第52話「滅びの魔石、地獄の幕開け」
クゼスの胸を貫いた青黒い閃光がようやく収まり、フロアを覆っていた重苦しい気配が静まっていく。
満身創痍のクゼスの身体から、黒い靄が立ちのぼる。
それは煙ではない。肉体そのものが崩れ落ち、灰になっていく。
「……ク、ククク……まさか……本当に……殺られるとは……思いませんでしたよ」
声は掠れ、血と灰にまみれていた。
黒翼がひび割れ、床に崩れ落ちる。折れた翼の破片が硬い石床に散らばり、カラカラと乾いた音を響かせる。
ヴァルトは息を荒げながら剣を構え直す。
額から滴る汗が血と混じり、視界を曇らせる。
美月も、リルベアも、誰もがその様を息を飲んで見つめていた。
だが――クゼスの瞳だけは、まだ死んではいなかった。
「しかし……私はしつこい魔王なんでね。……ただで殺られるつもりは……ないですよ」
口元に不気味な笑みを浮かべ、虚ろな瞳のままこちらを睨み据える。
灰になって崩れ落ちながらも、なお力を宿すその様子は、まさしく執念の化身。
その執着の矛先は、やはりリルベアだった。
「――さぁ、皆さん」
声が低く響き渡る。まるで冥府の底から這い出した亡霊のように。
「仲良く……地獄観光と行きましょうか」
次の瞬間、クゼスは指先をひねるようにして魔力を解き放った。
空間そのものが悲鳴をあげ、頭上から無数の魔石がばら撒かれる。
きらめく光の粒は、まるで夜空を逆さにしたかのように散らばり、空気を満たしていく。
だが美しさはほんの一瞬。すぐに黒く濁り、不気味な禍々しさを帯びていった。
「な……にを――?」
ヴァルトが息を呑む。直感で理解した。これは“ただの魔法”ではない。
「まずい! ヴァルトッ! あやつを止めよッ!」
リルベアが叫んだ。その声は今までにないほど切迫していた。
普段の余裕も皮肉も欠片もなく、ただ焦燥と恐怖だけが滲んでいた。
「は? どういう――」
聞き返そうとした時には、もう遅かった。
クゼスが歪んだ笑みを浮かべ、残った片手で魔法を発動させる。
灰に崩れゆく肉体を支えながらも、最後の悪意を世界へ叩きつけようとしていた。
「では――ご一緒に」
魔石が一斉に砕け散った。
凄まじい音と共に、大気が震える。
粉砕された魔石から吐き出されたのは、純粋すぎるほど濃密な魔素だった。
視界が一瞬で濁り、色を失う。
赤黒い霧が立ちこめ、空気そのものが毒へと変わる。
「うっ……ぐ……!」
喉が焼ける。肺が軋む。
魔力そのものを過剰に押し込まれる感覚に、ヴァルトは思わず奥歯を噛み締めた。
血の味が口の中に広がり、呼吸一つで胸が裂けそうになる。
「くっ……! な、なんだこれは……!」
美月の顔色が見る間に青ざめていく。
光の剣が揺らぎ、彼女の手からこぼれ落ちそうになる。
肩が震え、唇を噛み締めても吐き気を抑えきれない。
「……っ、はぁ……っ」
額に脂汗が浮かび、今にも崩れ落ちそうだった。
「美月!」
ヴァルトが支えようと一歩踏み出すが、膝が思うように動かない。
魔素に押し潰されるように、全身が鉛のように重い。
そんな中、ただ一人リルベアだけが動けた。
紫紺の魔力を纏い、まるで自身の身を燃やすかのように抵抗している。
「ヴァルト、美月……腹をくくれ」
その声音は、静かにして恐ろしく冷たい。
決して脅しではなく、確定した未来を告げるような響きだった。
「――地獄が始まるぞ」
フロア全体が赤黒く脈動し、世界そのものが狂気に呑まれるように震えた。
天井からは黒い滴が雨のように降り落ち、息をするだけで命を削られる――そんな空間に変貌していた。
ヴァルトは剣を強く握りしめた。
この一瞬で、ようやく理解した。
クゼスは最期に、自分ごとこの世界の一角を地獄へと変えるつもりなのだと。




