月夜と美羽 其ノ一
都会の空は遠い。背の高い建物が乱立するようになってからは、人は空を遠い存在にしている。屋上に出さえすれば少しでも近づけているはずなのに、地上や室内にいる人の視界からは、何故か遠くなってしまうのだ。
そうやって、空からも見えにくく、奥へ進まなければ地上からも見えない場所が生まれていく。そこは一般人には不気味な領域であり、幼い頃から立ち入らぬように教えられる。その一方で、空の陰になっている、視線の陰になっている、そんな路地裏を利用する者たちも現れるのだ。
そこで息を切らして駆け抜ける若い女性はどちら側の人間か。橙色をしたサイドダウンの髪を激しく揺らしながら、如何にも運動神経の悪そうな走り方をしている。そうはいっても、それが彼女の命懸けの走りであることは否定してはならない。粘液が纏わりついたような黒い皮膚の巨大なヒル……に近い何かが、地面を腹で這って追い掛けてくるのだから。
頭部と判断できる部分には人を飲み込める程の大きな口があるが、獲物を捉える目玉は見当たらない。恐らくは頭部と思われる部分に空いている小さな穴で音か匂いを感知しているのだろう。全長は女性と変わらないくらいだが、目の前で転倒した彼女を飲み込むことはたやすいはずだ。
その予想通り、期待通り、自然の摂理に倣い。黒い化け物は女性を脚から飲み込もうと、口を開けたまま迫って行く。だがしかし、悍ましい造形をしているものが必ずしも食物連鎖の上位に来ているとは限らない。その事実を知らしめるように、突如上から降って来た人物が素手で化け物の頭部を貫いた。意外にもあっけなく死に絶えたそれは、じわりじわりと真っ赤な液体となって広がっていく。
気味の悪い化け物の体液が靴を取り囲んでいくことに動揺もみせない人物。薄汚れたコートの中にグレーのパーカーを着ているらしく、そのフードを深々と被っている。手に纏わりついた血を慣れた仕草でビチャリと振り払うと、その人物は少し掠れた声で言った。
「この生物はなんだ?」
微かにフードから覗く淡い水色の髪が、湿っぽい路地裏の風に揺れる。その声からして、まだ若い少年のようだ。
「あの……ありがとう」
自分のところにまで広がってきた化け物の体液から逃れるように、サイドダウンの女性は自力で立ち上がった。少年の不気味さと液状化した化け物の気持ち悪さの狭間で、不安げにしている女性。そんな彼女の様子も御構いなしに、少年は繰り返す。
「質問に答えろ、こいつは一体なんだ?」
自分よりも幾つか年下に見える少年の冷たい口調に怯むことなく、サイドダウンの女性は素直に答えた。
「わからないの。私も初めて見たから。あっ……」
何の情報も得られないと悟ったのか、少年は最後まで聞くことなく彼女の横を通り過ぎて、大通りとは反対側へと進んで行く。一度も振り返る素振りもみせず、少年が辿り着いた場所。それは錆びだらけの鉄のドアの前だった。少し乱暴に、けれど静かにドアをノックした数十秒後、ドアの隙間から来訪者を覗き込むように出てきたのは中途半端に頭髪を生やした中年男だった。
「どの臓器が欲しいんだ?」
「赤を四百」
それを聞いた中年男は目を見開いてドアを閉めようとするが、少年が差し出した札の枚数を見て動きを止める。ひったくるようにそれを受け取りドアを閉めると、暫くしてから茶色の紙袋を放り投げるように渡した。そのまま中へ戻るかと思いきや、女性の悲鳴が聞こえると興味を示して路地裏へと足を進める。
「兄ちゃん、運がいいな。またあいつらが来たってことは、犯された女のおこぼれにありつけるぜ。アンタは気前も良かったし、ここは一緒にまわ」
音もなく、いや、中身の無い頭を地面に落下させる音を鈍く立てながら、中年男は絶命した。誰にも気づかれないこの裏の世界で、気づかれても誰も気にしない、この世界から外れた男の一生はここで終わったのだ。
たったいま男の首を跳ねたことすら忘れていそうなフードの少年が来た道を戻っていくと、橙色の髪をした女性が三人の男に取り囲まれていた。ニットのセーターの中に手を入れられ、地面に押し倒されている。その被害者は、恐らくはフードの少年の跡を追って来たであろう、あの女性に他ならない。
何の関心も示すことなくそこを通り過ぎようとしていたフードの少年であったが、いかにも柄が悪そうな男たちは彼の行く手を塞いだ。口封じというよりもむしろ、この状況下で自分たちの間をズカズカと通過しようとしたフードの少年の態度が気に食わなかったらしい。フードの少年が胸倉を掴まれそうになったその時、一番元気が良さそうな男は自分の指が数本綺麗に失くなっていることに気づいたのだろう。
何が起きたのかすら理解できないらしく、悲鳴を上げるわけでもなく、膝を着き、血走った目で自分の指を見つめ続けている。その目の前で、フードの少年が指を揃えて腕を引いていく。どうやら彼は手刀を扱える異能者らしい。つまり、指を切り落としたのもフードの少年であり、これから叫び声を上げるであろう者の頭を先に斬り落とそうとしているのも、また彼なのである。
「ダメ!」
手刀の軌道を塞ぐようにフードの少年にしがみついた女性の肩はぱっくりと開き、溢れるように血が流れ出す。彼は女性を突き放すと指を失った不良に叫ぶ時間も与えずに顔を蹴り飛ばした。嘘みたいに身体を旋回させて吹き飛んだ際、辺りには白い歯が数本、音を立てて散らばっていく。それを見て逃げようとした残りの男たちは襟を掴まれ壁に投げつけられると、嫌な音を立てて悶絶した。ひとりは手首が不自然な方向に曲がっている。
フードの少年はそのまま去ろうとするものの、肩を押さえてしゃがみ込んでいる女性が視界に入ると立ち止まった。その数秒後、彼女は痛みに震えながらも、自分がお姫様抱っこをされていることに気づいたのだろう。顔を見る限り自分より少しだけ年下に見える少年にこんな抱き方をされているのだから、顔が真っ赤になるのも無理はない。そして、自分を抱えている者が、縫うように壁を蹴りながらビルの間を上がっていることに気づくと、目を見開いた。フードを深く被った少年は満月が上る夜空を飛ぶようにしてこう言った。
「家を教えろ。答えなければここで落とす」