偽りの強者 其ノ六
「お兄ちゃん!」
「やだっ、赤月!」
蔓に縛り上げられていた赤月からは、縄を思いきり締めるような音が聞こえてきそうだった。何度も身体を反して苦しんでいる様子からして、締めては緩めを繰り返されている。
誰もが恐れる赤時雨は、今やただの小動物でしかなかった。捕食者に捕まった時点で獲物の命は終わる。しかし、そう簡単に殺してはつまらないという、強者側の都合で動けなくなるまで弄ばれるのだ。食料となるわけでもなく、ただの遊びとして命を奪われる世界は動物たちに限ったことではない。今まさに、その惨劇が、いや、当たり前の光景が、人間界に現れただけだ。
そして、強者には強者同士の世界も存在している。糸車椿が生徒の群れを裂くように現れた時、吸血鬼を生け捕りにしていた伊原ヒロも、その存在に視線を注いでいた。彼ほどの実力者であれば、糸車椿が万全の状態でないことにも薄々気づくことができただろう。
――ただ、知っていた、と言った方が正しいかもしれない。彼女の状態を知っていて、それを確認しているかのような目の動きと含み笑い。息をするのもやっとであったが、赤月はそれを見逃しはしなかった。再び感情に火が点いた赤月時雨が蔓を緩めようともがき始めると、薔薇の使者は楽しそうに口を開く。
「なあ、お前って五感が発達してるんだろ? だったらよく聞こえるよなあ?」
生徒たちのざわめき、妹の叫び声、蛇の伊原に対する罵声。そして、自分の中にだけ響く、声にならない呻き声。
「前に、サードの女を絞めた時があったろ。だけどさ……あいつを絞める快感より、もっと気持ちいいもんを見つけたんだよ」
「……ふざけたこと言ってんじゃねえ」
避雷針美咲を蔓で縛り上げていた光景を赤月は思い出していた。あの時、かすり傷しか気づいてあげることはできなかった。けれど、美咲の身体はかなりのダメージを負っていたに違いない。
今の彼には、それがわかる。あの時の避雷針美咲は。
――声も上げられない程に、絞め付けられていたのだから。
「そうそう、それだ。――その目、その怒り。それは俺も知っていた快感だ。けどなー、あそこまで多くの人間が悲鳴を上げ、俺に怯える姿を見ちまったら、癖になるのも仕方ねえと思わねーか?」
「お前、そのために……」
「わざわざ俺が公式の能力開発試験を選んだわけなんて、それしかないだろ? それに心を躍らせているのは、俺だけじゃない。赤時雨とか呼ばれてギャーギャー騒がれているお前が、血塗れになるのを見たくてこんなに集まってきてんだからなあ」
その期待に応えるかのように、伊原は吸血鬼を頭から地面に叩きつけた。それと同時に様々な声の波が押し寄せる。それは吸血鬼を心配しているのではなく、残酷なショーを見て喜んでいる人間の声だった。影野三日月が殺されかけた例の地下施設。あのスモークガラスの向こうにいた観客たちと、なんら変わりないものだ。
自分が優位な立場にあると思っている、もしくは、自分たちに危険は及ばないと思っている観客たち。歪んだ悦びを得た彼らは自分がその立場に立った時、どうなるのだろう。恐らくは、酷く惨めな姿を晒して助けを請うか、残酷な本能を研ぎ澄ませ生き延びようとするのだろう。
そして、彼らとは別の存在。いわゆる強者はその混沌を好物とする者が少なからずいる。吸ってきた血で染まったような薔薇を思わせる、荊棘の悪魔。人間の醜さを糧とする薔薇が、ここにはいる。