呪われた血 其ノ三
思ったよりも遠くまで来ていたユリアは、いつもとは違ってデニムに黒のダウンというラフな格好をして湖の傍で座っていた。地べたに座ることを気にする様子もなく、脚を抱えるように小さくなって遠くを眺めている。
「横、座っていいか」
「……うん」
いつもは学生にも負けない無邪気さを持つ彼女ではあったが、今は年相応の落ち着きを持ったお姉さんという言葉が似合っている。胡坐をかいて隣に座った赤月は、不自然な距離感を保ったままだった。しばらく黙っていたものの空を仰いだ吸血鬼は、ゆっくりとユリアの方を見る。改めて見ると、いつもよりだいぶ薄化粧であったためか、彼女の顔は疲れているように見えた。そして――
「ユリア……ごめん。本当に――ごめん」
この話をしに来たにもかかわらず、何十秒も反応がなかったために後悔し始めていた吸血鬼に、避雷針家の長女は口を開いた。
「こうなったのは、別にしーくんのせいじゃないよ」
赤月時雨は、赤時雨と呼ばれる吸血鬼は、どんな理由があったとしてもそうは思えないだろう。何の罪もない避雷針美咲が、ただお見舞いに来てくれていた美咲が、誰かに狙撃されるはずがない。あの時、彼女の行動からして狙撃されたのは自分自身だった。それを庇ったが故に美咲は被弾してしまったのだ。
「……俺が、撃たれてれば」
「しーくん」
ユリアは、少し強い口調で彼の言葉を止めた。
「あれは、しーくんでさえ致命傷になる可能性があったの」
その言葉を理解できずにいた吸血鬼は、何を口にすれば良いかわからずにいた。便利屋に襲われた時、ユリアを守って何発も銃弾を食らっている。それを目の前で目撃していた彼女だからこそ、その発言には違和感があるのだ。
「レッドアイだよ」
赤月の心臓は、ドクンと強く鼓動した。自分の血液を利用して生み出された薬物。それが悪用されていることは知っていたが、どうしてその薬物がここで出てくるのか。
「あの薬物よりも、さらに強いものが美咲の身体に残っていたの」
「どうして……そんなものが」
死んだような目をしたユリアは、自分の膝をただ見つめるようにして答えた。
「被弾した際に液状の薬物を流し込める構造の銃弾だったことがわかったらしいの」
それを聞いた赤月時雨の心臓は胸が痛くなるくらいの鼓動をしていた。
『あの薬物は能力が弱い、もしくは能力を上手く発揮できない者に適応し易い。その一方で、セカンドバレットのようにほぼ完成し切っているタイプが服用すると、能力向上よりも副作用の方が相対的に大きくなる』
『何かとレッドアイと接点がある赤月くんの周りには、セカンドバレット並みの力を持った人間がいます。仮に彼女たちがレッドアイを打ち込まれでもしたら――どうなると思いますか?』
夏に聞かされた話は、便利屋のギルベルタの推測に過ぎなかったが、伊原ヒロ、つまりはセカンドバレットが服用したときは副作用の方が大きかったように見えた。彼が服用していたのはレッドアイの模倣品に過ぎない。それに比べ、今回は本物のレッドアイどころかそれよりも強力な薬物だった。そして、セカンドバレットにも大きく劣らない力を持つ、避雷針美咲が被弾してしまったのである。
「もしかして、副作用が強過ぎた……のか?」
こくりと頷いたユリアの目からは、目元に留まっていた涙が落ちていく。
「銃弾自体は臓器を傷付けていなかったけど、薬物が強過ぎて」
ユリアの口から出るであろう言葉から逃げるように、赤月時雨は彼女の顔から視線を逸らした。
「もう二度と……目を覚まさないかも……しれないって」
悲しみが心を蝕み、もはやユリアには嗚咽を漏らす気力も残っていないらしい。ただただ、湖を真っ直ぐと見つめて止まることのない涙を流し続けている。彼女に掛ける言葉を見つけることもできない赤月は、歯を食い縛って拳を握り締めた時にハッとした。自分の爪が食い込み血が滴り始めたこの手を、最後に握ってくれたのは美咲だったのである。
『私はお姉ちゃんにも、赤月君にも、助けられてばかりだった。だけれど、それをただ悔やむのだけはやめようと思えるようになったわ』
『どうして、そう思えるんだ?』
『助けられたことをただ悔いるだけだと、私を助けてくれた人の行為まで否定してしまいそうでしょう。どんなに自分が嫌いでも、その人が助けようとしてくれたのが私自身なのだから、しっかり生きて恩返ししていきたい。そう思ったのよ』
その言葉を思い出した吸血鬼もまた、悲しみの感情が眼から滝のように流れ始めている。
「病室で美咲さんが言ってたんだ。助けられたことを悔いると助けた人間の行為まで、否定してしまうって……」
赤月が震える声をしていることに気づいたユリアは、ハッとして彼の方を振り返った。自分の身体の上で血塗れになっていく美咲の姿を思い出すように、吸血鬼はいないはずの彼女に触れようとするように、血の滴った手を見つめてている。
「だけど、だけど俺……おれは」
姉として悲しみに暮れるのは当然だった。その悲しみを受け止めるだけで、誰だって精一杯になってしまうものだ。だけれど、避雷針ユリアは違った。彼女は、涙を流し続けているものの、今は精神が崩壊しかけている吸血鬼を正面から抱き締めている。
「ユリア……俺の血を……使ってくれ。もしかしたら何か……なにか」
「しーくん」
吸血鬼が震える声で何を伝えたいのかわかったのか、彼女はそれを止めた。確かに、彼の血液が元になっているのであれば、そのワクチンだって彼の血液で作るヒントを探せるかもしれない。ただ、この場所、この瞬間に限っては、避雷針ユリアはそれを求めはしなかったのである。
「ありがとう。――私も目が覚めたよ」
姉としてではなく、ひとりの教師として。
「私は自分のことしか考えられてなかった。だけど、しーくんは目の前で見たんだよね。…………自分を責めずにはいられなかったよね」
自分のせいで、自分の眼の前で、血塗れになっていく避雷針美咲。そして、今――その妹を愛して止まない姉としっかりと話をしようと追って来てくれた。最期には精神が持たなくなってしまった様子ではあったが、十七歳の高校生としては頑張った方だろう。恐らくは、避雷針ユリアも、今はそう思ってくれているはずだ。でなけれな、彼女からこんな言葉は出てはこないだろう。
「美咲のためにできることを、一緒に考えようね」
鼻同士がぶつかりそうなくらい顔を近づけたユリアは最後にこう言った。
「これ以上は自分を責めちゃダメって美咲も言っているよ。美咲が大好きなおねーちゃんにはそれがわかるんだから」




