青眼の蜘蛛 其ノ四
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放心状態の赤月の前にいるのは『紫煙乱舞』と呼ばれる少女。紫色の髪を一つに縛っている綺麗な三年生。涼氷や美咲も美人だが、美人という要素を一番高く備えているのは彼女だろう。ただ、美人過ぎるため、前髪がぱっつんでなかったら、少し怖いかもしれない。
その糸車椿が握り締めているのが木刀であったことは唯一の救いだった。模擬戦ということもあり、武器を用いる者は、学校側から用意されたものしか使えないのだ。適当なところで白旗を上げる作戦ではあったが、下手をすると頭を砕かれかねないため、赤月も木刀を手にしている。
――ついに開始の合図が出たものの、糸車椿は動こうとはしない。
「君の名は、赤月時雨君でいいのかな」
意外にも笑顔を向けてくる椿の態度に肩透かしにあったが、警戒している赤月は黙ったまま木刀を握り直した。それを見た彼女は毛を逆立てる小動物をあやすように言う。
「時雨君、私はこの模擬戦に興味はない。ただ、君に尋ねたいことがあるのだ」
上級異能者であり、黒崎学園のファーストバレットである彼女が訊きたいこと。
それは赤月が理解できる言葉ではなかった。
「私と一緒に、ESPに入らないか?」
異能犯罪者、つまりはイレギュラーを取り締まるESPは確かにやりがいのある仕事だろう。けれど赤月時雨は戦闘型異能者でありながら戦いを好まない。――いや、自分の能力を心のどこかで軽蔑している。そんな彼が自ら進んで戦闘組織に入隊しようだなんて思うわけがない。
「……え?」
「ん、どうした? 言いたいことがあるなら遠慮はいらない」
仰せの通り、吸血鬼は正直に答えた。
「じゃあ、少し手加減を……」
「そうか、残念だ」
突然、糸車椿の何かが変わった。
はっきりとはわからないが、殺気ではない何かが彼女の中で動き始めている。赤月がそれに気付いて木刀を構え直した時には、既に椿は眼の前に来ていた。持ち前の洞察力と反射神経で彼女が振りかざした木刀をなんとか受け止めるが、腕にまで痛みが走る。両手で木刀を押さえるのに精一杯だった赤月は、横腹を蹴られ吹き飛ばされてしまう。
この時、殺意どころか、もはや感情すらも感じられなかったことが不自然だった。まともに食らえば骨に異常をきたすレベルの蹴りを入れられている。しかし、あんなものを何の感情もなしに出せるものなのだろうか。
涼氷が不安や怯えをみせなかったのは、感覚的なレベルで語ると、自然だった。碧井涼氷という少女としては、自然だった。しかし、糸車椿の場合は何もかもが不自然極まりない。
――強過ぎて精神状態までもが、別の領域に達しているのだ。
ここで、赤月のいるエリアのホイッスルが鳴り響いた。蹴られた際に木刀を落とし、今や脇腹を押さえている彼に勝ち目はない。いくら頑丈といえど、あれを何発も食らえば命に関わる。
「くっそ……来年は絶対サボってやる」
『紫煙乱舞』が卒業すれば、二年生の伊原がファーストバレットとなる。そうなれば、サンドバックとしての役目以上の被害を受けかねない。
――ここで、糸車椿はつまらなそうに木刀を捨てた。それを見た赤月が安堵の表情を浮かべていると、彼女は制服のロングスカートを捲り始める。どういうわけか、学校で唯一、椿だけがミニスカートを履いていない。さらには、能力測定時であるにもかかわらず、制服を着替えようともしない。
そしてついに、その理由が恐怖と共に姿をみせる。
「君からはまだ、答えを聞いていない」
「それって……嘘……ですよね?」
赤月の視線の先には、隠し持っていた短刀を両手に握り締める糸車椿の姿があった。
『紫煙乱舞』
彼女の青眼を見た時には気絶しているとまで言われる浮世離れした強さ。
紫煙の如く紫の髪を揺らし、二本の短刀を舞うように振りかざす、美しき蜘蛛。
「ちょっと、止めなさいよ! アンタたちがやらせてるんでしょ!?」
とある若い女教師がESPの副大佐に止めに入るよう騒いでいる。
「あーもう、うるさいなあ。いざとなれば止めに入るって。それより、隣の方がヤバいから。ほらほら、薫も行って行って!」
眼の前の危険人物から眼を逸らすのは得策ではない。
しかし、赤月は逸らさずにはいられなかった。
助けると軽々しく口にした自分を責めずにはいられなかった。
――声も出せないほど、何かで縛り上げられている美咲が、そこにはいたのだから。