忍ぶドク牙 其ノ八
――二階から夜宵に呼ばれた赤月は、ソファから立ち上がる。彼に寄り掛かって寝ていた三日月は、雑な吸血鬼のせいでずり下がるように横になった。それでも起きないところからして、例の能力を使ったことによって、すっかり疲労しているらしい。
「涼氷、今日うちで飯食べてけって言っといて悪いんだけど、何か作っててもらえるか?食材とかはあるだろうから、適当に使ってくれていい」
碧井涼氷を夕飯に誘った時「そんなにかからない」と口にした赤月。しかし、実際には蛇の少女の治療はかなりの時間を消費している。というのも、赤月は打撲程度の治療はせず、妹の得意とする切り傷の治療しかしてもらったことがないのだ。あれほどの痣は相当期間手当をしなければならないとはわかっていたが、彼の想像よりも酷いものだったらしい。恐らく、比較的新しい痣だけでも消すために、彼の妹は必死になっていたのだろう。肌に深く刻まれた痣は消えにくいが、今できた傷であれば早いうちに処置を施せば効果が高い。それ故に、いつもとは比べ物にならない時間を掛けているのだ。忍の身体と心の傷跡を思い、暗い表情になっていた赤月を見て、涼氷がそっと立ち上がる。
「構いませんが、条件があります」
「お前がそういうの口にすると怖いんだけど……」
涼氷が手招きをするものだから、赤月は嫌々彼女の前に立つ。
すると、彼女は吸血鬼の首筋に噛みついた。
――といっても、甘噛みだ。
「おい……何してんだ?」
「かっこよかったですよ。あの子も救われたはずです」
「……当然のことをしただけだ」
ただ恥ずかしいからではなく、本当にそう思っている吸血鬼のことを見つめる碧井涼氷は、蛇のアパートでみせた微笑みをもう一度浮かべた。その後、涼氷はキッチンへと向かい、赤月は廊下へと出ていく。彼は夜宵の部屋に向う途中、廊下ですれ違った忍の頭を優しく撫でている。赤月は何も言わなかったが、泣き腫らした目をした彼女にとってはむしろ有難いようだった。きっとまた、赤月の声を聞こうものなら泣き出してしまっていただろう。
――薄暗い部屋の中。ドアが閉まった音を確認すると、夜宵は兄に尋ねる。
「で、何でみすぼらしい格好だったのよ?」
赤月は「これ見りゃわかるだろ」と言うように、咬み付かれた肩の痕を指差す。それだけで兄がどんな行動を取ったのか大体理解できたらしく、夜宵は額に手を当てて大きな溜め息をつく。
「お兄ちゃんがやりそうなことね……」
そういって、赤月の手を取った吸血鬼の女の子は治療に移った。夜宵の舌が兄の手の甲を優しく撫でていくうちに、彼が爪で刻んだ傷はゆっくりと塞がっていく。痛いことに違いはないのだが、赤月時雨は穏やかな表情をしている。何度も治療を受けているうちに、痛みにも熱にも慣れているようだ。そして、いつものように、治療をしてくれている妹の横顔を見つめた。治療時の夜宵はいつも儚げで綺麗だが、どこか哀愁を感じさせる。
手の治療を終えた彼女は右手を赤月の胸に当て、左手で彼の右腕に触れた。
そして、薄いピンクの唇を肩の傷へと近づけていく。
「夜宵――これはいいんだ」
熱い吐息を感じさせる程に近づいていた彼女は、不思議そうな顔をして兄を見上げた。
「……どうして?」
「咬まれた痛みでわかったんだ。……あいつは、泣くだけじゃ孤独を誤魔化せなかった」
夜宵は黙って兄の眼を見つめ、舌で薄い唇を濡らす。
「あいつがまたどうしようもなくなったら、俺は身体を差し出すことしかできない。……そんなことはずっと続くわけじゃないだろうけど、一応、この痛みに慣れておこうと思ってさ」
二人の吸血鬼は月明かりに照らされたまま見つめ合っている。兄の表情は穏やかであったが、妹のそれは少しばかり険しいものがあった。
「忍の孤独の痛みはこんなもんじゃない。俺はあいつのためなら悲しみも痛みも、全部受け入れてやるつもりだ」
「……はぁ、相変わらず考えが変態ね。……一応消毒だけはしておくから」
夜宵はさりげなく兄の腕を伝って、彼の左手にそっと触れた。もう傷は塞がり痣もほとんど残ってはいない。けれど、彼女にも治せない傷がある。
彼の心に今も突き刺さっている、夜宵の血に塗れたナイフ。それを引き抜けば、たちまち心は赤い涙を溢れ出す。そしてそれは、赤い血の雨を降らすことになりかねない。
吸血鬼の少年が知る、本当の痛み。赤月時雨が外傷を恐れない理由はそこにあるのかもしれない――