眠らない夜 其ノ九
襟を掴まれるようにして、引きずられていく黒髪の吸血鬼は助けを求めるように涼氷の方を見る。すると、模擬戦開始前にみせた笑顔を浮かべながら、可愛らしく手を振られるだけだった。完全に楽しんでいると思ったが、それはそれで彼を安心させてくれる仕草でもある。
――碧井涼氷がそうしているのなら危険はない。根拠も何もないのだけれど、赤月時雨にはそう感じたのだ。
「あの……副大佐」
「ほい、君はこれを持つ」
鼻歌交じりにトレーを手渡してきたESP5のセカンドバレットは、もうひとつトレーを手に取ってバイキングコーナーへと進んでいく。なんとなくではあるが、自分に何をさせようとしているか気づいた赤月は大人しく後を追う。
「ねぇねぇ、どれが美味しかった? ここのおじさん、同じメニュー作っても毎回味が違うんだ。ホントわざとかって思うくらい差があって困るんだよねー」
思ったよりも気さくで優しげな上に、かなりの美人だと赤月は素直に思った。普段はただならないオ―ラを醸しているものの、今はオフモードらしい。この女性が恐ろしい噂を持つ、あのニコル・クリスタラとは到底思えないだろう。その横顔に見惚れていた吸血鬼は、あろうことか副大佐に適当な返事をしている。
「どれも美味しかった気がしますけど」
突然、小指の青い爪を顎の下に当てられた赤月は一気に青ざめていく。
「君さ、デートとかしても行き先とか、食事するとことか決められないタイプだな?」
気が動転していた吸血鬼は彼なりに必死に答える。
「とりあえず、妹の言うこと聞いとけば問題ないんで……」
急に副大佐の顔が真顔になったところで、自分がとんでもなくアホなことを口走ったことに気づいた赤月は口をパクパクさせて冷や汗を流し始めた。相手が副大佐であろうとなかろうと、こういう話は女性の前でするものじゃないと最近学んだばかりだというのに。
と、ここで副大佐の頬が膨らみ始めた。
「――ぷ、……アーハッハッハッハッハッ! それ女子の前で言っちゃダメだよ!」
「……既に一回やってます」
目の端に涙を浮かべ始めた副大佐は腹を抱えたかと思うと、ついにはトレ―で吸血鬼の頭をバンバンと叩き始めた。細身の割に力が強いのか、それともトレ―の素材のせいなのかは定かではないが、楽しげな音が鳴り響いている。あまりにも目上の人間であるためどう対処していいかわからず、赤月はそれが止むまで木魚のように堪え続けた。
「きみ面白いねー。ジローにも会わせたいなあ、もう」
『ジロー』が誰のことを指しているのかはわからないが、それなりに気に入ってもらえたらしい。むしろ、赤月にとっては迷惑極まりないのだけれど。
「それで、俺は椿さんの分を取ればいいんですね?」
副大佐は青い爪をした小指で涙を拭いている。
「そうそう、君は椿に気に入られているから、好きなもの知っていると思ってね」
それだけ伝えると、ニコル・クリスタラは楽しげに自分の皿に料理を乗せていく。赤月が椿のために和食を中心に選んでいる一方、彼女は肉や卵料理ばかり取って野菜を取ろうとはしない。その様子を若干引き気味で見ていた吸血鬼は、いじけたような表情になった副大佐に睨まれた。
「なに? 文句ある?」
「いえ……ないですけど」
何か言いた気にしていた吸血鬼から視線を逸らそうとしないため、彼は思い切って気になっていたことを言葉にした。
「椿さんはどうしてますか?」
「特に変わりないよ。叱っといたし、食事を取らせたら部屋に返すさ」
柔らかい表情に戻ったところからして、彼女の言葉に嘘はないだろう。赤月の予想通り、
ESP側が椿を拘束したのは特別な事情があるのではなく、強化合宿の趣旨としての対応だったのだろう。
いきなり対戦相手の骨を折ったとなれば、誰だって彼女と戦いたがらない。恐らくは伊原ヒロがこの措置の対象となるはずであったが、今回は意外にも糸車椿がそれに当たったというだけだろう。
短刀を使ったのならば明らかな殺意があると認めざるを得ないが、それにも該当しない。
そしてなにより、彼女とは約束をしたことがある。
『君の覚悟を知りたかったというだけで、ここまでの狼藉は許されることではない。もう二度とこんな真似はしないと、ここに誓おう』
そう約束した。けれど、赤月時雨は気づいてはいなかった。
その約束が彼以外の全ての人間に適用されるものではないということを。
そう――紫煙乱舞は赤月時雨という吸血鬼と、その約束を交わしたのだから。