花裂く夕刻 其ノ六
赤月から見ても不審な者の気配はなかったが、念のため彼らは早足で一本道を抜けた。屋敷の大きな門を抜けたところにいた和服の男に、椿は何かを囁いている。恐らくは警備を強化させるつもりなのだろう。
赤月たちのような生活環境の人間には理解し難いものだが、政界で力を持つ糸車氏の屋敷には、あちこちに和服姿の見張り役がいた。糸車家の関係者ともなれば、かなりの実力者ばかりのはずだ。とはいっても、吸血鬼は安心するどころか、その厳かな雰囲気に怖気ついてしまっていた。涼氷に至っては、かなり不機嫌になっているようにも見える。
青髪少女の機嫌は食事の最中も特に治る様子はなかった。それにしても、これが友人の家でする食事と言えるのだろうか。赤月と涼氷が通された客間でお茶を飲んでいると、懐石料理のようなものが運ばれてきたのだ。一泊夕食付きでいくらになるのか訊くのも怖くなるくらいの豪華さ。それが当たり前のように、慣れた様子で箸を進める糸車家の長女。
――テレビを観ながらの、妹と話しながらの食事。それに慣れていた吸血鬼としてはあまり居心地が良くなかったらしい。どうもいつもより口数が少ない。涼氷はといえば、機嫌は悪いものの、至って普通にしている。よくよく考えてみれば、時の異能者は決まってお金持ちであるため、彼女もお嬢様なのだ。
「時雨君、口に合わなかったかな?」
「そんなことないです! ただ……」
「ただ……どうした?」
背筋をピンと伸ばしている糸車椿は、御淑やかな微笑みをみせた。
「――っ!?」
落ち着いた食事の席――突如大きな音が響くと同時に、机と食器たちが揺れる。這うようにして座布団の上から逃げ出した吸血鬼は、酷く情けないものだった。そして、恨みの込もった顔で後ろを振り向く。
「くっそ……何すんだてめえっ!」
「足が痺れている人間を見たら、誰だって突きたくなるものです」
「突くどころかグーで殴りつけただろーが!」
青髪の少女は吸血鬼の相手をするのにもう飽きたのか、マグロの刺身を彼の皿に乗せ、代わりに甘エビを奪っていった。ちなみに赤月が大好きなお吸い物を奪うフェイントまで掛けている。
「おい、人様の家でそういうことすんなよ」
プイッとそっぽを向いた涼氷はエビの尾を吸血鬼の皿にそっと戻している。
「普段通りにしてくれて構わないし、時雨君も無理に正座しなくていい。私も足の痺れに苦しんでいる君を見ると、ちょっかいを出したくなってしまうしな」
「それだけはやめてください。食事をしましょう、食事を――」
赤月が必死になるのも無理はない。席を立とうとした椿の手は、既に拳を作っていたのだ。冗談であっても涼氷の真似をされては、骨の方が逝ってしまう。喜んでくれるとでも思っていたのか、蜘蛛の少女は残念そうな顔をして座り直した。
「ちなみに、今日は泊まっていってもらうが――問題ないね?」
口元は笑ってはいるが、彼女の視線の鋭さからは警戒が見て取れた。それに気づいた赤月は即答する。
「お願いします。――涼氷、お前も今夜は泊めてもらえよ」
足を床につけないようにしている姿は滑稽ではあったが、吸血鬼の眼は真剣だった。不審な人物がまた出没しないとも限らないし、夜に出歩くよりは椿の言葉に甘えた方が得策だ。何より、蜘蛛の巣の中心に自ら飛び込んで来る者など、まずいないだろう。涼氷は椿にチラリと視線を向けた後、赤月時雨と目を合せて言った。
「赤月くんには私がついていないと心配ですからね」
「あーはいはい、そうですねー。……やめろやめろっ! 箸はやめろよっ!」
急に騒がしくなったのを心配した給仕の者が、そっと襖を開けて覗き込んでいる。それに気づいた糸車椿は、小さく首を振った。その一方、吸血鬼を襲っているようでいて、青髪の少女の意識はもっと別の場所にある。そう思っているかのように、そう確信しているかのように、紫煙乱舞は青い目を光らせながら汁物を口に運んだ。