青眼の蜘蛛 其ノ三
◆
黒崎学園で一番大きな運動場である第一グラウンド。そこから校舎に向かう途中にはいくつものベンチが並んでいる。その中でも不便な場所にある、つまりは誰も使わないベンチに吸血鬼の姿があった。
しかし、今日はひとりではない――というよりもむしろ、一人でいさせてもらえなかったのだ。そのベンチで休んでいた青髪の少女は手渡されたスポーツドリンクをひったくっている。
「遅いです」
「勝手にバテた上に、飲み物買わせといてそれはないだろ」
あの一件で気づいていたことではあるが、碧井涼氷は我儘で捻くれている。転校生の上に美人ともなれば、男子生徒はもちろん、女子生徒からも気になる存在だが、気づけば彼女に話し掛ける生徒はいなくなっていた。
一緒に測定を回ろうと誘われても男女関係なく断り、話し掛けられても無表情で生返事をし、あまりにしつこいと完全無視。用がある時にだけ、赤月に話し掛けてくるあたりからして、彼は完全に下僕扱いだった。
碧井涼氷に財布を渡した後、赤月は一人で測定をこなしている。しかし、彼女は誰かが話し掛けてくる度に彼の所に避難したり、彼の進行具合を確認しに来たりした。仕舞には眼の前でフラつくものだから、放っておけなかったというわけだ。
「なあ、お前が前にいた高校にも上級の生徒っていたか?」
「当然いませんよ。中級が十一名いたくらいです。それでも強豪と呼ばれていましたが、そもそもここと比較するのが間違いでは?」
「やっぱ、そういうもんなのか」
異能者が通う私立高校の内、ここ黒崎学園は上級の生徒が三名いる。中級が十名を超えた時点で強豪とされるこの世界では、別格の存在だ。他の高校で上級異能者がいるという話は聞いたことがない。ただ、いくら別格の高校とはいえ、赤月には腑に落ちないことがあった。
先程、本部席の近くで見た二人の人物。通称ESP5と呼ばれる、ESP上位五名の内、副大佐とフィフスバレットの二人がいたのだ。副大佐、つまり、セカンドバレットは白色の長髪に青のメッシュを入れた若い女性で、去年も見かけている。
しかし、今年は金髪の穏やかな表情を浮かべる男性の姿もあった。王子様のような容姿のフィフスバレットを見ようと、今も女子生徒が騒いでいるに違いない。ちなみに「バレット」というのはそのままの意味で、要するに犯罪者、特に異能犯罪者を撃ち殺す弾丸のことだ。
一人で考え込み何も言おうとしない赤月を、青髪の少女は不満そうに見つめる。
「――それがどうかしましたか?」
「いや、うちの高校には毎年ESP5の誰かが見にくるんだけど、今年は二人いたんだよ。能力測定は各校同時開催だし、うちに二人も来るのは変じゃないか?」
「それだけ注目されているのでは? 『紫煙乱舞』は三年生と聞きますし」
「ああ……あの人が卒業するから最後に見にきたってことか」
納得のいったところで赤月もベンチに腰を下ろそうとした際、とある放送が流れた。
『本日はこの後、模擬戦を行います。指名された者は必須、ESP志願者も事務局で受付をしているので是非参加してください。他の生徒は見学、もしくは待機していてください』
「そんな話ありましたか?」
どうやら、この話を聞いていない赤月だけでなく、涼氷も知らなかったらしい。ということは、これは事前に告知されていなかったと見ていいだろう。
「さあな。……俺は関係ないし、もう行くわ」
『指名された者は至急本部へ。一組目は糸車椿と赤月時雨……』
あまりの衝撃に赤月時雨は鼻水を噴き出した。
「行ってらっしゃいませ……」
「お前、最後に地獄へって言わなかったか!?」
「聴力テストです。お耳の調子も絶好調みたいですし、大丈夫ですよ」
可愛い女子が可愛らしくガッツポーズをみせたところで、萎びた吸血鬼には効果がなかった。もはや、散々馬鹿にしてくる彼女の前で意地を張る気にもなれないようだ。
「お腹痛くなってきた気がする。……俺、帰るわ」
しかし逃げるように走り出した赤月の逃走劇はものの数十秒で終わりを迎えた。幸か不幸か、たまたま通りかかった美咲に声を掛けられたのだ。
「あら、赤月君。私も呼ばれてしまったから、今から向かうところなの。一緒に行かない?」
知り合った美女の前で逃げるわけにもいかず、赤月は爽やかに答えた。
「ああ、俺も丁度行こうと思ってたとこでさ」
「それじゃ、お鼻を拭いてから行きましょう?」
「……」
貰ったちり紙を鼻水時雨の黒歴史と共に捨て去った吸血鬼は、美咲とグラウンドに向かっている。しかし、見栄を張らずにそのまま逃げだした方が正解だったかもしれない。
何故なら、『紫煙乱舞』と呼ばれる、あの糸車椿が相手なのだ。
黒崎学園のトップ。ESP5が見にきたのも彼女で間違いない。どう考えても、比較的耐久性のあるサンドバックとして吸血鬼が選ばれたとしか思えなかった。――それに、こんなイベントがなければ鼻水時雨として美女に認識されることもなかっただろう。
「……ねえ、赤月君は怖くない?」
「かっこ悪いこと言うけど……すげー怖いよ」
「そう、私もよ」
ハッとして美咲の方を見ると、冷静さを保とうとしているものの明らかに怯えていた。赤月が正直に語ったことで、彼女の心もどこか緩んでしまったのだろう。
「ちゃんと放送聞いてなかったんだけど……相手は誰なんだ?」
「セカンドの伊原よ」
はっきり言うと、赤月よりも最悪な対戦相手だった。糸車椿はズバ抜けて強いというだけで、悪い噂は聞いたことがない。それに比べ、伊原はまずいだろう。肩がぶつかっただけで、大怪我をさせられるような相手だ。
「……でもさ、美咲さんもサードの上級者だし、なんとかなるって」
確かに、上級異能者かつ三番手の彼女は、ランク十二の赤月とはわけが違う。
「自分で言うのもあれだけど、上に行けば行くほど、たったひとつのランクが大きな壁になっていくものなの」
自分がその世界に身を置いたからこそわかる恐怖。もしかしたら、本当の意味で怯えているのは美咲の方かもしれない、と赤月は思った。
「美咲さん、何かあったら俺の名前を呼んでくれよ。もし生きていたら、助けられるかもしれないし。身体だけは頑丈だからさ」
それを聞いた美咲は呆れたように微笑んだ。
「そこは嘘でもかっこいいセリフを言うべきです。……お互い、気をつけましょう」