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氷中花  作者: 綴奏
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花裂く夕刻 其ノ七

 

 ◆


 食事を取った後、寝間着として寝衣を渡されると、赤月だけやたらと喜んでいた。もはや一泊二日で高級旅館に遊びに来ていると勘違いしているようだ。おまけにそれぞれに部屋を充てがわれたのだから、そう思ってもおかしくはないのかもしれない。

 家族で旅行をした時は、決まって夜宵と旅館内を探検していた吸血鬼は、糸車家の屋敷の庭や道場を見たいと言ってはしゃいでいた。けれど、風呂を上がってから急に眠気が襲ってきたらしく、すぐに爆睡してしまっている。

 そんな吸血鬼の部屋には風呂上がりの涼氷の姿があった。探検することが叶わず眠ったことを悔いるように、彼の上半身は布団から這い出すように畳にへばりついている。無防備に口を開けている吸血鬼の寝顔をどう思ったのかはわからないが、涼氷はそっと彼の髪を撫でた。

 青髪少女はしばらくの間、赤月の傍に座りながら庭を眺め続けている。その光景は修学旅行でのそれを思い出させるものがあった。碧井涼氷が寝込んでいたあの時、ずっと傍にいた吸血鬼のあの姿だ。今は、青髪の少女が黒髪の少年を見守っている。そして、彼がお腹を冷やさないように掛け布団を直してやると、涼氷は自分の和室へと戻っていく。

 ――その途中、彼女の耳には水の音が届いたのだろう。縁側から広い庭に出た青髪の少女。その音に誘われるように、それでいて迷うように、暗闇の中を彷徨い始める。月明かりと音を頼りに進んでいくと、大きな池に辿り着いた。

 玉砂利の敷き詰められた綺麗な庭は、まるで真っ白な海のように思える。その白い海の中に、大きな石に囲われた池が浮かんでいた。

 その縁にしゃがみ込み水面を見つめる時の異能者、碧井涼氷。真っ白な死海に取り残された美しい少女の目の前には、月明かりに輝く蝶々が現れる。

「――あ」

 しかし、枯れ葉が空から舞い落ちるように、水面に水の輪を描く。彼女が手を伸ばし蝶々をすくいあげようとした――その時だった。

「気に入ってくれたのか」

 涼氷の真後ろから聞こえた、凛とした声が時の異能者の動きを奪う。それはまるで、彼女の時を止める能力を、自らに掛けられたかのようだった。――いや、この場合は蜘蛛の糸に捕らわれたかのように、と言った方が正しいかもしれない。

「あの黒布を捜していたのだろう?」

 手がピクリと反応したと同時に、涼氷はその動きを取り戻した。けれど、彼女の手が届く前に、水面でもがく蝶々を鯉が飲み込んでしまう。大きく揺れる水の鏡には、行き場を失った白い手がぼんやりと映っていた。それを見つめる碧井涼氷の目からは、光が失われている。

「どうして、あれが人間ではないとわかったのですか?」

 涼氷は池を見つめたまま問う。

「私は気配などに敏感でね――すぐに人間ではないとわかった」

 この発言からして、あの液状化現象を見る前から、人ならざるものだとわかっていたようだ。

「そうですか。――けれど、あなたの場合には、あまり関係のないことだったのでは?」

 涼氷の刺々しい言葉が聞こえたのか、池の奥にいた鯉たちが暴れ始めた。向こう側から生まれた大きな水の輪が、身を削るように広がりながら押し寄せてくる。

「そうでもないな。人間であった場合、あまり目立つ殺し方をしては面倒なことになる」

「まるで殺人鬼のセリフですね」

「否定はしないさ」

 ポチャン――という音が池の奥から響くと、碧井涼氷はさらに刺々しい口調で言った。

「赤月くんを殺すつもりですか?」

 一瞬の沈黙の後、紫煙乱舞は感情を感じさせない言葉を風に乗せ、こう答えた。

「――やはり、気づいていたか」

 しゃがんだまま寝衣の裾を強く握り締める涼氷。彼女の背後に立っている蜘蛛の姿は水面に薄っすらと浮かんでいるものの、その表情までは読み取れなかった。

「彼の食事に手を出した時――僅かにあなたの様子が変わりましたから」

「君のその警戒心を少しでも時雨君に分けてやって欲しいものだ。――しかし、おかしいな。それなら何故止めなかった? 何に睡眠薬が入っていたか、大体の予測がついていたのだろうに」

 夏の夜風が髪を撫でるなか、青髪の少女は夜空を見上げた。そこには、いつも暗闇のなかで眼を光らせる月の姿がある。

「あなたがその気になれば、赤月くんに意識があろうとも歯が立ちませんから。それに、ここには、この状況には、彼があなたから守るべき者はいませんし」

 風の流れに乗るように、短刀を鞘から引き抜く音がスラリと響く。

「私が君を殺さないとでも?」

「あなたは私たちのような弱い異能者になど興味はありませんから」

「確かに――その通りだ」

 つまらなそうに短刀を収めた蜘蛛の異能者は、時の異能者に背を向けて言った。

「別に時雨君を殺す気などないよ。――君と二人で話をしたかっただけだ」

 夜空の月から視線を外した涼氷は、水面に映るそれを見つめ始めた。

「なら、彼を眠らせる必要などなかったのではないですか?」

 突然、玉砂利を弾き飛ばすようにして短刀が地面に突き刺さった。返り血を滴らせている刃の先には大きな蛇の頭がある。どうやら、闇鍋の話は強ち冗談でもなかったようだ。思わず飛び跳ねてしまうような音がしたにもかかわらず、碧井涼氷は相変わらず水面を見つめている。

「彼は耳がいいからな。――色々と都合の悪い話を聞かれるのは困るだろう」

 目の前で鯉が大きな口を開けて飛び出してきても、涼氷は驚く素振りをみせない。その一方で、勢いよく広がっていく水の輪は彼女の警戒心の現れのように感じられた。

「――目的を言ってください」

 青髪少女の目付きは、まるで刃のような鋭さを帯びている。それに恐れをなしたのか、彼女の様子を窺っていた鯉たちは暗闇の中に消えていく。

「腕の立つイレギュラーに心当たりがあるのであれば、私に教えて欲しい。その様子では何の情報も掴めずに追われているだけのようだがな」

 それを聞いた時の異能者は、呆れたように溜め息をついた。

「――誰かを殺したくて、仕方がないのですね」

 蛇の死骸から短刀を引き抜いた椿は、口元を歪ませながら答える。

「君がボディーガードを雇っていなかったのは、非常に残念だ」

 蛇の体液を刃から振り払った少女は屋敷に戻ろうとしたが、ふと思い出したように足を止めた。

「君がどうなろうと知ったことではない。ただアドバイスをするならば、時雨君に事実を話し、彼の傍にいるのが一番安全だと、私は思うな」

 涼氷が何も答える気がないと判断したのか、糸車椿は玉砂利を踏み鳴らしながら去って行く。

「なんにせよ、ゆっくり休むといい――ここは安全だ」

 池の縁に残る時の異能者は、底から浮き上がってきた蝶々の羽を見つめる。

 碧く綺麗なその羽は、無残にも千切れてしまっていた――


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