赤眼の赤月 其ノ五
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黒崎学園のファーストバレットの首に犬歯を突き立てた男。それは赤月時雨が唯一の存在だった。流し込まれた毒を吸い出すため、大切な仲間を薔薇の悪魔から守るため、彼は彼女の血で喉を潤した。
しかし、今となっては、紫煙乱舞は殺人鬼の糧と成り果ててしまっている。どういうわけか、捕食者は両腕を引き千切られた姿をしているものの、吸血鬼に一度首を咬まれれば抵抗などできたものではない。最期の力を振り絞り両腕を奪ったであろう紫煙乱舞ではあったが、痛覚が死んだ相手ではその抵抗も余り意味を成さなかったのであろう。ただしそれは、戦えるものが自分ひとりだけに限った場合である。
――突然、何者かが紫煙乱舞の首から血を滴らせる修羅の髪を乱暴に掴んだ。吸血鬼が椿の柔らかい首筋から口を離したかも確認することなく、それどころか彼女の首の肉ごと抉る勢いで。道路を挟んで反対側のビルへ叩き込んだ。
奇襲を受けたにもかかわらず血塗りの修羅はすぐに体勢を戻し、肩の断面から新たな腕を生やした。が、まだ十分に血液を取り込めていなかったらしく、右腕しか再生できていない。浅く首の肉を持っていかれた糸車椿は、痛みに表情を歪めたまま壁にもたれ掛かっている。そんな彼女を気遣う素振りを全く見せない奇襲者の眼は、腰の古びたボトルに手を伸ばしかけている血塗りの修羅を既に捉えていた。
血牙が複数飛んで来ると、血塗りの修羅は手を止めて横に飛び避けるものの、間髪入れず上から現れた人物が両腕を振りかざす。放たれた三日月型の真っ赤な刃を修羅は着地と同時に避けたものの、右足の指を靴ごと切断されている。
全身の痛覚がないかの如く、後方に飛びながらボトルで血液を補充した血塗りの修羅は、あんぐりと口を開け黒い塊を放った。しかし、突如地面を突き破って現れた血柱にぶち当たり、彼の眼の前でそれが炸裂している。文字通り血塗れになりながらも起き上がる修羅の顔を、爆煙の中から飛び出してきた者が容赦なく蹴り飛ばす。あまりの衝撃に腰に掛けていたボトルが修羅の頭上でぐるんぐるんと舞い始めた。邪魔だと言わんばかりに三日月型の刃がボトルを貫くと、それは上空で真っ二つになり、そこから降り注ぐ血はまるで血の雨のように見える。
激しい「殺し合い」の最中、彼らは黒い化け物の死体が横たわる場所まで移動しており、その死骸にも血の雨が降り注いでいた。死んでいるにもかかわらず不気味な存在感を放つ死骸を前にしてもなお、血塗れの吸血鬼たちは悍ましい戦いを繰り広げている。いや、もはや「一方的な殺し」と言った方が正しいだろう。赤い世界に引きずりこまれた吸血鬼は、眼の前の殺人鬼までもを、その世界の色に染め上げようとしているのだから。
その地獄絵図の唯一の目撃者。それは他でもない、紫煙乱舞の糸車椿だ。彼女は血が滴る首を抑えながら、建物の壁を支えにズルズルと友人の元へ足を引きずっている。今にも倒れてしまいそうな椿が、悲痛な声で必死に伝えようとしている言葉。それは、かつての彼女とは相反するものだった。
「こうなるのは、私だけでいい……」
その言葉の真意は、糸車椿の心の中を覗かなければわからない。だけれど、彼女が目の当たりにした一連の戦闘から、それは推測できるような気がする。血塗りの修羅と同じく眼を全て血に染め赤い涙を流している赤月の姿を、狂気に満ちた笑顔を浮かべている赤月時雨の姿を前にすれば、答えはひとつしかない。
――赤時雨から、彼は戻れなくなってしまう。イレギュラーを何人も葬ってきた紫煙乱舞だからこそわかるはずだ。人を殺す感覚を。それに喜びを感じてしまう人間の弱さを。満たされない何かから逃げるために、人の命を奪うことを選択してしまった人間の末路を。そして、自分とは全く違う人間のはずの赤月時雨が、それを成してしまったあと、どうなってしまうのかを。
そんな彼女の想いは、届きはしなかった。目の前で、糸車椿の胸を締め付ける光景が悪い方向へと展開していく。切断された足を庇いながら付近にあるESPの死体へと向かう血塗りの修羅。あと少しというところで死体の向こう側に赤時雨が降り立った。信じられないことに。赤月はその死体の傷口に腕を突っ込んだのだ。内臓を引きずり出すかの如く大量の血液を引き出すと、手を着いてそれを地面に流し込んでいく。
戦意を喪失したように次の死体へと向かおうとする血塗りの修羅の右肩を、突然地面から突き出してきた血柱が貫いた。こうなってしまっては、いくら血塗りの修羅といえども動けはしないのだろう。串刺しにされた吸血鬼はうな垂れるように俯き、血反吐を吐き出しながら残された両脚で立っているのがやっとに見えた。
掌から血刀を生やす赤時雨が一歩ずつ、ゆらりゆらりと身体を揺らしながら、獲物にトドメを刺そうと足を進める。ついに修羅の眼の前で立ち止まると、首を斬り落とそうと腕を大きく引いた。