花裂く夕刻 其ノ四
――そして、静かだった小川には凄まじい破裂音が響き渡ると同時に、真っ赤な血が辺りに飛び散った。深緑色をした『荊棘迷宮』が操る蔓は姿を変え、今や薔薇のような色に塗り替わっている。
痛みに顔を歪め身体を起こした忍は伊原の姿を確認した。すると、ほっとした表情を浮かべてみせる。が、飛ばされた茂みから彼に一歩近づく度に、彼女の顔は青くなっていく。
何事も無かったかのように立っているセカンドバレット。彼の足元に散らばっている物が破裂したと思われる黒布の残骸だけではないことと、ポタリ、ポタリと血が滴っていることに気づいた蛇の少女は、力無く座り込んでしまう。
伊原の身体に巻き付いていた蔓――今となっては残骸となったそれが落下していく。彼の胸部や腹部を保護していたであろう蔓は既に彼の足元にあったが、原形を留めていない物ばかりで、ほとんどが消し飛んでいるようだった。その下にあった彼の身体は、薔薇の地獄を見た赤月と同じくらい血塗れだ。
しかし、深手を負っているにもかかわらず、伊原は怠そうに歩き始めた。忍は何かを言おうとしたものの、口が動くだけで肝心の言葉が何も出ないらしい。
「――忍ちゃん!」
茫然としていた蛇の少女の心を引き戻したのは、彼女の後方から駆けて来た避雷針ユリアの声だった。相変わらず動揺をみせない涼氷が手を引かれていることから、無事に救出されたらしい。
「忍ちゃん、怪我してるの!?」
弾けるように血が飛び散った現状を目の当たりにしたユリアは真っ青だ。半泣きの状態で傍にしゃがみ込んだ彼女に、忍は震える声で答える。
「アタシは平気だけど、あいつが……」
蛇の少女が恐る恐る振り向くと、そこにはもう伊原ヒロの姿はなく、大量の血が地面に染み込んでいるだけだった。そんな忍の不安そうな表情を見たユリアは、彼女を優しく抱き締める。
「伊原君ならきっと大丈夫。一応彼の自宅に行って確認してみるから、心配しないで?」
それを聞いた蛇の少女は不思議そうな顔をして、ユリアの大きな胸から顔を上げた。
「彼は――私のクラスの生徒なの。なかなか心を開いてくれないんだけどね」
教師として自分の未熟さを感じているのか、ユリアは困った顔をして微笑んだ。ぎこちなさと安堵の雰囲気が混在するなか、青髪少女が二人の傍にしゃがみ込むと小さな悲鳴が響く。
「イタッ!?」
よく見ると、怪我をしていた忍の膝には湿った脱脂綿が当てられていた。というのも、碧井涼氷はここ最近になってから消毒液と脱脂綿やらを持ち歩くようになっていたのだ。恐らくは、頻繁に怪我をしたり、自分を傷付ける吸血鬼のことを想ってのことだろう。
「二人とも――迷惑を掛けてごめんなさい」
いつも通り落ち着いた表情をしているものの、涼氷は若干俯き気味で言った。今回の相手が異能者なのかは不明な上に、人間ですらない可能性が高いのだから無理もない。状況がはっきりとしない上に、今まで経験したことのないような襲撃だったに違いないのだ。それを見たユリアは彼女の頭を撫でながら言う。
「こういうのは迷惑とかって問題じゃないの。碧井ちゃんが無事で本当によかった」
赤月時雨以外の人間に頭を撫でられることを異常に嫌う涼氷ではあったが、今回ばかりはその手を払おうとはしなかった。けれど、迷惑そうな顔をしているところからして、彼女の中では相当我慢しているようだ。そんななか、ユリアがスマホを手に取ったのを見た青髪少女はすぐさま反応を示す。
「避雷針先生、私はESPをあまり信用していないので余計なことはしないでください」
――余計なこと。その言葉に怒りを示したのは、ユリアではなく蛇の少女の方だった。
「碧井、アンタねえっ……!?」
鋭い視線で忍を睨みつけた涼氷は、彼女の時を奪ってすぐに口を塞いだ。
「それと――今日のことは赤月くんには言わないでいただけますか?」
美咲とそっくりな厳しい視線を送るユリアは、涼氷から目を離さずに答える。
「――しーくんには言わないでおいてあげる。でも、彼がそういうの嫌うタイプだってわかってる?」
「話がわかる大人の女性は尊敬に値します。ですが、今回ばかりはひとつだけ言わせてください。――赤月くんのことは私が一番良くわかっています。私の前であまり彼のことを知ったような口を利かないでください」
――酷く気まずい空気が流れた。さっきまで鳴いていたはずの蝉の声すらも、息を潜めるように止んでいる。忍はと言えば、涼氷の力からは解放されているものの、あまりの重い雰囲気に息をするのすら忘れているようだ。
「――なら、私も一つだけ言わせてもらおうかな」
せっかく助かったというのに、自体は悪化しているようにも思えた。忍が冷や汗をかいていることに、早く気づいて欲しいものだ。
「私はこの程度のことで怒りはしないけど、美咲には気をつけてね。あの子、怒った時は私より怖いから」
火花の散るウインクをしたユリアを見て、蛇の少女は大きく安堵の混じった溜め息をついた。その一方で、涼氷はニコリともしない。流石のユリアも全く反応が無かったことが虚しかったのか、溜め息交じりに続けた。
「まあ、いいわ。――あなたの親御さんには連絡する必要があるから、お家の番号教えて」
忍に絆創膏を手渡した青髪の少女はゆっくりと立ち上がる。
「家には誰も帰ってこないので、私とお話することになりますよ」
「……え?」
涼氷が実家暮らしであることを知っている二人の疑問の声が重なる。そんなことは関係ないとでも言うように、青髪の少女は無理やり会話を終わらせた。
「助けてくれてありがとうございました。今日はもう帰ります」
引き止めようと手を伸ばしてきたユリアの時を奪った碧井涼氷は、すぐに走り去っていってしまった。
赤月時雨にしか心を開こうとしない時の異能者、碧井涼氷。
彼女がユリアや忍から奪った時は、たったの二秒ではあったかもしれない。
けれど、彼女たちから奪ったものは、それだけでなかったはずだ――