合い言葉は、木枯らしが消していく
段ボールみたいに薄い夕方だった。木枯らしが公園の砂を撫で、ベンチの背板がきしむ。
史織は先に座っていた。手袋の指先で、膝の上の缶コーヒーを転がしている。
「今年も来たね」
「来たよ。……来られた、が正しいか」
梓真は息を吐いた。白い。
「合い言葉、覚えてる?」
「もちろん」
史織が笑う。笑い方だけは毎年同じだ。
「じゃあ言って。言えた方が、来年も会える」
梓真は頷いた。言える。頭の中にある。たった四音。何度も反芻してきた。
なのに、口を開いた瞬間、舌が乾いた。
「……」
「ほら。木枯らしに負けた?」
負けたんじゃない。喉の手前で、言葉がほどけて、砂みたいになって落ちる。
「違う。覚えてる。でも——」
「でも?」
梓真は拳を握り、爪を掌に立てた。痛みで形をつなぎ止めようとする。
「言うと、何かが壊れる気がする」
史織は缶を立て、淡々と言った。
「壊れるのは、毎年少しずつだよ。だから合い言葉で縛ってる」
梓真は笑えなかった。
「史織は、いつも言えるじゃん」
「うん。私は言える」
「ずるい」
史織は肩をすくめる。
「ずるくない。梓真が、呼ばなくなっただけ」
梓真は眉を寄せた。
「呼ぶ?」
「うん。合い言葉ってね——“言葉”じゃない」
木枯らしが吹いた。枯葉が一枚、梓真の靴にぶつかって跳ねる。
「合い言葉は、私の名前だよ」
梓真の口の中で、四音が崩れた。言えるはずなのに、言えない。
「……し、」
史織は静かに首を振った。
「無理しないで。無理すると、来年どころか今日も消える」
梓真は、胸の奥が空っぽになるのを感じた。
「ねえ。俺、来年……」
「来年は、私が先に呼ぶよ」
史織は笑って、息を吸った。
そして言おうとして、言えなかった。




