第一話 転校初日
俺は川本綾木、十七歳の高校二年生。
親の仕事の都合で、この夏、東京から島根に引っ越してきた。
窓の外には山が連なり、川が光を反射しながら流れている。空気は澄んでいて、風鈴の音がやけに心地いい。けれど、虫はでかいし、夜はやたらと静かすぎる。
――まぁ、いわゆる田舎ってやつだ。
とはいえ、今日ばかりは田舎の空気を楽しむ余裕なんてなかった。
俺の大事な転校初日。学生生活の命運が、この一日にかかっていると言っても過言じゃない。
「自己紹介でしくじったら終わりだぞ……絶対に噛むなよ俺」
自分に言い聞かせながら、教室の扉を開ける。
二年二組。これから一年間、俺が過ごす場所。
キーンコーンカーンコーン――。
担任の声が響いた。
「今日は二年二組に新しい仲間が増えます。じゃあ、川本くん、どうぞ前へ」
数十人の視線が一斉に俺に注がれる。喉がカラカラになる。
「か、かかかっ……川本っ! 綾っ、木です! と、とと、東京から来ましたぁっ……!」
教室の空気が一瞬止まり、すぐに爆発した。
「ぶははははっ!」「噛みすぎ!」「カッチカチやぞ!」
あ、詰んだわ俺。
開始五秒で、俺の田舎ライフ終了のお知らせ。
「は、はい。川本くん、ありがとう。じゃあ席について」
がくりと肩を落としながら空いている席へ向かう。
心の中で葬式をあげていると、横から声がかかった。
「おーい川本だっけ? さっきは笑って悪かったな。俺は上田太一。よろしくな!」
振り向くと、ガタイのいい男子がニッと笑っていた。
見た目はちょっといかついのに、声はやたらと明るい。
「え、あ、よろしく……」
「部活とか決めてんのか?」
「まだだけど……陸上やろうかなって」
「マジか! 俺も陸上部だ! よっしゃ、同じ部活な!」
ごつい腕で肩をバシッと叩かれ、思わずよろける。
いかついけど……案外優しいのかもしれない。
そこへ、ショートカットの女子が声をかけてきた。
「川本くん、よろしくね! 私、佐藤あかね。クラスの生活委員やってるの。困ったことあったら言って!」
明るく笑うその姿に、クラスの空気が少し和らぐのを感じる。
生活委員って聞いて納得。真面目そうでしっかり者っぽい。
さらに、後ろからひょいっと顔を出した男子がいた。
「俺は井川健人。健人ってよんでくれよな!」
「よろしく...健人」
「おう! よろしくな綾木」
次々に声をかけられて、少しずつ胸の緊張がほどけていく。
――なんだ、思ったより悪くないかもしれない。
昼休み。
太一と健人に誘われ、一緒に弁当を広げる。
緊張はまだ残っているけれど、さっきよりはマシだ。
……その瞬間だった。
「人間はパンのみにて生きるにあらず!」
突然、クラスの後ろから声が響いた。
全員が一斉に振り返ると、窓際の席の女子が立ち上がっていた。
長い黒髪にメガネ。手にはおにぎり。
真剣な表情で、まるで舞台の上の役者みたいに宣言する。
「だがしかし! おにぎりは別だ! 人類は米と共に歩んできた! よって今日も梅干しを選ぶのだぁ!」
教室がどっと笑いに包まれる。
「うわ出たよ深瀬!」「また始まったぞ!」
クラスメイトの声が飛ぶ。
太一が俺に耳打ちした。
「あれが深瀬風。通称“ふっかー”。厨二病女子だ」
ふっかーは胸を張り、俺を指差した。
「おや? 新顔。君、川本綾木だな?」
「え、あ、うん……」
「ふむ。“綾”はしなやか、“木”は大地に根を張る……つまり君は、しなやかに根を張る男だ! よし、“あっきー”と呼ぶ!」
「はぁ!? あっきー!?」
ふっかーは満足げに頷き、教室中も面白がって呼び始めた。
「あっきー!」「おー新しいあだ名じゃん!」
「ふっかー命名は強制だからな!」
太一も笑いながら俺の肩を叩く。
「よし決まり! 今日からお前はあっきーだ!」
……あっという間に名字が吹き飛ばされ、俺はクラスで“あっきー”として認識された。
(完全にペース握られてる……!)
教室の笑いが少し落ち着くと、ふっかーは満足げに席へ戻った。俺は「あっきー」という音が自分に馴染む前に、とりあえず弁当の唐揚げをひとつ口に入れる。味が戻ってきたのがわかる。さっきまで張りつめていた肩から、糸が一本抜けた感じだ。
太一が白米を頬張りながら言った。
「転校初日であだ名定着は最速記録だぞ」
「どんな記録だよ」
健人が豪快に笑う。「ま、いいじゃん。“川本”より“あっきー”のほうが速そうだし」
「速そうってなんだよ」
「陸上は名前の響きも大事だろ? スタートで呼ばれたときの語感とかさ」
そんな理屈あるか、と思いながらも、俺はちょっとだけ嬉しかった。名前って、誰かに呼ばれた瞬間に生まれ変わることがあるのかもしれない。
午後のはじまりを告げるチャイム。教室にゆるい気だるさが漂う。風は窓のカーテンをやわらかくふくらませ、外の桑の葉を裏返しながら通り抜けていく。俺は筆箱を開け、黒のボールペンを指先で転がした。
先生が黒板に白い線を引く。滑るチョークの音が、眠気の蓋をすっと持ち上げた。
「さて、戦国時代だ。もしお前らがあの時代にタイムスリップしたとして――誰のもとに仕えたい?」
教室の空気がわずかに起立する。誰に、だって? 俺は考える。人のもとに「仕える」なんて、今の時代の学校生活にはあまりない言葉だ。けど、だからこそ、選ぶ相手に自分の価値観が透ける気がした。
「深瀬、どうなんだ」
先生の視線がふっかーへ飛ぶ。待ってましたとばかりに、椅子がギィと鳴った。
「我、六文銭の旗の下に馳せ参じます! 真田信繁殿!」
言い切る顔は真剣そのものだ。ノートに走るペン先が「覚悟」と太く刻むのが見える。
「理由は?」
「六文銭は三途の川の渡し賃。すなわち“いつでも命を賭ける覚悟”の印! 逃げない背中に憧れるのだ!」
健人が「重い!」と笑い、太一が肩を震わせた。先生は口元を上げつつも、さらに踏み込む。
「じゃあ、信長は?」
ふっかーは一拍置き、ぐっと顎を上げる。
「鳴かぬなら――燃やしてでも鳴かせてやる」
「それ自作入ってるだろ!」
思わずツッコミが口をついた。クラスに笑いが走る。
ふっかーは悪びれず続ける。
「本物の言葉も拝借する。『臆病者の目には敵は常に大軍に見える』――織田信長。だが私は言い換える。『風の前には、炎も旗もひれ伏す』!」
「後半自作が強い!」
笑いと驚きが混ざった空気の中で、俺は不意に思う。彼女は“正解”を言おうとしてるんじゃなくて、言葉で世界を好きになろうとしてる。だから聞いてるこっちまで、ちょっとだけ世界が色づくんだ。
先生が黒板に「誰に、なぜ」と大書し、それを囲むように線を引く。
「“なぜ”を言葉にできるやつは強い。点はそこも見る」
そう言われた瞬間、教室の温度が少し上がった。俺は自分のノートの左端に小さく「なぜ」と書く。
次の時間は化学。理科室へ移動すると、金属と薬品の匂いが鼻の奥を刺激した。窓際の大きなシンクに突っ込まれたビーカーから、乾いた水滴の輪が幾重にも重なっている。天井の蛍光灯は白く、炎の青がよく映えそうだった。
先生が前に出る。
「今日は酸化と還元。銅線を加熱して酸化銅を作る。で、加熱ののち、還元してまた銅へ戻す。目で見える“変化”と“戻る”だ」
ふっかーの椅子が音を立てる気配に、クラスの何人かがくすっと笑う。本人は立ち上がらない。代わりに、ゆっくりと拳を握り、胸の前で止めた。言葉は、まだ溜めているらしい。
ガスバーナーのコックがひねられ、青い炎がほそく、静かに立ち上がる。俺は実験台の上でピンセットを握り、銅線の端を火にかざした。金属のにおいが熱に押され、舌の奥に落ちる。赤みが黒へ変わっていく境目は、思ったよりゆっくりで、目にやさしく、とてもきれいだった。
ふっかーの声が低く落ちる。
「炎は、暗闇に抗う言葉だ」
俺の横で太一が小さく吹く。「静音モードかよ」
「今は実験に敬意を払っているのだ」
ふっかーはまっすぐ炎を見ていた。茶化しではない、集中の色。黒板の式も写しつつ、ノートの余白には“変化=進化”“戻る=選ぶ”とメモが並ぶ。
先生が言う。「じゃあ次、還元。酸化銅に粉末の炭素を混ぜて、加熱」
俺たちは手順どおりに薬包紙から炭粉を取り、乳鉢で軽く混ぜる。実験台の上で炎が並び、理科室全体が静かな呼吸を始めたみたいだ。きれいな色が戻ってくる瞬間、ふっかーが微笑む。
「失われたものが、帰ってきた」
俺は笑いをこらえながら、ピンセットの先を軽く持ち上げた。初日の俺は、思っていたより笑っている。張り詰めていた何かが、知らないうちにほどけている。
ホームルーム前の十分、掃除の時間。俺は雑巾をバケツから絞り、廊下の端へ膝をついた。窓を全開にすると、川の匂いが風に乗って入ってくる。床は少し湿り、木目がやわらかく光る。
ふっかーが雑巾を掲げる。
「掃除とは、日常を磨く儀式。床が映せるのは、今日の自分」
「いいから拭け」
俺と太一が同時に突っ込む。健人はモップを肩に担いで構える。三人で一斉に前へ滑り出す。腕と背中に連動する筋肉の流れが心地よく、床に落ちた光の線が、拭いた分だけ長くなる。
「ふふ……見よ、鏡のような――」
ふっかーが嬉しそうに一歩踏み出した瞬間、雑巾が床の水膜をとらえ、滑った。
靴裏が空を切る。次の瞬間、床と背中がぴたりと弧を描く、見事なブリッジ。雑巾は投げ輪みたいにくるくる回って健人の腕に引っかかった。
「全力で雑巾がけすんな!」
「床が私を拒んだ……!」
「お前が床を挑発したんだよ!」
太一が壁にもたれて笑い崩れる。俺は慌ててふっかーへ手を伸ばし、起こしながら周りを見る。数人の男子が気まずそうに視線を逸らして窓の外を見ていた。スカートがひらりと舞いかけ、本人がすぐに押さえたから、セーフ。教室は「おいおい危ないって!」と笑いと安堵の混合でわちゃついた。
佐藤さんがすっとやってきて、ふっかーの肩に手を添える。
「深瀬さん、はい、ゆっくり。……大丈夫?」
「感謝する、生活の守護者よ」
「その呼び方やめて」
健人は受け止めた雑巾をぎゅっと絞って返し、モップで床の水気をすばやく回収する。三人四脚みたいな連携が気持ちよかった。思えば、初日からこうして誰かと動きを合わせている。
チャイムが鳴り、今日という長い一日が静かにたたまれていく。下駄箱でローファーを履き替えると、木の匂いがほのかに移った。夕方の校庭は、砂の上に長い影を伸ばし、風がその輪郭をやさしく揺らす。
「おーい、あっきー。帰るぞ」
太一が肩に鞄をひょいとかけ、昇降口からまっすぐ外へ出る。俺も続いた。校門を抜けると、田んぼの向こうに沈む太陽が、空の半分をオレンジで染めていた。川は金の帯になってゆっくり流れている。
「……自己紹介で死んだと思ったけど、まあ、なんとかなったな」
素直に言うと、太一はうんうんと頷いた。
「だろ? ふっかーにあだ名つけられたやつは珍しいよ。今日で相当距離縮まったぞ」
「マジかよ。あの人、毎回誰かに命名してるわけじゃないんだ?」
「あまりねぇな。あいつはお前なら、気が合うとでも思ったんじゃねーか」
「なんでだろうな」
ふっかーは風鈴のように学校の空気を揺らして、気づけばみんな笑っている。俺もその揺れの中にいる。悪くはない気分だ。
太一は手を頭の後ろで組んで歩く。「あと、今日のアレな。雑巾ブリッジは今年一番だった」
「名称がもう定着してるのかよ」
「うちのクラスの語録に追加だな。ふっかー語録・別巻“アクション編”」
バカ話をしながら、川沿いの風をまとって歩く。俺はふと、進路の分岐点に立っているような気分になっていた。部活どうする、って話。太一は陸上部で短距離だという。俺も高校では走っていた。けど、東京では“そこそこ”でやめた。何かを理由にして、全力を避けていた気がする。
「なあ太一。陸上、見学していいかな?」
「あたり前だろ。明日行こうぜ。お前、スタートの瞬間だけでわかるタイプだと思う」
「どんなタイプだよ」
「地面の反発をちゃんと返せる足のやつ」
言い方がやけに具体的で、胸の奥の筋肉がひとつ反応した。走る、か。ここなら、もう一回やれるかもしれない。誰かの目じゃなく、俺の目で、俺の足で。
家へ続く道は、田んぼの匂いと、遠くの焼き魚の匂いが混ざっていた。赤とんぼが斜めに横切り、スニーカーの影が長く伸びた。太一と別れて角を曲がる。小さな橋の上で立ち止まり、川面に沈む光を少しだけ見送る。
「ただいま」
引き戸を開けると、涼しい空気がふわっと迎えてくれた。夕飯を食べ、風呂で汗を流し、部屋に戻る。布団に背中を落とすと、天井の木目がゆっくりと流れ、今日の音と匂いが、一つずつ棚にしまわれていくみたいに静まっていった。
ふっかーの声が頭の中で反響する。人間はパンのみにて生きるにあらず。だが米は別だ。鳴かぬなら、風になって鳴かせてみせよう。炎は暗闇に抗う言葉。覚悟。変化。進化。戻る。選ぶ。彼女のノートの余白に並んだ単語が、俺の胸の内側に貼りついていく。
東京では、目立たないことが平和だと思っていた。うまくやること。火に近づきすぎないこと。だけど、ここでは、炎の色をじっと見ていた。怖がらずに、変わっていく金属の表面を、きれいだと思えた。誰かの勢いに巻き込まれて笑って、転んだ相手に手を差し出して、肩を並べて雑巾をしぼった。そんな一つ一つが、今日の俺を“戻す”でも“進める”でもない、どこかちょうど良いところへ置いてくれた気がする。
明日、陸上部を見に行く。走る足で、ここに根を張る。そう口に出さなくても、決めるだけで少し呼吸が整った。
風鈴が小さく鳴った。窓の外で、夜の風が木の葉を裏返しながら通り過ぎる。
俺は目を閉じ、風の音を数えるように眠りへ落ちた。明日も、たぶんあんな調子だ。いや、今日より少しだけ進めたら、それでいい。
ここは田舎だ。けれど俺の世界は、狭くなっていない。
むしろ――広がっている。
最後まで読んでいただきありがとうございます!
次回も楽しみにして下さい!