帰らぬ少女 其ノ八
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翌日の放課後、赤月家の呼鈴が鳴ってすぐ、涼氷、忍、三日月、椿がリビングに入ってきた。そこには、椅子に深く腰掛けた吸血鬼の姿があった。ここは確かに彼の棲みかではある。が、あれほどの大怪我を負っている者がここにいるのはおかしな状況だろう。
というのも、赤月は病院で一応は処置を受けたものの、入院するのが嫌で無理矢理家に帰ってきているのだ。とはいえ、彼の丈夫さを知っている涼氷と椿は驚く素振りもみせない。そして、そんな兄の看病のために、夜宵は学校を休んでくれているというわけだ。
あの後――つまりは、血に塗れたゲームの終わりを迎えたあと。事前に通報しておいたESPが駆け付け、全員無事に帰ることができた。
あの絶望的な状況で誰ひとり欠けることなく、こうして再開できているのは奇跡と言っても良い。しかし、三日月は今もずっと俯いたままだ。肩まである髪が彼女の顔を包むように隠してしまっており、その表情は読みとれない。恐らくは無表情なのだろうけれど、きっと彼女の心は暗い色をしているはずだ。
「みーちゃんは何も悪くないわよ。お兄ちゃんはもともと風邪気味だったし」
体調不良とだけ聞かされていた影野三日月。彼女は赤月の身体が怪我を負っていることを知らない。だからこそ、夜宵はそう声を掛けた。が、それでも彼女は顔を上げようとはしなかった。
そんな重い空気のなか、涼氷と椿だけがいつもと変わりない様子で椅子に腰かけている。彼女たちは、いつも別世界にいるかのような、そんな冷静さを保ち続けられるのだ。
「それにしても酷い発作だったね、今はもう大丈夫なのか?」
「もう何ともないです。子供の頃は頻繁に喘息の発作を起こしてたけど、今は酷い風邪を引いてる時とかに起こす程度なんで」
三日月が体調を崩して赤月家に泊まった夜。実は、赤月と三日月は同じベッドで眠っていた。というよりもむしろ、影の少女が吸血鬼のベッドに入り込んできたのだ。これは変な意味ではなく、ただ単に寂しさから彼のベッドに忍び込んできたように思える。きっと、両親と暮らしていた時の三日月は甘えん坊だったはずだ。
ちなみに、その時も背中に何かが張り付いてきている。例の影……というわけだが、赤月はそれに必死に堪えることにした。というのも、あの時の影は悪戯をするわけでもなく、寂しそうに吸血鬼の背中に寄り添ってきただけだったのだ。
赤月の胸の辺りには小さな少女、背中には寂しげな影。よくよく考えてみれば、あれのせいで眠れなかったためウィルスの侵入を容易く許したともいえる。
突然くしゃみをした吸血鬼の視線。その先には、先程から赤月を観察していた忍の姿がある。まだ何が起きたかを聞かされていない彼女は、間の抜けたことを口にした。
「赤月も結構苦労してるんだね。吸血鬼の癖に風邪とか喘息とか」
いつか忍にも吸血鬼講座を開く必要があるかもしれない。赤月の溜め息がそれを物語っている。
「吸血鬼だって風邪は引くんだよ、蛇女」
「蛇女って言うな! まだ、沖縄でのこと根に持ってんの? 変態赤月がいけないんだからね。全裸で女性を追い掛け回す吸血鬼の映画みたいだったし」
「だからお前はどんな映画観てんだよ!」
幸い、お茶を入れるのに忙しい夜宵には聞こえていなかったようだ。しかし、そのやり取りは強制的に中断させられることとなる。
「イッタ!」
「いってえ!」
睨み合っていた吸血鬼と蛇の額が、星でも見えるんじゃないかという勢いでぶつかり合う。彼らが涙目で見上げると、涼氷がゴミでも見るような目をしていた。
「渡したい物があるそうですよ」
そう言った彼女の視線を追うと、気まずそうに顔を逸らしながら、三日月が後ろに隠していた梨のセットを差し出した。硬直している二人の代わりに、エプロン姿の夜宵が受け取る。
「これお兄ちゃんに? 高かったでしょ……、お兄ちゃんにはもったいないよ。元気出るから、みーちゃんも一緒に食べよ?」
恐らく、風邪が悪化してしまったのは全部自分のせいだと思っているのだろう。三日月は頑なに首を振っている。
七月になったというのに長袖に長ズボンの部屋着を着ている吸血鬼。彼は脚の怪我を隠すかのように。もっと他の何かを隠すように。話を逸らそうとした。
「ありがとな、三日月。でも俺はお前たちと一緒に食べたいな」
思いのほか元気そうな赤月を見て安心したのか、影野三日月は彼の首にしがみついた。昨日、無事を確認した時のように、吸血鬼は影の異能者を強く抱きしめ返している。幸い、三日月から近寄ってきてくれたため、足を引きずっていることも、片足に重心をかけていることにも気づかれないで済んだ。
「じゃあ、切ってくるからお茶でも飲んでて」
「あ、俺の分はウサギにしてくれよ」
「はいはい」
――ウサギ。そこにいる赤月兄妹以外のすべての人間が頭にクエスチョンマークを浮かべたはずだ。そして、ほぼ同時に吸血鬼に視線を戻したところからして、林檎のウサギを思い出したに違いない。
「え、赤月って、そういう趣味……あるの?」
赤月時雨は何故自分に視線が集まっているのか全く理解していない。
「てゆうか、梨って皮食べなくない?」
「は? 食べるだろ。な、三日月」
吸血鬼の膝に跨ったまま彼女は見上げてきた。いつもの無表情には変わりないが、軽蔑するような視線を感じる。
「知らないのですか? 果物の皮は全部食べますし、できることならウサギにしないと気が済まない。これは吸血鬼の特徴です」
「そ、そうなんだ(ね、ね、パイナップルとかも?)」
「パイナップルの皮なんか食ったら口ん中が血塗れだろうがっ!」
碧井涼氷の吸血鬼講座を信じた忍が似非教師にこっそり訊いたものの、どうやら聞こえていたらしい。
「はい、お待たせ」
綺麗にカットされた梨がみずみずしく光っており、その中にはきちんとウサギ型のそれも身を潜めている。
「え、夜宵ちゃん切るの早くない?」
「こいつは料理がすごく上手いんだよ。俺に誉められたくて猛練習……」
「黙れバカ兄」
妹の手によってウサギの耳が引きちぎられた瞬間だった。しかし、それを悲しんでいる余裕などすぐになくなる。
「料理が上手いと時雨君が誉めてくれるのか? なら……」
椿さんが短刀を両手に持った瞬間、赤月たちは全員椅子を引いて逃げた。
「どうした。何故、私を避けるのだ……時雨君」
完全に包丁を持ったヤンデレのセリフだった。しかも彼に迫ってきている。
「今度、手料理食べさせてくれるだけでいいから、それをしまってください! てゆうか、そんなもんで梨を切ろうとしないでください!」
「そうか。――どうせなら、ここにいる全員を招待しても良いかもしれないな」
椿が満足そうに短刀を鞘に収めている一方で、彼女以外の全員の視線が吸血鬼を貫いた。その日が訪れた際には何をされるかわかったものじゃない。
「な、なあ、三日月の能力って何なんだ?」
その視線から逃れるように、未だに自分の膝に跨っている少女に突拍子もないことを問う。しかし、例の如く、彼の背中には何かが這って侵入してきた。
「うわっ! 口で説明しろよっ!」
一人で騒いでいる兄をうるさそうに見つめる夜宵が言った。
「何言ってるのよ、影でしょ? いつもお兄ちゃんの背中に入ってたじゃない」
そう、はっきりと認識していなかったのは彼だけだ。
「知ってたならもっと早く教えろ!」
「冗談で騒いでるのかと思ったのよ」
必死に訴え続けた彼としては信じてもらえていなかったことに若干の悲しみを覚えていた。しかし、今になって納得がいったのか、眼の前に座る少女をしげしげと眺め始めた。
――影に姿形を与える力。ただ、あの時、鉄球の下に三日月がいたことは確かだった。
「おじさんの影」
赤月の正面に座ったまま、梨を食べ始めた三日月は言った。どうやら、彼が疑問に思っていることに気づいたらしい。
「あのおっさんの影に移動して回避したってことか?」
影の少女は頷く。それが事実だとしたら非常に高度な能力だ。彼女の能力を知らない相手ならば、背後から息の根を止めることも十分に可能だ。それ故に、かなりのエネルギーを消耗して気を失ったのだろう。
――ここで、三日月の一言が場の空気を凍らせた。
「おじさんは?」