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氷中花  作者: 綴奏
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誰がために 其ノ九

「以前、遊園地に行ったことがあったろ? あの時さ、美咲さんが若い男と手を繋いで歩いてるのを見たんだよ。学校でその話をした時に訊こうと思ったんだけど、あの時の俺にはまだ、そこまで踏み入ることができなかった」

 力の無い目をしたユリアに聞こえているのかもわからなかったが、吸血鬼は続ける。

「化粧が濃かったのはファンデーションで隠した首の痣を誤魔化すためだったみたいだ。あと、急に誘いがあったのも不自然だったし、たまたま眼に入ったメールの内容からして、彼氏がいるんだとばかり……」

 厚塗りのメイクを施した美咲の顔は、ユリアにそっくりだった。今にして思うと、軽蔑をしていながらも、心のどこかに姉の姿が見えていたのだろう。顔が似ていることもあるが、明らかにユリアを意識したメイクだ。恐らくは無意識のうちに、だろうけれど。

「彼氏ならよかったんだけど、その相手が母さんの再婚予定者とは思わなかったわ」

 目に掛かった妹の前髪を、ユリアは優しく分けてやっている。

「初めは普通に接してたみたいだけど、次第に美咲にちょっかいを出すようになったらしいの。昨日は母さんが帰らない日だったらしくて、あの男が調子に乗って家に押し入ろうとしてたってわけ。キスマークは車の中で前日に無理矢理つけたらしいわ。――殺す勢いで脅したから、嘘はないと思う」

 ――バチッと、ユリアの目から火花が散る。恐らく、赤月も彼女と同じ能力を持っていれば、同じ現象が起きていたことだろう。

「もしかしたら、うちに泊まってやり過ごそうとしてたのかもな。だけど俺が余計なこと言った上に、この視力が、美咲さんを完全に追い詰めちまった……」

 避雷針美咲らしからぬ行動の数々。あれは強要されたことを記憶から消したいという気持ちがさせたもの。それが叶わなくとも、せめて上書きしたいという彼女の気持ちの表れかもしれない。

「そんなことない。二人が助けてくれなかったら、取り返しのつかないことになってた。今のこの状況もそれに当たると思うけど、最悪の事態だけは避けられたと思うの」

 もし、避雷針美咲にこれ以上手を出していたならば、彼女の姉はその男を殺していたかもしれない。仮に自分の妹が同じような目に遭っていたとしたら、兄の時雨は誰にも止められない赤時雨にさえなってしまうだろう。

「美咲さんが抵抗できなかったのは……お母さんのため、だよな」

 珍しくまともなことを口にした兄に驚いたのか、赤髪の吸血鬼は意外そうな表情になった。

「私がそうさせたって言った方が正しいわ」

 少し前にみせた、美咲のあの表情だ。

 自分を嘲笑うかのような、あの自暴自棄な表情をユリアも浮かべている。

「父さんがね、息を引き取る前に私に言ったことがあるの」

 天にいる父親を思い出そうとするように、彼女は朝日が注ぐ窓を見る。

「母さんは綺麗で若いから、素敵な人と出会ったら応援してあげてねって」

 両親も生きていて、それでいて円満な家庭を築いている赤月家。そんな兄妹は、ただ聞いていることしかできなかった。

「今になっては七歳の小学生には荷が重いと思うけど、父さんも父さんで、必死だったはずだから、本心をすべて私に曝け出したんだろうなぁ。――あれ以来、私は真面目ちゃんになったの。元々バカみたいに元気なのもあったし、美咲はそんな私に懐いてくれてた。……結局、一人暮らしを初めて反動がきちゃったんだけどね」

 高校生になってから姉の素行が悪くなったと、美咲は口にしていた。しかし、彼女には知る由もなかったのだろう。やんちゃだった姉が父親の死をきっかけに、恐ろしいほど真面目な生徒になったことを。いたずら好きで、男の子とも喧嘩ばかりしていた姉のことを。 

 美咲が知る姉は、初めからエリートで、周囲に元気を振り撒く、憧れの「おねーちゃん」だったのだから。

「私が高校生になってすぐ家を出たのは、新しい家庭環境を美咲と作って欲しかったからなの。あまり年上の娘がいると、再婚相手が見つかっても溶け込みにくいものじゃない」

 相変わらず自嘲するような表情をしているユリア。彼女を見た赤月は、胸が苦しくなってきていた。

「そんなこと……ないって」

 不思議そうな表情で彼を見つめ、彼女は微笑んで続けた。

「けどね、私は極端な性格だから、どこかムキになってたみたいで、避雷針家には私はいない方がいいみたいに思ってたの。そのせいで可愛い妹とも上手くいかなくなったし、母さんとも以前の関係には戻れなくなってた。――それに」

 兄が動こうとする前に、妹の夜宵が小さく首を振って、彼を制止した。

「それにね……父さんは、私にもうひとつお願いをして、死んでいったの」

 赤髪のツインテールを揺らしながら、小さな吸血鬼が足を進める。


『美咲のことを頼むな。ユリアおねーちゃん――』


「――なのに、……なのにっ!」

 ユリアとは反対側、つまりは眠る美咲の足元に腰掛けている赤月の表情は暗い。彼女の傍に行ってやりたい気持ちで一杯だったが、それは叶わなかった。サードバレットの悲しみを受け止め過ぎた彼の身体はもう、上体を起こしているのが、やっとだったのだ。

「美咲は父さんの温もりにも、優しさにも……触れることができなかった。なのに私だけ、私だけ父さんの思い出を持ってるなんて……あんまりにもズルイよ――」

 ユリアの涙袋の上には、もう限界まで、悲しみと後ろめたさの雫が溜まっている。


 母親のことと、妹のことで、父と交わした約束。

 七歳の頃から、自分なりのやり方でそれを果たそうとしてきた。


 しかし、気づいた時には、自分の心と家族関係のバランスを崩し始め、彼女は二つの約束の狭間で苦しみ続けた。自分の心と存在を、否定し続けてしまった。


 そして、母親の相談相手にもなれず、やっと再開したときには、目の前で再婚予定者に暴力を振るった挙句、別れさせた。さらには、ずっと妹の心の悲鳴にも気づいてやれなかった自分を見てしまっている。


 きっと彼女は、今この瞬間も、自分の心を刺し続けている。


「私のせいで……美咲が……」

 赤月夜宵が、避雷針家の長女の頭を撫でた。

 ユリアは子供のように夜宵を見上げると、震える声と共に、涙を零す。

「美咲が――――壊れちゃう」


 壊れかかった、いや、既に壊れてしまった避雷針ユリア。

 それでもなお、妹と、母と、亡き父のことだけを想って、涙している。

 自分の心の傷に、気づけないまま――

「お父さんの愛情は、ユリアにいーっぱい注がれてるの」

 次々と溢れ出してくる涙をハンカチで受け止めてやりながら、夜宵は続ける。

「そんなおねーちゃんが自分を大切にしないで、どうするの? お父さんの代わりに、お母さんや美咲さんを支えてきたのは……あなたなの」

 いつも明るく振舞い生徒から人気の、避雷針ユリア。

 そして、赤月家に元気をもたらしてくれる、そんなお姉さん。

「あなたが自分の心を大切にすれば、きっと避雷針家は元に戻れる。――ユリアのことは、みんなが必要としてるんだから」

 俯いたユリアから落ちた大粒の涙が、パタパタと音を立てて弾けていく。

 その音に、その悲しみに、その優しさに、気づいたのだろう。

 夢の中にいる少女が、そっと囁く。

「――ん。おねー……ちゃん」

 眠りながら、小さく微笑んだ妹。

 美しく、そして強く育った、美咲の姿。

 きっと姉のユリアには、それを見ることはできなかっただろう。

 もう、咽び泣く彼女の顔は、両手で覆われていたのだから――


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