血鬼の接吻 其ノ五
その声が聞こえたのか、赤月夜宵は泣き顔を上げた。見せ物のように生徒たちの視線に晒された兄。突如レッドアイの元凶だと罵られた兄。深緑の刺の檻に閉じ込められてしまった兄の声。
きっと、彼の声は大切な妹に届いていた。ずっと一緒に寄り添ってきた夜宵に届かないはずがない。失いたくない者を守ろうとする兄は、誰にも止めることはできない。赤髪の小さな吸血鬼が顔を上げた時にはもう、捕らわれの吸血鬼はその身を縛る蔓を切り刻んでいた。まるで、内側から切り裂かれるかのように、彼に触れていた部位がバラバラになっていく。伊原が自ら蔓を切り離す間もなく、セカンドバレットの身体は宙に浮いている。そして、強引に引き寄せられた薔薇の悪魔を迎えたのは、糸車椿にも匹敵する程の強力な蹴りだった。
防御力を強化するスキルを持たない伊原ヒロ。いや、一方的に相手を弄んできたが故に、身を守ったことがなかったセカンドバレット。彼は腹に蹴りを入れられると数メートル先へと吹き飛ばされていく。
「お……にい……ちゃん?」
血に染まったグラウンドに立っているひとりの吸血鬼。
瞳どころか白眼すらない。
ただあるのは血のような赤だけ。
赤眼の赤月時雨は、血の涙を流しながら立ち尽くしている。
荊棘に捕らわれた生徒や教師たちは、いつの間にか騒ぐことを放棄した。声を上げれば殺されるとでも思っているかのように、息を潜めている。
――血の雨を降らせたという、恐ろしい『赤時雨』がそこにいるのだ。興味本位で赤時雨が怪我をするところを見にきた多くの人間が、自分の愚かさを呪っているに違いない。その代償として悪魔の荊棘に捕らわれただけでなく、もっと恐ろしい、血に塗れた鬼を目撃してしまったのだから。
上級異能者であり、黒崎学園のファーストバレットである紫煙乱舞でさえ、あまりの光景に目を見開いている。
しかし、たった一人の少女だけは、赤時雨を目にしても何の動揺もみせはしなかった。さらには、臆することなく、危険を顧みず、殺人吸血鬼の眼の前に姿をみせたのだ。そして、血塗れの吸血鬼の首に腕を回し、そっと抱きつく。
赤時雨は血の涙を流したまま、真っ直ぐ前を見ながら妹の名前を口にしている。
彼にしか見えていない赤い世界の中で、妹を探すかのように。
「赤月くん、夜宵さんは無事ですよ」
それが彼の耳に届いたのか、真っ赤な眼からは血の涙が徐々に途切れていく。
「赤月くんの大切な人は、誰ひとり欠けてはいません」
涼氷がゆっくりと首から離れると、吸血鬼は傷付いた左手を見つめた。
いつも切り裂く左手の甲。
自分の身体で一番嫌いな箇所。
赤時雨の事件で唯一無傷だったその左手が、人の命を奪ったに違いない。
そう思わずにはいられない彼は、いつも決まって左手を傷つけてきた。
この手は――
「この手は人殺しの手などではありません」
吸血鬼は青髪の少女に視線を移す。まるで初めて出会ったあの時のように、綺麗な青い髪と、氷のように透き通った肌を見つめた。そして、あの時にはなかった、彼女の微笑みを眼にする。
「大切な人を守ろうとした、紛れもないあなたの手です」
涼氷は傷付いたその左手を、両手で包み込む。
「もう気づいているはずです」
綺麗な水色の瞳が問い掛ける。
「あなたにはもう、友達がいるでしょう?」
気づけば、透明に輝く涙を流している吸血鬼の眼は、それに洗われるように元の色を取り戻していく。ずっと認めなかったことを。ずっと口にできなかったことを。赤月時雨は碧井涼氷に伝えた。
「俺には――大切な友達ができた。だから俺は誰にも負けない。お前らを守るためなら、絶対に」