花裂く夕刻 其ノ一
夏休みの中盤に差しかかった今日も、私立黒崎高等学園は生徒の活気に溢れている。グラウンドで汗を流す運動部員、冷房の利いた教室で神経を研ぎ澄ませている文化部員。彼らが貴重な青春を謳歌している一方で、一部の教室からは補習授業を受け終わった生徒たちがトボトボと下校し始めた。
その中に、終始誰とも言葉を交わすことなく補習をこなした少女がいる。校舎を抜け校門へと向かう間も、道行く生徒たちを避けるようにして歩く。そんな彼女はとある人物の視線に気づいているようではあったが、無視を決め込んでいるらしい。
つまらなそうに校門に立っていた少女。彼女の服装が紺色のスカートであることから、公立高校の生徒だと一目瞭然だ。
「ちょっと! 無視しないでよ!」
流石の青髪の少女も行く手を阻まれて観念したらしく、溜め息交じりに答える。
「上羽巳さん――何をしているんですか?」
「赤月は?」
鼻歌でも歌い出しそうな表情の蛇の少女は、黒崎学園の敷地内を覗き込みながら言った。どうやら今日補習があること、それに赤月時雨が出席しなければならないことを知っていたらしい。ちなみに吸血鬼が授業を抜け出す度に後を追うものだから、涼氷も補習の対象になっている。おまけにペンを使うと手が疲れるとのことで、試験も前半しか解かないこともその要因だ。中間試験はどのテストも前半の四十点分だけ全問正解であったため、成績上では赤月とほぼ互角という捻くれた秀才なのである。
「かき氷の食べ過ぎでお腹を下したらしくて、お休みですよ」
「あのバカ吸血鬼……せっかく暑いなか待ってたのに!」
体調不良の原因が酷過ぎるため「バカ吸血鬼」という言葉に同意するように頷いた涼氷であったが、赤月がいないことに文句を言い始めた忍にも軽蔑の視線を向ける。
「その様子だと長いこと待っていたんじゃないですか? 赤月くんのスマホに連絡しなかったあなたも馬鹿だと思いますよ」
「そんなのつまんなくない? スマホとか便利だけどさ、なんかこう……偶然会える嬉しさっていうか」
ひとりで照れ始めた蛇の異能者といるのが嫌なのだろう。青髪少女は、その言葉を聞くと距離を取り始めた。
「待ち伏せをしておいて偶然も何もないと思いますが。そもそも、そんなものを勝手に期待しておいて文句を言うのも筋違いです。馬鹿が移ると嫌なので私はもう行きます――それじゃ」
「あ、ちょっと待ってよ! アンタお見舞いとか言って赤月の家に行くつもりでしょ!
「彼女として当然です」
振り返ることなくそう答えた涼氷の後を蛇の少女が追う。
「アンタみたいな妄想女は何するかわかんないから、アタシも行く!」
ここで急に振り返った碧井涼氷は、忍の綺麗な金髪の一束を手に取った。いつもはハーフアップにしている忍ではあったが、今日は下ろしている上に、妙にサラサラのストレートだ。
「――上羽巳さん」
「……な、何?」
涼氷の視線から逃げるように目を逸らした忍の表情は、どこか引きつっている。
「最近、やたらと髪型を変えていますね」
「き、気のせいじゃない?」
丁寧にヘアーアイロンがかけられた金髪を放した涼氷は、自分のストレートの青髪を払うようにして風に靡かせる。それを目の前で見ていた蛇の少女の様子からは、青髪の少女美しさに見惚れているようにも思えた。
「確かに赤月くんは私や避雷針さんのようなストレートヘアが好みのようですが、私たちの真似をしたところで好かれるわけではありませんよ?」
「う……うるさい!」
あまりにもストレートな物言いをするものだから、忍は耳まで真っ赤にしてしまっている。思春期の女子高生は色々と大変なようだ。黒崎学園指定のワイシャツの上からもわかる涼氷の形の良い胸を一瞬見た後、蛇の少女は悔しそうに唇を噛みしめた。すると、青髪の少女は俯く忍の顎に手を当てて、無理矢理うえを向かせる。
「綺麗な緑色の瞳に、笑った時に見えるその八重歯といい、私たちにないものを持っているでしょう。あなたはもっと自分の魅力を知ることです」
キョトンとした表情になった上羽巳忍が目を見開くと、涼氷が誉めた宝石のような瞳が光を取り戻していく。
「自惚れするような勘違い女になるのではなく、まずは自分に自信を持つといいのではないですか? きっと赤月くんは外見よりも心の方を見ている――そう思いませんか?」
先程とは違う意味で悔しそうな顔になった蛇の少女は、拗ねたように言う。
「たまには――いいこと言うじゃん」
「あなたの頭の中が空っぽなだけです。いつも思うのですが、叩くと木魚みたいな音がしますし」
再び俯いた上羽巳忍はプルプルと震え出し、腹の底から怒りの声を上げる。
「やっぱアンタ嫌いっ!」
――そんな二人は今、口喧嘩をしながら小川の横を歩いている。道路沿いの通りよりもひとつ内側の小道。ここはカップルがよく通る道として知られている。会話が無くとも小綺麗な道と緩やかな水音が初々しい男女を優しく包んでくれるため、口下手な男子は決まってここを通りたがるのだ。
「――なかなか良い場所ではありませんか?」
涼氷から一方的な言葉の暴力を受けていた忍は、やっと小川に気づいたらしく、口を開けて水の流れを見つめている。
「う、うん、結構……好きかも」
ここに越してきて一年と少し経つ忍にとっては、この地域についてまだまだ知らないことがたくさんあるようだ。口にはしなかったが、ここを教えてくれた涼氷に少しだけ感謝しているように思える。
「私も大好きな場所なんです。人気が無いからって、赤月くんが私をよく連れてきては、あんなことやこんなことを――」
「嘘つくなこの妄想おん……な?」
忍の声に重なって後ろから自分の名を呼ぶ声が聞こえてくると、青髪少女は仏頂面になった。彼女の視線の先には、ヒールを鳴らしながら走って来るボブヘアーの綺麗な女性の姿がある。
「あの綺麗な人って薔薇男の時もいなかった?」
「……私たちの天敵ですよ」
息を切らして屈んだその女性の大きな胸が、真っ白なワイシャツの内側で窮屈そうにひしゃげていた。忍は日本人平均サイズの自分のそれを見つめる。そして、自分よりも二段階上のサイズの涼氷のそれを見つめると――溜め息をついてしまった。やはり、コンプレックスというものは、そう簡単に克服できるものではないのだ。
「碧井ちゃん、しーくんのお見舞い行くんでしょ?」
「はい」
反則的な色気を武器に赤月にベタベタする避雷針ユリアのことが好かないのか、涼氷は素気ない返事をした。その隣では耳を疑うような表情をした忍が、青髪少女の横顔を見つめる。
「……しーくん?」
「もしかして、あなたが忍ちゃん? しーくんから話は聞いてたけど、ホントに綺麗な瞳してるんだね。八重歯も可愛いっ!」
いきなり女性教師に抱き締められたものだから、上羽巳忍は思わず目をキュッと閉じた。
――忍に対する嫌がらせは生徒たちだけでなく、教師からも受けていたことが後になって判明している。そのせいか、少しだけ怯えたような表情をしたものの、優しく彼女を抱き締めるユリアからは敵意を感じなかったらしい。傷付いた蛇の少女の表情は少しずつ緩んでいった。
忍は赤月と伊原が戦っていた時に顔を知ったようだったが、直接言葉を交わすのは初めてであったため、涼氷から簡単な紹介がなされる。その際、以前遊びにいった遊園地のチケットをくれた人物だとわかり、忍は丁寧に御礼を伝えた。
ユリアと初対面の忍、プライベートで天敵と話をするのは初めての涼氷、そして、教師という威厳のある立場のユリア。この三人の会話はぎこちないものになりそうだったが、生徒に近い立ち位置で話そうとするユリアは、それを感じさせなかった。
気づけば忍とユリアは赤月の良いところを競うように挙げては、黄色い声で盛り上がり始めている。その傍ら、青髪の少女は付き合い切れないといった様子で、そそくさと先を歩いた。
――その数分後、涼氷が足早に進んでいった方向から聞き慣れない音が響く。
そしてそれが、悪夢の始まりを告げることとなる。