第54話「勝機なき戦場、零れ落ちる光」
悪食は蠢きながら進行を続けていた。
黒い泥のような肉体が脈動し、ぬるりと形を変えながら触手を伸ばす。
一本一本が生き物のように蠢き、獲物を探る蛇の舌のように空気を舐めていた。
その触手に絡め取られた魔物たちは、悲鳴を上げる間もなく崩れていく。
牙を剥いた狼も、鋼鱗を纏った竜の幼体も、翼を広げた怪鳥も――例外なく一瞬で溶け落ち、形を失った。
骨も肉も魔力も、ただの液体へと変わり、どろりと悪食の本体へ吸い込まれていく。
魔物たちの断末魔が重なり、耳にこびりつく。
「……魔物を……食べてる……?」
美月が、信じられないものを見たように、かすれた声で呟いた。
彼女の瞳は恐怖と嫌悪に震えている。
「そうじゃ」
リルベアが低く答える。
その声音には皮肉も余裕もなく、ただ冷徹な響きだけがあった。
「喰らうことでその者の力を奪い、吸収して進化する。それが――悪食じゃ」
言葉を聞いた美月は硬直し、白い喉がこくりと上下する。
唾を飲み込む音がやけに大きく、緊張を際立たせた。
俺は奥歯を噛み締め、額に滲む汗を拭うこともできずに口を開いた。
「……本気でやりあったとして、俺達に勝機はあるか?」
答えを聞きたくはなかった。
だが、聞かずにはいられなかった。
そして返ってきたのは――期待を粉々に砕く、あまりにも冷たい言葉。
「ないな」
リルベアの瞳が、曇りなく俺を見据えていた。
「あやつは既に多くの魔物を吸収し始めておる。その中には……クゼスや、男勇者も入っておるじゃろう。絶対に勝てん」
短く、断言された。
その一言は心臓を素手で掴まれたかのように重く、呼吸が止まりそうになった。
沈黙が三人の間に広がる。
重苦しく、逃げ場のない空気。
やがてリルベアがその沈黙を切り裂いた。
「今のわらわ達に出来るのは、世界中にこの事実を伝え、出来るだけ多くの勇者と魔王に協力を仰ぐことじゃ」
現実的な、だが絶望的な言葉。
美月が小さく息を呑み、唇を震わせて答えた。
「……それは、絶対に叶わないことだと思います」
その声音は弱々しかったが、確固たる確信を帯びていた。
一瞬、リルベアの視線が美月へと向く。
だがすぐに戻される。
「じゃろうな。どういう状況であれ、魔王と勇者が手を組むなど、互いの利益が伴ってこそじゃ。皆が皆、お主らのような関係を築けるわけではない」
冷たい言葉。
だが、それは真実だった。
リアの言葉は鋭く、胸に深く突き刺さる。
――なぜ、こんな状況にまでなって争う?
利益? そんなものを言っている場合か?
悪食がさらに力をつければ、誰も止められなくなる。
そうなれば、この世界は本当の地獄に変わるんだぞ?
不安と葛藤。
そして、抑え切れぬ憤りが心の奥で渦を巻いた。
「どちらにしても……今のままでは、どんどん吸収されて力をつけていきます」
美月の声が震える。
それでも必死に剣を構え直し、前を向いた。
「魔物達を排除しなが――」
その時だった。
俺だけが“何か”の接近を察した。
肌を切り裂くような悪寒に、思考が真っ白になる。
喉の奥が勝手にひゅっと狭まり、呼吸が詰まる。
視線を前に向けた次の瞬間――。
悪食から伸びた二本の触手が、空気を裂きながら一直線に迫ってきた。
それは矢でも魔法でもない。
圧倒的な質量と殺意を宿した“死”そのものだった。
俺の視界の両端を鋭く走り抜ける。
「――ッ!?」
「がはぁッ……!」
「ぐッ……!」
耳を突き破る嫌な音。
肉を裂き、骨を砕く鈍い音が重なった。
「――は?」
振り返った俺の視界は、まるでスローモーションのように引き伸ばされる。
音も匂いも遠ざかり、ただ光景だけが鮮明に刻まれる。
そして――叩きつけられた現実。
美月とリルベア。
二人の胸部を、悪食の鋭く尖った触手が無慈悲に貫いていた。
赤黒い液体が噴き出し、床を染める。
音も光も遠のいていく。
胸を貫かれた二人の姿が、まるで永遠に焼き付いたかのように視界から離れない。
――俺の思考は、完全に凍りついていた。




