帰らぬ少女 其ノ四
「なるほど、これは主催者の下っ端か」
彼が期待している答えなど返ったはこなかった。糸車椿がそんな言葉を返すはずがなかった。赤月は俯せになっている男の胸倉を乱暴に掴んだが、怒りの感情にはなんとか蓋をしようとしている。
「おい、アンタ。これはどこでやってんだ」
しかし、赤月が椿より大人しいと思ったのか、男は厳つい顔で睨んできた。
「痛い目みたくなかったらガキは引っ込んでろ。……ったく、変態共が喜びそうな和服の小娘が手に入ったってのに気分悪りいぜ」
残念ながら、この男は赤月時雨の感情の蓋を弾き飛ばした。既に男の首からは血が滴り始めている。吸血鬼の爪が首に刺さっていることに気づくと、男は情けない声を上げて命乞いをし始めた。
「俺はいま気が立ってんだ。……黙って案内しろ」
黙ってそのやり取りを観察していた椿は驚く様子もみせず、赤月に視線を送り続けている。
「らしくない。何かあったのか?」
「大事なやつが……さらわれたんです」
攫われた少女の目のように黒い前髪が、俯く少年の眼元を隠していた。仮にその漆黒のカーテンが開いたとしても、怒りを抑えることに必死だった赤月は椿の方を見れなかっただろう。
――その後、吸血鬼に一切近づこうとしなくなった女の子であったが、表通りを駆けていく頃には笑顔で手を振っていた。あんな小さな女の子が路上生活している世界もある。異能者と正常者が繰り広げた内戦の傷跡は、今の時代にも根強く残っているのだ。
そして、それを利用して悪事をしている輩も大勢いる。蜘蛛の糸で縛られたこの正常者の男も、その一人だ。今は椿の糸で街中の人に怪しまれない程度に縛っている。
しかし、ここで怒れる吸血鬼は重大なミスを犯してしまったことに気づいた。眼の前には涼氷と青筋を立てている夜宵の姿がある。実は怒りと不安に駆られていた彼は、二人のハンカチに染み込ませた血液の感知ができていなかったのだ。
「どういうことか、説明して」
小さな赤髪の吸血鬼は本気で怒っているらしい。それもそのはず、赤月は鳴り続ける電話を無視し続けていたのだ。
「時雨君の妹君か」
能力測定時の模擬戦の件で椿を嫌っていた夜宵は、初対面でいきなり睨みを利かせている。大抵の人間には怖くてそんなことはできない。
「あの時は兄がお世話になりました。ですけど、今は黙っててください」
「おい、やよ……!?」
椿が兄吸血鬼の口を手で塞ぐ――まではよかった。
「悪いが君とのおしゃべりに付き合っている暇はないし、足手纏いも必要ない」
空気が、凍りついた。
「時雨君の妹君だからといって特別扱いはしない。助けたいのなら黙って私の話を聞くことだ」
今まで見た糸車椿の中で一番恐ろしい雰囲気だったといえる。本気でなかったにしても、赤月と戦闘をしていた時でさえそんな目をしていなかった。さすがの夜宵も少しだけ怯んでいる。
「彼が電話に出なかったのは私の指示だ。だが、こうなってしまっては連れていくしかあるまい。――この男の仲間がまだいる可能性がある。私たちと接触した力のない者を残せば、むしろ人質に取られて邪魔になる」
「あの……」
――と、椿の目を見て動揺し始めた赤月は、再び口を塞がれた。そして、彼女は彼の耳元で囁く。
「あのおチビさんは兎の生物系異能者だ。お菓子に釣られないよう注意しておいたから、もう大丈夫だろう。本気を出せば君より逃げ足は早いから案ずるな」
納得した表情に変わった赤月とは対照的に、夜宵は言い返したい様子だ。が、今の状況をいち早く把握した糸車椿には何も言えはしない。そして、この状況で怒りを顕わにしていた自分が一番冷静でなかったことに、彼女は気づいているはずだ。
「さて、どうする妹君」
「……わかりました。力を貸してください」
「君は賢いな、いい判断だ。――走るぞ」
椿に小突かれた男は悲鳴のような返事をして走り始める。それに夜宵も続く。――赤月時雨は碧井涼氷と目を合せ、こう言った。
「涼氷、走れるか?」
「手を、繋いでください」
彼女は今の空気のなかでも、顔色ひとつ変えていない。だからこそ、赤月を安心させる力を持っている。手を繋ぐのも、できるだけ足手まといにならないための冷静な判断だ。
そして、青髪少女の手を取った吸血鬼は走り出した。碧井涼氷は手を引かれながら彼の横顔を見つめている。ひょっとしたら、自分を助けに走ってくれた時の彼の姿を、そこに見ようとしていたのかもしれない。