偽りの強者 其ノ八
――赤時雨。血の時雨を降らせた悪魔。小学生にして、大人の異能犯罪者を惨殺した少年。その現場は、まさに血の海だったと言われている。赤月本人は、あの事件現場の出来事をはっきりと記憶してはいない。ただ、鮮明に心に刻まれているのは、妹が眼の前で殺される恐怖と、何もできなかった自分の弱さだった。
「……弱い人間の立場を、何もできなかった辛さを知りもしないで、……勝手なことばっか言いやがって」
赤月が涙を浮かべているのを目にした夜宵は、胸が締めつけられる思いだったに違いない。彼女が噛み締める唇からは血が滲み始めていた。痛みからか怒りからか、赤月は俯いて言葉を飲み込んだかと思うと、再び睨み付けるように顔を上げる。彼の脳裏には、自分の肩に咬み付いて涙を流す忍の姿も思い浮かんでいた。
「……お前は本当に追い詰められた人間を、その目で見たことがあるか」
赤月を絞め付ける蔓の力が強くなり、その深緑の悪魔を血が滑り落ちる。それでも吸血鬼は歯を食い縛り堪えている。肩から受け入れた上羽巳忍の孤毒と過去の自分を責める気持ちが、どす黒い色へ変わりながら混じり合う。
「あの恐怖と悔しさが……自分を呪う人間の弱さが……」
いくら頑丈な赤月でも、もはや危険な状態だった。いくら血液が流れにくいとはいっても、既に血を流し過ぎている。おまけに例の毒が抜け切ってはいない。
「お兄ちゃん、もういいから……もうやめて……」
夜宵だけではない。その場にいる誰もが、これ以上伊原に刺激を加えれば、確実に命を奪われるとわかっていた。ユリア以外の教師陣は、責任を押し付け合うように言い争っているだけで、まるで役に立ちそうにない。
伊原ヒロは青筋を立てて危険な目を光らせている。どんなに絞め上げても怯まない吸血鬼。セカンドバレットの自分に恐怖の色をまるでみせない赤月時雨。それだけで、彼を殺す理由になる。伊原ヒロという上級異能者は、そういう人間だ。赤月自身も危険な状況だと理解してはいたが、怒りに満ち溢れた彼は、言わずにはいれなかった。言わなければならなかった。
「……お前の力じゃ何も得られない……何も……守れやしない」
伊原ヒロの指がピクリと動く。
「お前はくだらないプライド以外何もない……偽りの強者だ」
――どこかでわかっていた。それ故に見て見ぬ振りをしてきたのだろう。そして、一人の吸血鬼の言葉が、彼の心からそれを抉り出した。
伊原ヒロがそれを認めることなどできるはずもない。彼がずっと突き進んできた道を、強者としての自負を、全て否定してしまうことになるのだから。
――だから、捕食者は獲物にトドメを刺した。
赤月の身体に刺を食い込ませている蔓を、一気に引き抜いたのだ。