帰らぬ少女 其ノ六
絶叫した吸血鬼は憎しみのままに、そこへ向かった。鉄球が振り下ろされた場所には――影野三日月の姿があったのである。凄まじい蹴りを食った鉄球男は、会場の隅に一瞬で転がっていく。
この時、この瞬間、本気の殺意というものを赤月時雨は初めて感じていた。だからこそ、その感情には歯止めがかけられない。怒れる吸血鬼が歯を食い縛り唸り声を上げ始めている。
――そんな吸血鬼を止めたのは、一人の少女の声だった。
「……しぐれ」
振り返ると、そこには床に座り込んでいる影野三日月の姿があった。情けのない、本当に情けない声を吸血鬼は漏らしている。
「よかった……本当によかった……」
恐らく何かの能力を使って力尽きたのだろう。三日月は疲れ果てて眠るように倒れてしまった。辺り一面にいくつもの亀裂が入っているところからして、激しい戦闘を繰り広げていたに違いない。
赤月は彼女を抱き上げると周囲に視線を走らせながら、会場の入り口にいる夜宵の元へ急いだ。この時、スモークガラスの中で複数名の人間が様子を窺っていることに赤月時雨は気づいていた。
「夜宵…………三日月は?」
不安そうに三日月の首に噛みついた夜宵は、彼女の血液を舌の上で転がし始めた。治癒の力を持つ彼女は、その者の血液を口に含みさえすれば身体の状態をある程度なら把握できるのだ。血液を飲み込めばさらに正確な分析も可能だが、同性の血は毒になるためすぐに吐き出している。
「……大丈夫、疲れて眠ってるだけ。けど……お兄ちゃん」
赤月は返事をするのも辛いらしく、頷くだけだった。男に蹴りを入れた際、完全に呼吸が乱れてしまったのだ。それでも彼は忙しなく眼を走らせ状況を確認し続けている。
「……椿」
苦しそうにしている赤月の不安を察した涼氷が、彼の背中を擦りながら答える。
「先ほど廊下を確認しましたが、姿が見えません。敵は全員気絶しています」
正常者が『紫煙乱舞』に勝てるはずがない。たとい彼らが異能者であったとしても、糸車椿なら倒すことができるはずだ。しかし、彼女の姿はこの会場内にも見当たらなかった。
――と。
「おいおいおいおーい、何してくれてんだガキども」
その声に全員が振り返ると、髪を編み込んでいる色黒の男がそこにはいた。どうやってつけているかもわからない無数のピアスで顔を着飾っており、おまけに入れ墨までその顔を覆っている。それに細身のスーツにネクタイまで締めているため、不気味さが際立つ。
「台無しにしてくれたんだ、責任は取ってもらわねえとなあ」
突如姿を現し、わけもわからないことを言い出した編み込み男は、両手を上げて声を響かせる。
「ご来場の皆さま、大変失礼致しました。飛んだ鼠が侵入しましたが、代わりに私がゲームに参加しましょう」
ゲーム主催者の男。しかも、異能者を集めるような人間であれば、腕に自信がある中級者以上と見て間違いない。そして椿がいない今、男とやりあえるのは同じ中級者。つまりは、弱った吸血鬼だけだ。
「……三日月を連れて……早く」
「お兄ちゃん……」
赤月時雨は息を整えようと深呼吸するが、その音さえも聞くに堪えないものだった。彼は自分が苦しいのも当然嫌うが、側にいる人を不安にさせるこの呼吸音をもっと嫌っている。
「いいから……、……逃げろ」
既に碧井涼氷は三日月を背負おうと動き出していた。しかし、彼の思いとは裏腹に、鈍い金属音が響き渡ると、すべての出入り口が鉄格子で塞がれる。恐らく、みせものにする異能者を逃がさないための仕掛けだ。
「今宵のメインディッシュは迷える子羊のミンチ……ってとこか。さあ、ショーの始まりだ!」