眠らない夜 其ノ十
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強化合宿生に割り当てられている部屋は特別広いものではない。けれど、設備やアメニティはビジネスホテル並みであり、学生が使うにしては少々贅沢なものだった。そんな部屋で音楽を聴いていた吸血鬼はウトウトし始めている。ベッドの上からずり落ちそうになってキョロキョロし始めた彼は、時計を確認した。
現在時刻は二十三時四分。再び重くなり始めた瞼を押し上げ、やたらとピカピカのシャワールームへと入っていく。後頭部のたんこぶを気に掛けながらシャワーを浴び終えた赤月は、小銭を手に部屋を出ている。欠伸をしながら彼が向かった先は、最上階にあるラウンジ。ただ飲み物を飲むためにそこを選んだのは、この階だけ使われていないからだ。宿泊用の部屋があるわけでなく、リラクゼーションルーム等があるだけで、この時間帯ならば誰もいないと踏んだのである。
――ガコンッ、と、自動販売機が缶ジュースを吐き出す音が響く。静かな施設内ではやたらと大きく聞こえたため、吸血鬼は思わずビクッとした。少しだけ恥ずかしく思った彼は、誰もいるわけがないのにそっと後ろを振り返っている。
「――あ」
ほぼ自動販売機が発する光しかないものの、赤月時雨には部屋着姿の女子がはっきりと見えていた。
「美咲さんも喉が渇いたのか?」
「そうね。でも眠れなかったと言った方が正しいわ。枕が変わるとどうしてもダメなの」
炭酸ジュースを口にしている吸血鬼の元へと歩いてきた美咲は、興味深そうに彼の髪を観察し始めた。シャワーを浴びて髪をまともに乾かしていないものだから、いつもと雰囲気が違うためだろう。
「わざわざ最上階にまで来るなんて、面倒だろ」
「私もあなたと同じで、人が集まりそうな場所は避けるタイプだから」
「美咲さんの場合は人気者過ぎて疲れそうだよな――っと」
女子特有の大きな財布を開け始めた美咲よりも先に、赤月はポケットから取り出した小銭を入れた。
「こんなんで悪いけど、せっかく優勝したんだからお祝いの気持ちだ」
「ふふ、ありがとう」
恐らく美咲の目には美化された吸血鬼が映っていることだろう。急に頬をピンク色に染めた彼女は遠慮がちにボタンを押している。それから二人は誰もいない真っ暗なソファに並んで腰かけた。修学旅行と違って見回りもないため、気楽なものだ。
しばらく黙っていた二人であったが、赤月が飲み干した缶をテーブルに置いたところで美咲から切り出す。
「赤月君――あの時は私を止めてくれて、ありがとう」
「別にいいって。それに俺の方こそお節介染みたところあったし……ごめんな」
「謝るのは私の方よ。どうしようもない程に取り乱してしまって……ごめんなさい」
避雷針美咲が正気を失いかけたあの日から、もう一カ月は経過している。しかし、赤月はその話題に触れようとせず、美咲なりに心の整理をする時間を与えていたのだ。ユリアにも相談しており、やはり自分から話せるようになるまではそっとしておいた方が良い、という結論に至った。
とはいっても、夏休みが開け学校で顔を合せるようになってからは、いつも通りどころか以前よりも二人は砕けた会話をするようになっている。そしてそれは、赤月と美咲の間だけに言えることではなく、避雷針姉妹の仲も少しだけ改善が見られるようになった。
「私はお母さんが幸せになれるなら、どんなことでも我慢するつもりだったの。いま思うと馬鹿みたいだけれど、あの時の私は本気でそう思ってた。お母さんがあんな笑顔をみせたのは、本当に久し振りだったから……」
テーブルに置かれた缶から落ちる水滴。それが見えているのは吸血鬼だけだが、そこに美咲の涙を見ているのも赤月だけだろう。
「お姉ちゃんははっきりとは言わなかったけれど、私がお父さんを知らないことに負い目を感じてる気がした。これはあくまで予想だけど、お母さんを思って独り善がりになっていた私と一緒で、お姉ちゃんが私たちから離れたのも、お父さんのことで何かムキになっていたところがあると思うの」
赤月に血を吸われて気を失っていた美咲には、ユリアと父親の約束の話を知る由はない。たとい話し合う機会が得られたとしても、ユリアは父と二人だけの約束を口にすることは絶対にないだろう。けれど、自分と同じく不器用で意地を張ってしまう姉自身のことならば、誰よりもわかっている。そう確信した赤月時雨は、暗いラウンジで小さく微笑んだ。
「美咲さん、それを聞けただけでもう十分だ。あとはもう、避雷針家の人間と話し合っていけばいい。だけど何かあった時は、小さなことでも相談してくれていいぜ」
缶ジュースを両手で包み込むようにして俯いていた美咲は、ゆっくりと顔を上げ、とても良い笑顔をみせた。
「本当にありがとう。――さっそくだけど、ひとつ良いかしら?」
「ん? 何だ?」
赤月が置いた缶の横に並べるように自分のそれを置くと、避雷針美咲は吸血鬼の少年に向き直った。そして、胸に手を当てて、深呼吸をしてからこう口にしている。
「私は赤月君のことが大好きよ。けれど、ちゃんとした告白をする勇気はまだない」
意外にも赤月は驚いておらず、真摯に彼女の言葉に耳を傾けている。彼には、初めに言った「大好き」の意味がきちんとわかっているのだろう。その気持ちに関しては赤月自身も自信を持って彼女に同じ言葉を口にできるはずだ。
「もし私が想いを告げることができたら――あなたの本心を聞かせてもらえる?」
「俺は友達を作るのがやっとな人間だったから、そういうのよくわかんないけどさ……、その時は自分と向き合って真剣に考えるよ」
すると、美咲は赤月の手を取って厳しい表情を浮かべた。
「今度は赤月君から言うべきことがあるはずでしょう。余計なことは考えずに、気にかかっていることを言ってみて」
どうやら、美咲は以前よりも赤月のことを理解できるようになってきたらしい。今度ばかりは驚いたような顔をしたものの、彼は包み隠さず心に引っ掛かっていたことを口にした。
「……もし涼氷の周りのことで不審に思うことがあったら、俺に教えてくれないか? 何かがおかしいんだ、あいつ」
「わかったわ。――私は仲が良いわけじゃないけれど、赤月君や忍さんたちとはまた違った目で見れると思うから、その時は報告する」
内容もさることながら、お互いの関係にとってもデリケートである部分を晒け出した彼らは、一カ月越しの心の安らぎを感じ始めていた。
今になってやっと、避雷針美咲は自信を持って口にすることができるはずだ。
――私は赤月時雨君の友達であるということを。