物語の交錯 其ノ七
顔面にナイフが突き刺さっているであろう数秒後も、パニックになった吸血鬼の悲鳴は続いている。つまりは、彼はまだ生きていた。寸前でナイフを止めたのは、水色の手だったのである。すると、ナイフを捨て去った液状の化け物は、うるさいとばかりに赤月の頬を雑に引っ叩いた。
「ほーら、ワタシの言った通りだ。黒吸血鬼君にはできない」
この冷たさを陽気なもの言いで隠そうとする声の持ち主を、赤月時雨は知っている。その言葉を合図にするように、液状の化け物が溶けるように消え去った。
「……副大佐」
「こらこら、そんな恨めしい眼でワタシを見るな、黒吸血鬼君。どちらかといえば、ワタシとジローは君を擁護していた側の人間だ」
苦しげに膝と手をついた吸血鬼は、怒りと不信の眼差しで副大佐を睨む。
「……一体何のつもりですか」
自分を擁護するだとか、黒吸血鬼君にはできないだとか、ジローという人物は何者なのか……意味のわからないことが多過ぎる。それに、液状の化け物の正体や、ナイフを飛ばしてきた人物についてもだ。ただ一つ、彼女の発言から推測が可能なことがある。
「さっきの化け物は……副大佐の仲間の能力なんですね?」
雪ごと拳を握り締める吸血鬼の眼付きはますます鋭くなっていく。
「そう、君の言う通りだ。ただ、君の怒りは収まらないだろうが、この襲撃の理由をいま答えることはできない」
「いつもいつも、俺にばかり突っかかって来やがって……。さっきのは下手したら死んでたぞ!」
彼の言う通り、糸車椿と戦う羽目になった模擬戦や伊原ヒロとの強化合宿での戦いはまだ助けが入る可能性はあった。しかし、今回ばかりは明らかに不意打ちであり、おまけに襲撃者も不明だ。怒るなと言う方が無理というものだろう。
「わかるよ、君の気持ちはよくわかる。ワタシもESPに入る前は国の犬どもを殺してやりたいと思ったことは何度もあった。自分たちの正義というものを傲慢な態度で振りかざそうとするあいつらは憎たらしくて堪らなかった」
副大佐ともあろう人間からそんな言葉を聞くとは思っていなかった吸血鬼は一瞬戸惑ったが、その副大佐がニコル・クリスタラであるということを考慮すると、そう不思議なことではないと改めて思った。
「そういうワタシも今や、名目上では国の犬に成り下がっているけどね。それはさておき、この襲撃はとある不安から生まれた君への疑惑が元となっているのだが――、死を目の前にしてもその程度の力しか発揮できないのであれば、君には訓練された中級のESP隊員を何人も殺すことはできない」
「それって……」
――つい最近、中級のESP隊員が殺されたと言っているようなものだった。だとしても、なぜ自分が容疑を掛けられなければならないのか。
「俺は何もしてないっ! もう面倒事に巻き込むのはやめてくれよ……」
怒りと虚しさの入り混じった声を漏らした吸血鬼。彼に対して副大佐が掛けた言葉は、決して優しい言葉ではなかった。
「わかってるよ。……だが、君はもう少し大人になるべきだ。そこらの高校生とは違うことはわかっているはずだ。確かに君は弱い。だが、覚醒した時の力は未知数だろう」
自分の何が他の高校生とは違うのか。妹を守るためにイレギュラーを殺してしまった過去だってある。だけれど、誰だって家族を殺されそうになればそうせざるを得ないことだってあるはずだ。
――と、今までの彼であればその考えを貫き通すことはできていただろう。だが、今はもう違う。あの夏休みの直前に薔薇の悪魔に告げられた事実。能力増幅薬物にあたる『レッドアイ』は、自分の血液を元にして作られた。もう、関係無いでは済まされないのだ。たとい、自分の意志とは関係無しにそれが起こっていたとしても。
副大佐は、周囲に視線を走らせると、キスができそうなくらいに吸血鬼と顔を近づけて言った。
「いいか、よく聞きなさい。今回の疑惑について薬物は関係ないし、現時刻をもって調査はまた振り出しに戻る。とはいえ、君はきっとまた世間から疑いの目を向けられることとなるだろう。また、ESPも君を白だと考えている者はほぼいないと覚えておきな」
「これだけのことをされて、今更そんなことを言われても何とも思いません。そもそも俺はESPを信用してなんかいません」
「そう、それでいい。組織なんてものは疑うことだ。君もワタシも誰かを信じるとすれば、それは個人にした方が良い。心から信用できる人間を見つけることだ」
「お説教は懲り懲りなんで、もう行っていいですか?」
副大佐の横をすり抜けるようにして離れた吸血鬼を、彼女が呼び止める。黒いウェアからははっきりと見えないが、彼が背を付けていた雪にはしっかりと血液が染み込んでいた。
「ほらほら、待ちなさい。ワタシの部下が君に傷を負わせてしまった。手当をさせてはくれないか」
「人を待たせてるんで、大丈夫です」
そういって、溜め息をついた副大佐を軽くあしらい、吸血鬼は雪山を登り始める。赤月時雨が信用している人物。そして、謎の異能力による襲撃を受けたことを唯一知る少女。彼女は今も、きっと赤月のことをあの林で待っているはずなのだ。
「おーい、黒吸血鬼君」
またしても呼び止められた吸血鬼は、仕方なしにゆっくりと振り返る。
「君が一度でも心を開いた人間であれば、この先何があっても信じてやって欲しい」
少しばかり大きな声でこちらに伝えているところからして、周囲の人間。つまりは先程の異能者に聞かれても構わない内容のようだ。
「君が信じてあげなければ、その者は誰からも信じてもらえないだろう。君の仲間たちは、君が信頼してくれているからこそ成り立っている人間関係の上にあると思うんだ」
それだけ聞き届けた吸血鬼は、再び雪をざくりざくりと踏み鳴らしながら山を登る。
「……なんだよ、それ」
それではまるで――自分の友人たちの中に、不審な動きをみせている人物がいると言っているようなものだ。むしゃくしゃする感情を誤魔化すように、髪を掻き毟った吸血鬼は黙々と目的地へと進む。
碧井涼氷と別れた場所まで、あと数メートル。木の影から青髪を覗かせて赤月の帰りを待っていた少女が、待ちくたびれたと言いたげな顔で歩いてきている。恐らく彼女は赤月がナイフで刺されたところを目撃していたのだろう。
――遅いです。と言いたげな目で抱きついてきた彼女は、そっと彼の背に空いたウェアの穴を確認していた。歩きながら手袋を外したのも、それをしっかり確認するためだったはずだ。
「なあ、涼氷」
「わかっていますよ。このことは黙っていてあげます。――そういえば、気絶する前は上羽巳さんと一緒だったと思ったのですが」
「いや、俺はひとりでこのコースに来たけど。みんな雪だるま作ってたし」
「そう――ですか」
何も気に留めることもない吸血鬼は涼氷を抱き上げる。そして、特に会話をすることもなく雪山を滑っていく。何かを考えることに疲れたかのように、その思考を停止させたまま、ただひたすらに。