第53話「現出せし天災、悪食の胎動」
魔素が収縮を始めた。
赤黒い霧が渦を巻き、空間の中心へと集束していく。
その密度はもはや大気ではない。鉄の塊を肺に押し込まれるような重苦しさに、呼吸一つが難しい。
パキン、と乾いた音。
フロアの空間そのものに、蜘蛛の巣状の亀裂が走った。
黒い線が四方に伸び、床も壁も天井もひび割れた鏡のように歪む。
「なんなんだ、あれ……!」
思わず声が漏れた。
これはただの魔法や結界の崩壊ではない。世界そのものが割れ、外側にある何かが押し寄せてきている。
美月は青ざめた顔で剣を握りしめ、肩を震わせている。
彼女の光の剣すら、濁った空気の中で輝きを弱めていた。
「始まりよったか……」
リルベアの声が静かに響いた。
いつもの皮肉も余裕もない、緊張を帯びた声音。
黄色の瞳に強い決意の光が宿る。
「ヴァルトよ、悪いが――ダンジョンを作り変えるぞ」
「はぁ!? 今そんな――」
驚愕する俺をよそに、リルベアは即座にモニターへと手を伸ばした。
指先が走り、無数の符号と魔術式が空間に浮かび上がる。
「っ……揺れるッ!」
美月が小さく悲鳴を上げ、よろめいた。
直後、ダンジョン全体が大きく震えた。轟音と共に床が波打ち、壁がせり上がる。
フロアは裂け、視界がぐにゃりと歪む。
次の瞬間――目の前に広がったのは、見渡す限りの超巨大空間だった。
天井は高すぎて霞み、壁は遥か彼方。
まるで別世界を丸ごと切り取ったかのような光景に、息が詰まる。
「美月、大丈夫か!?」
彼女の腕を掴んで支えながら、俺は叫んだ。
「リア、一体何をやったんだ!?」
リルベアは一度だけ振り返り、冷ややかに答える。
「ダンジョン内の下等生物どもを強制的に外へ排出し、五階層までの空間を一つに集約したのじゃ」
「なっ……!? なんでそんなことを――」
問いかけようとした瞬間だった。
亀裂の一つが大きく裂け、黒い咆哮と共に魔物の群れがあふれ出した。
牙を剥いた狼型、黒鱗に覆われた竜の幼体、羽虫の群れ、触手を蠢かせる異形。
大小無数の魔物たちが、津波のように押し寄せてくる。
床を割り、壁を砕き、咆哮が轟音となって空間を揺らす。
ただの群れではない。数千、数万単位で際限なく湧き出ている。
「なっ……止まらねぇ……!」
次から次へと新手が押し寄せる、有象無象の濁流。
「スタンピード……」
美月の声が震え、呟きが漏れた。
その言葉を聞いた瞬間、脳裏に蘇る。
――悪食。
「まさか……!」
息が詰まる。
視線を遠くに向けると、ただの魔物の奔流では済まないものがあった。
群れを呑み込み、さらに奥から迫る異様な気配。
一際不気味な闇の渦が渦巻き、その中心から――。
ぐちゃぐちゃに溶けたヘドロの塊のような“何か”が、ずるりと這い出てきた。
粘性の塊が脈動し、魔物を飲み込みながら形を変える。
腕のようなものを伸ばし、飲み込んだ魔物の形を中途半端に再現しながら膨張していく。
蠢くたびに異臭が放たれ、喉を焼き、目を潰すような刺激臭と魔力の圧が広がる。
吐き気を催す腐臭に、美月が顔を覆い、膝を折りかけた。
「う、っ……! なんて匂い……!」
俺ですら胃の中が反転するような感覚に襲われる。
あれは、ただの魔物ではない。
生態として存在していること自体が間違いのような、災厄の塊。
「現れたぞ」
リルベアの声が鋭く響いた。
その瞳は真っ直ぐに、その異形を射抜いている。
「自然災害に次ぐ、もう一つの――天災がな」
空間を揺るがす轟音が重なり、魔物の群れと共に“悪食”が迫ってくる。
黒い渦の奥から這い出るたび、フロア全体が脈動し、ダンジョンの根幹が悲鳴をあげていた。
視界に広がるのは、ただの戦場ではない。地獄そのものだった。




