夏夜の恋心 其ノ五
――その数分後、赤月はホテルの一室で目を覚ました。彼が使っていた三人部屋よりも狭いことから、自分の部屋でないことがわかる。
「うわっ……この女は何しようとしてたんだよ!?」
赤月の胸に頭を預けたまま眠っているユリアは、彼の下着に手をかけていた。
シャツもズボンも脱がされていたところからして、かなり危険な状況だったらしい。赤月はユリアを起こさないように抜け出そうとするが、寝ぼけた彼女に再び抱きつかれてしまう。
「……感じてる?」
「何の夢を見てんだ、こいつは!?」
――と、赤月は寝ぼけたユリアに感電させられ、言葉を発するどころではなかった。意図的に感電させているわけではないため気を失うレベルではないにしても、動きを奪うには十分な威力だ。それだけでも絶望的にもかかわらず、彼の不幸は続く。学年主任の声がドア越しに聞こえてきたのだ。ユリアの部屋をノックしては、ドアノブに何度も手をかけており、ついにはマスターキーという言葉まで聞こえてきた。恐らく、巡回の仕事が残っていたのだろう。
仕舞には散々感電させておきながら赤月を蹴り飛ばしたユリアは、気持ち良さそうな寝息を響かせている。
「ヤバいヤバいヤバいヤバいヤバいっ!」
パニック状態で騒ぎながら服を着ている赤月は、もはやベルトを締められない程に動揺していた。結局、ベルトを締めるのを諦め、窓に飛びついた彼は、更なる絶望の淵に立たされることとなる。どうやら教員の部屋は五階にあったらしく、飛び降りることは不可能だったのだ。しかし、部屋のロックが外される音を耳にした赤月は、左肩に爪をかけながら飛び降りた。
すると、まだ二階分しか落下していないはずなのに、跳ね返るような衝撃が吸血鬼の中に走る。彼が眼を丸くして鼻水を出しかけたのも無理はない。彼の身体は不安定に宙に浮いているのだから。
「静かに」
見上げる間もなく、気づけば彼は別の部屋に転がり込んでいた。そして、目視せずともその匂いで大体の予想はつく。さっきまで感じていた香りに似ているのだ。
「……美咲さん?」
「全く、何をやっているのよ……」
そこには部屋着姿の避雷針美咲の姿があった。美咲の言う電塊が鞭のような形状になり、彼女の手から伸びている。どうやら、これを命綱に飛び降り赤月を救ってくれたらしい。
「私が操れる電塊は姉のものとは全然違うものなの」
バチっという音と共に、電塊の鞭が消えると、テーブルランプの照明だけが二人を照らした。
「助かったよ。でも、どうしてわかったんだ?」
「少し心配だったから、廊下を散策していたのよ。そしたら、気を失ったあなたが引きずり込まれるところを見たの」
何も知らなければ恐ろしい光景だが、彼女にしてみれば滑稽なものだっただろう。それが頭の中に映し出された吸血鬼は本当に嫌そうな顔をしていた。
「それにしてもすごい勘してるな……。でも、ここもまずくないか?」
「今日は私ひとりよ。もう一人いたんだけど、主任の巡回が厳しくてこの部屋に戻ってこれなかったの。こんな時間だし、逃げ込んだ部屋で寝てしまっているわ」
「最後の最後で運が戻ってきたって感じか……」
「風紀委員の私に見つかって、運が良いと思う?」
すっかり油断していた赤月は眼を見開いて美咲を見た。真面目の塊、生徒を罰する電気の塊。これでは拷問部屋の第二会場に移ったに過ぎない。
「冗談よ。そんな仕事もないし、私も規則を破ってしまった。風紀委員失格ね」
「そんなこと言ったら、俺は人間失格だろ」
「男として、ではなくて?」
美咲が微笑んでいるのを見て赤月はかなりホッとしている。既に人間扱いされていない彼にとって、男としての誇りまで否定されてしまってはどうしようもないのだ。
「まあ、事情を知らない人から見れば間違っちゃいないな。――それにしても、俺は美咲さんに助けられてばっかで情けないよな、ほんとに」
「私が助けたかったから、いいのよ」
伸びをしながら窓の外を眺めていた赤月は不思議そうに振り返った。すると、眼の前に美咲の顔があったため、彼の心臓が大きく鼓動する。
「あなたの戦う姿はかっこいいし、とても強いと思う」
少し前に出ればキスをできそうな距離だった。彼女の大きな胸にいたっては、今にも赤月の胸に触れそうだ。
「あなたなら脱出できるとは思っていた。だけど、赤月君が怪我をするのを見たくはないの」
赤月は美咲が掴んでくれた右腕を見つめた。落下時に上げていた左腕ではなく、あえて右手を掴んだことに疑問を覚えていたのだ。恐らく、この右手が左腕を引き裂くことを防ぎたかったのだろう。
「あなたは、その勇敢さと強靭な肉体を大きな武器としている。それ故に、自分の身体を傷付けることに慣れてしまっているようにも見える。……だから」
この時、赤月は青髪少女との会話を思い出していた。
赤月時雨という吸血鬼は身体を傷付けることに慣れている。
避雷針美咲は本人と同様にそう思っているらしい。
『慣れている、とは私は思いません。むしろ、そうしなければならない、そうすることでしか生きられない――そんな吸血鬼に見えます』
碧井涼氷とは正反対とも言える言葉を口にした美咲は、ゆっくりと瞬きをして赤月の眼を、もう一度見つめ直す。
「だから、一人ですべてを抱え込もうとしないと、約束してくれるかしら?」
それを聞いてハッとした表情になった赤月は、黒髪を雑に掻き上げながら言った。
「ひとつ条件があるけど、いいかな?」
「条件?」
「美咲さんも、同じ約束をして欲しい」
美咲は優しい微笑みをみせて答える。
「わかったわ、約束よ」
いつの間にか緊張が解けていた赤月も笑顔で答える。
「じゃあ、俺も約束する」
「やっと、私の前でも笑えるようになったみたいね」
「え……?」
「どうしてそこで、顔を引きつらせるのかしら?」
冗談とはいえ、電気を帯び始めた美咲を見た赤月は、ユリアに近いものを彼女の中に見た気がした。そんなことを口にしようものなら殺されかねないので、当然、心の中に留めている。
――どこにいようとも、いつもそこにいる月を窓越しに眺めながら、赤月は思う。
言葉にはしなかったが、碧井涼氷も同じようなことを自分に求めていた。そして、一方的な約束としてそれを結ばされている。あの時は彼女にも同じ約束をさせることを忘れてしまっていた。そういう部分に関しては、はっきり伝えないと、彼女はいつか屁理屈を言うだろう。
『私については、それを約束した覚えはありません』
きっと、こんなことを平気で口にするに決まっている。