5.始動、心の濘淖(ねいどう)
0.
戦闘に出ないことに越したことはない。
目の前で仲間の死を見届けることも、死を覚悟することもない。
しかし、私だけぬくぬくと平穏を享受しているのは私が一番許せなかった。
この痛みは、照さんはまだ知りえない。
だが、近いうちにきっと、照さんも知ることになるでしょう。
この世界に踏み込んだ者だけが知る、あまりに辛い現実を。
1.
「照くんおはよう」
「おはよう、叔父さん」
迎えたいつも通りの朝。並べられたいつも通りの朝食。依然と変わりない朝のはずなのに、照はいつもと違うように感じていた。
いよいよ配属されることとなった戦闘部隊。そこに待ち受けている、戦いの日々。平穏とは離れた生活になってしまうことに、少し緊張していた。
「行ってきます」
いつも通りの街並み。いつも通りの駅。当たり前に感じていた何もかもが、今日限りとなってしまう可能性を考えると、どこか緊張してしまう。
「おはようございます、照さん」
声がした方を向いてみると、慣れ親しんだ少女がいた。
「おはよう、ユキ。凛々亜は見てないのか?」
「凛々亜さんは寝坊だそうです」
そう言うと、ユキは柔らかく笑ってみせた。最近、穏やかな日常とは遠い日々を送ってきた照にとって、変わらず一緒にいたユキとの時間はいつもと変わらず、心の安らぐ時間だった。
「そっか。そういえば、ハルは…」
「兄さまは…まだ、帰ってきていないんです。捜索願も出したんですが、未だ行方はわからないままで…」
「そうか、早く帰ってくると良いな…」
意図せず気まずい空気になってしまい、いたたまれなくなる。
「そ、そういえば、昨日はどうでしたか?普段と変わりありませんでしたか?」
「それが…」
照は、昨日の獄本隊長による昇級試験の話をした。
「えっ!?隊長と戦ったんですか!?それに副隊長と共に!?…相変わらずめちゃくちゃですね」
ユキは、困惑した表情でこちらを見ている。というよりも、呆れられているような気がした。
「普段から隊長はそういう感じなのか?」
「まあ、色々な指示を出されますよね。今回みたいに隊長本人が動かれることも多々あります」
「そうなんです。それで隊員達の仕事が減ってしまって、技術を上げる機会が少なくなってしまうのは悩ましいことですがね」
ユキと照を通り抜けるように声がした。後ろを振り向けば、そこにはスーツ姿の見知った女性がいた。
「副隊長?どうしてここに」
「巡回のついでに、二人に伝言です。隊長から、放課後に本拠点まで来るようにと」
2
神祇財団は、全14(+1支部)から成り、それぞれの支部ごとに本拠点を設置している。そして、その本拠点を中心に管轄の中に複数の拠点を置き、その拠点を支部の中の部隊が担当している。日本の警察が、警視庁を中心に各県警察本部、警察署や交番を設置しているように、日本全域に勢力をくまなく広げ、悪魔から日々守っている。
照とユキが所属する支部の本拠点は、伊勢志摩国立公園の中にある。厳密には、地表に建物があるのではなく、山の地下にあるのだ。
その本拠地に向かおうとしていた二人だが、照は一度攫われる形でその本拠点に行ったことがあるだけで、道は知らなかった。
「なあ。ユキ。ここからどうやって行くんだ?」
「大丈夫です。教えますよ。ついてきてください」
ユキにそう言われてついていくと、以前までいた育成部隊の建物のさらに地下に、道路とそれに面した駐車場があった。
「あの場所のさらに地下にこんなものがあったなんて」
「ここは、伊勢市街地と本拠点を結ぶ財団専用道なんです。従八位下等以上の神官でなければ使えないんですよ」
「そうなのか。にしても、巧妙に隠されているな」
道路を見てみると、両端には歩道があり、所々に非常口のようなものが設置され、外へと出られるようになっているみたいだった。
「照さん、こちらです」
ユキに呼ばれて駐車場の方に向かうと、バイクに乗ったユキの姿がそこにあった。
「ユ、ユキ?いつの間にバイク乗れるようになったのか?」
「はい。この仕事柄、移動が多いものですので。それに、免許関連は、申請すれば財団の方から資金などの支援を頂けるので、照さんもいかがですか?」
そういうと、照のもとにヘルメットが投げられた。
「さ、行きましょう」
仄暗いトンネル道を進んでいくと、そこには白く明るいロータリーに着いた。白昼夢のような無垢の白が広がる空間に、ロータリーの中央にある木や空間を囲むように生えた低木の緑が、建物の清廉さを際立たせていた。意外にも人で賑わっており、胸に残っていた若干の緊張は、どこかに置き去ってしまっていたみたいだった。
「さあ、こちらです」
白い廊下を進んでいくと、第四部隊拠点と書かれた部屋に着いた。
「失礼いたします。従七位上等 二条 ユキです。倉橋 照 従八位下等と共に参りました」
扉をノックしそう言うと、中から 入れ と声が聞こえてきた。
そうして入ると、そこには嶽本隊長の姿があった。
「なに突っ立ってんだ?座れよ」
「は、はい」
そう言われ、二人掛けのソファーにユキと並んで座った。目の前には、お茶とお茶請けが律儀に置かれていた。
「早速本題だが、お前、十数年前に伊勢神宮で悪魔に襲われたよな?」
「は、はい...」
「助け出された後のこと、どこまで覚えている」
「えーっと、あまり覚えてないです...気づいたら病院にいて、叔父の元に引き取られたので」
「そうか...」
そう言うと、嶽本は何か思い耽るように顔を俯かせていた。
すこし経つと、再び顔を上げた。
「よし、お前らもう下がっていいぞ」
「えっ、もう終わりですか?」
「なんだ、ガキのおままごとに付き合えってか」
「い、いえ。失礼し...」
部屋から出ようとした瞬間、急にドアが開き、誰かが入ってきた。
「待ってください、隊長。まだ説明が済んでませんよ。すみません、お二人とも。またお掛けになって」
現れたのは、三品副隊長だった。
「なんだもみじ。別にメールとかでいいじゃねえか」
ただただめんどくさいという気持ちが、嶽本の顔にはっきりと映し出されていた。それを見た三品は、どうもあきれていた。ユキからも、表情はあまり変わらないものの、またやっていると言わんばかりに俯瞰しているようだった。
「そうもいきませんよ。ほら、説明お願いします」
「...分かったよ。まずお前。お前は従八位下等に昇進。それに伴って、お前は俺の部隊の第五班に配属されることになった」
待ちに待った戦闘部隊。ようやく悪魔と直に相対することができる。その実感が照の中に一気に湧き出て、心が少し踊っていた。
「二条。お前はまだ現状維持。もう少しで班が再編されるから、その時になったらまた連絡がいく」
「分かりました」
平然を装ったユキのその声には、重苦しく、暗い何かが隠されているような気がした。
「それと、お前ら二人には特別な資料の閲覧権限が与えられた」
「それは...」
「正六位下等。伊勢神宮の事件の資料を調べられる最低限の階級だ。その階級は資料の閲覧だけに有効だからな」
「えっ!?いいんですか?」
「おれに聞くな。なんか言いたかった支部長に言え。ただし、他の誰かに口外したらその首が飛ぶからな」
支部長から与えられた特別な権限。求めていたものにまた一歩近づいたことに、喜びと心の奥底で渦巻いていた悪魔への復讐心が混ざり合って、照の鼓動は鳴りやまなかった。
「騒ぐんだったら外にしろ。とにかく、お前は明日、班の元に行って働け。二条、引き続きこいつの御守してやれ。以上だ」
「失礼しました」
照とユキが部屋を出て残った部屋には、残ったお茶の香りが立っていた。
「結局、お前が淹れたお茶が残っちまったな、もみじ」
「隊長がいる緊張感の前で飲める方がすごいですよ。ところで、なんで倉橋神官だけでなく二条神官もなんですか?」
「何のことだ」
「権限のことですよ。支部長は、ほんとは倉橋神官だけのつもりじゃなかったんですか?」
「...俺が言ったんだよ」
「意外ですね。隊長も他人になにかすることってあるんですね」
「別にたまたまだよ。あいつも知りたそうにしてたのは知ってただけだ。それに...」
「俺には清算しなきゃいけない罪がまだそこにあるだけだ」