!」
「・・・ああ。そうか、おまえから『龍ちゃん』と呼ばれていたのか。だからおまえの『龍司さん』は違和感があったんだな」
「前みたいに、龍ちゃんって呼んでいい?」
それが和輝がずっと呼びたかった呼び方だった。
「許可も何も、もう呼んでいるじゃないか」
意地悪に言うが、怒ってはいないとはわかるのだ。だから和輝はえへっと笑っていた。嬉しくて。
そんな和輝の顎が龍司の指で摘まれた。
「あ、べつに、龍ちゃん、いいよっ、そんな無理してくれなくっ・・・・・・」
ちゅう、とキスだ。
唇を合わせて、相手への想いをダイレクトに伝えるコミュニティ手段。
優しいキスだった。
ああ。それが今回は思いやりに優しくて、甘いキスだとしてもだ。
和輝がこれまでしたものがすべて男相手で、自分で、女でも恋人でもないという特異的なことはなんら変わっておらず、解決だってしていないわけだけれど、龍司は言及しまいと思った。
そのうえ、犠牲的な・・・もとい慈愛に満ちる己の身のことも、考えまいと思った。これ以上、悩みたくなかったので。
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