帰らぬ少女 其ノ七
一人で勝手に盛り上がり始めた男は、危険な目を血走らせている。
――いや、正確に言うならば一人ではない。赤月時雨の眼には、スモークガラスの向こうで興奮するように蠢く人影が見えていた。とはいっても、それは彼の視界の端に移り込んでいたに過ぎない。もはや吸血鬼の眼は編み込みの男を逃すまいと動いていた。
いつもの赤月時雨であれば、相手の戦闘スタイルや性格を把握してから攻撃に移る。しかし、今回は夜宵たちを巻き込まないために、血牙で先制攻撃を浴びせ、既に手の甲から血刀を引き抜いていた。
その一方で編み込み男は動こうとせず、腕で顔を庇うだけ。頑丈な表皮を持っているわけでもないらしく、血牙がすべて突き刺さっている。
しかし、赤月が血刀を振りかざすまであと数メートルというところで、ついにその能力を発揮した。腕を真っ直ぐ吸血鬼に向けて掌を開いたかと思えば、そこには銃口のような穴が見える。それに気づいた時にはもう、赤月の腕の肉はどこかへ行った後だった。
「っ……ボーガンか」
もはや痛みに悲鳴を上げる体力すら残ってはいないらしい。しかし、それが逆に吸血鬼を冷静にさせているのも確かだ。
「気持ちわりいな、今のが見えたのか? 心臓を狙ったってのに、化け物かよ」
その言動とは裏腹に、編み込み男は嫌な笑みを浮かべている。
「おい、ガキ。中級でもない俺がどうしてこんなに強いかわかるか?」
――中級でもない、という言い回し。つまりは上級でもない下級異能者。その男がただ矢を放つだけではなく、あれほどの速度と威力を合せ持つそれを扱える。
赤月時雨の嫌な予感は物の見事に的中した。そう、編み込みの男もレッドアイを持っていたのだ。空の注射器を取り出したところからして既に打ち込んだ後のようだが、ムカデ男と様子が違う。
「――その目、どうやらレッドアイを見たことがあるみてーだな。お前……これを使ったら全員が頭イカれると思ってるだろ? 確かにほとんどの人間がその症状を起こすが、別にそれだけが副作用じゃねーんだよ」
この男は正気を保っていた。だがしかし、彼の言葉が正しいならば別の副作用を起こしていることになる。
「この薬物をやめられなくなっちまって、今となっちゃこれが快楽なんだよなぁ。能力も向上するなら、中毒になる気持ちもわかるだろ?」
ムカデ男に比べれば正気を保っていると言ってもいいかもしれない。けれど赤月からすれば、どちらも「イカれている男」という解釈だけで十分だった。編み込みの男は気の触れた笑いを響かせると、先程とは反対の腕を吸血鬼に向けてくる。この様子からして、装填には一定の時間を要するらしい。が、両腕から矢を放つことができるようだ。
――赤月は動態視力がかなり良い。糸車椿の攻撃を数回凌ぐだけでも、並みの中級者ではないと言えるだろう。しかし、彼の腕の一部を連れ去ったボーガンは速過ぎる。三発目の矢は横に飛び込んで致命傷を避けるのが精一杯だった。おまけに、動けば動くほど彼の気管も細くなっていく。
「……っ!」
床を転げ回っている吸血鬼のふくらはぎは、抉れていた。矢の装填には時間を要するという予想は間違ってはいないだろう。しかし、編み込み男の足元には先程のものとは別の注射器が転がっている。どうやらレッドアイには即効性があるらしく、追加されたレッドアイが、男の能力を瞬時に上げてしまったらしい。それ故に二発目が放たれてすぐ、装填中であるはずの腕から矢が姿をみせたのである。
自分の人格すら変えるとわかっていながら更に赤い薬物を服用したその男は、ついに彼の言うところの正気を失ってしまったようだ。聞くに堪えない下品な笑い声を上げ始めている。
――それでも、突如侵入してきた二人組には驚いたらしい。凄まじい音と共に会場の壁に穴を開けて飛び込んできたのは、黒いコートを身にまとった長髪の男。それと、彼を追う糸車椿であった。男は防戦一方で、椿が優勢のようだ。とはいっても、相手もかなりのやり手らしく彼女と渡り歩いている。もしかしたら、レッドアイを服用している中級者なのかもしれない。
それを見ていた編み込み男は、焦点の合わない目で吸血鬼に向き直った。もはや、何を考えているのか見当もつかない。ただ、その一秒後。編み込みの男は何もできなくなっていたのだから、赤月にとってそんなことはどうでもよかった。
「お兄ちゃん!」
「今はまだ危険です、ここにいましょう」
流石は碧井涼氷、と赤月は思った。赤月時雨は彼女のそういうところを信頼している。できる限り危険を避ける知識と術を、青髪の少女は持つのだ。
赤月は息をするだけで精一杯だったが、編み込み男は既に悶絶している。実は、椿たちに気を取られている間も赤月の血液は床を滑り、男の真下から血柱を生成する準備をしていたのだ。それで思いきり顎を突き上げて気絶させた上に、倒れる直前に男の両腕には血牙を数本貫通させている。仮に目を覚ましたとしても、軌道をずらせれば怖くはない。
とはいえ、吸血鬼の方も虫の息だった。大騒ぎして逃げていく観客もいなくなった会場では、彼の不気味な呼吸音だけが響いている。そして、終わりを告げるように『紫煙乱舞』が短刀を鞘に収めた音からして、どうやらあちらも片付いたらしい。
その音を聞いて安心していた彼は、赤月時雨は。
――大きなミスを犯していた。
一般の生徒に比べ、ここ最近の彼は何かと厄介ごとに巻き込まれるようになってはいるが、元々戦闘経験などほとんどない。その点で見れば、彼を含め誰もが起こし得るミスだ。それでも、この状況にそんな甘い言い分を持ち込むのを『紫煙乱舞』が許すはずがなかった。
「時雨君! 何故トドメを刺さなかった!」
一瞬、遠くにいる椿が何を言っているのか、吸血鬼にはわからなかった。しかし、床に這いつくばったまま眼をこじ開けた時、彼はその意味を思い知ることとなる。
気絶していたはずの編み込み男が。
レッドアイを服用したイレギュラーが。
ある方向を睨みながら。
口を開いていたのだ。
「……に、げろ」
もはや赤月には叫ぶこともできなかった。
男の元へ回した血液はもう使い切っている。
――そう、あの男が矢を放てるのは。
両腕だけじゃなかったのだ。