碧い月明り 其ノ六
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遊園地から帰宅した赤月は、しばらくしてから再び外出しようとしていた。彼が玄関を開ける音に気づいた夜宵は、リビングから声を響かせる。この時間に家を出るのであれば、兄が向かう場所は決まっているのだ。
「お兄ちゃん、コンビニ行くのー?」
すぐに返事が帰ってこないことを不審に思った夜宵が顔をしかめた時、やっと返事が返ってきた。
「ちょっと――風に当たってくる」
妹はそんな台詞が似合わない兄を憐れむような顔をしている。涼氷や忍に聞かれた時には、間違いなく笑い者にされているだろう。
「そう。私、疲れたから寝てるかも」
欠伸交じりに答えた妹への返事はない。ただ、ドアの締まる音が。どこか距離を感じさせるような音が。それに答えるだけだった。
――それから数時間後、赤月は自分の部屋に戻りベッドに横たわった。酷く疲労しているらしく、すぐに夢の中に引き込まれていく。あまり遠出をしないタイプの人間には、朝から遊園地に行くのはキツかったのだろう。おまけにトラブル続きだったのだから疲れていて当然だ。
妹の夜宵はといえば、風呂を上がった後、リビングのソファでうたたねをしていた。それでも兄の帰宅に気づくと、階段をフラフラと上がっていく。当然、赤月兄妹の間には部屋に入る際ノックをする習慣などない。そもそも、そんなものは二人の間には必要がないのだ。
「お兄ちゃーん、お風呂朝入るの?」
部屋は真っ暗でほとんど見えなかった。夜宵は吸血鬼の性質を持つものの、少しの明かりもない状態では、その視力はほぼ機能しない。兄は吸血鬼としての性質を色濃く宿している戦闘型。妹は吸血鬼にして治癒に特化した特殊型。その違いと同じように、肉体の強度も五感の発達も異なる。
「……もう、ちゃんと掛けないとまた風邪引くわよ」
もちろん、夜宵には兄の様子など見えてはいないだろう。けれど、だらしない兄のことなら何でもお見通しなのだ。ベッドの側に行き、彼のお気に入りの間接照明にスイッチを入れる――
「……なんで……どうしてよ」
赤髪ツインテールの少女は爪が食い込むほど強く手を握りしめ、目に涙を浮かべ始めた。
「勝手に一人でどっか行っちゃダメって言ったのは、お兄ちゃんでしょ……。あの時、お兄ちゃんは助けてくれた……」
夜宵の目に溜まった涙が、自身の重さに耐えきれなくなり溢れ出す。ベッドのシーツで弾ける涙の悲鳴が、虚しく響く。
「私は……ここにいるじゃない。……今も、生きてるじゃない」
ギュッと目を瞑った赤髪の吸血鬼は、ついにその場に力なく座り込んでしまった。
「お兄ちゃんは何も悪くないの……」
何かに縋り付くように、夜宵は彼の左手をそっと包み込む。
「もう……自分を責めるのは……やめてよ……」
彼女が照明を点けてしまったのは失敗だったかもしれない。別の選択をしてさえいれば、彼の様子を鮮明に目の当たりにすることはなかった。けれど、赤月夜宵は絶対にそんなことは望まないだろう。見たくはないと思っていても、彼女自身が目を逸らすわけにはいかなかった。そうしてしまえば、大好きな兄は一人で苦しみ続けるのだから。
「……私は……ここにいるよ?」
ベッドの上で横たわる赤き吸血鬼は、気持ち良さそうに眠りに落ちていた。しかし、その穏やかな寝顔と相反する色が、彼の身体を染め上げている。
傷口が塞がりかけていたはずの二の腕からは血が滲んでいた。例のボーガンで削られたとはいえ、通常なら考えられない。何故なら、夜宵の日々の治療で少しずつ縫い目も消えかけていたのだ。開きかけた傷が走る左腕。そこから、ゆっくりと先の方へと視線を滑らせていく。
――兄の左手の甲は。
目も当てられないほどの痣と。
夥しい量の血で赤く染まっていた。
まるで彼の心の色を映し出しているかのように。