希望と舞姫
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─初恋は、世界を教えてくれた。
──今から十年前の六月。
─校舎の窓を叩く雨音が、やけに近くに聞こえた。
─窓の外では、アジサイの花が重たげに揺れている。
─新しいクラス。新しい顔。
─けれど、誰も俺に話しかけてこない。
─無理もない──病を理由に転校してきたし、「病気」「親がいない」って噂は、あっという間に広がる。
「生野、また保健室寄ってから帰れって」
「……わかりました」
─先生の声も、どこか遠くに感じた。
──"優しさ"は、もう信じない。
──優しさなんて、いつも途中で消える。
─親も、親戚も、施設の先生も。
─最初はみんな優しい顔をして近づいてきて、
そのうち「面倒くさい」「かわいそう」と言って離れていった。
─だから、もう誰にも心を開かない。
─そう決めてた。
──なのに。
「先生、そのプリント、私が持っていきます」
─雨の音にまぎれて、小さな声がした。
─栗色の髪を耳にかけた女の子。
─"煌星舞姫"──医者の娘で、成績もいい方で、女子バスケ部に所属。
─ぱっちりしたタレ目と大きな翠色の瞳に栗色のショートヘアがトレードマークの女子生徒だ。
─彼女も、いつも一人だった。
─俺の机に歩み寄ってきて、そっとプリントを置く。
─距離を保って、でも逃げるようにも見えない。
─不思議な目をしてた。誰かを"憐れむ"目じゃなくて、
─ただ"見ている"目。
「ありがとう」
「ううん……」
──あ、やばい。
─また「気の毒な子」って思われたかもしれない。
─そう思った瞬間、言葉が出なくなる。
─けど、舞姫は何も言わなかった。
─ただ、プリントの角をまっすぐ揃えてから、ぽつりと呟いた。
「……その腕の痕、痛そうだね」
──ああ、やっぱり。
─病気のこと、気になるんだろ。
─どうせ聞かれる。"何の病気?"とか、"治るの?"とか───めんどくさい。
「別に、気にしなくていい」
「うん。気にしてないよ」
「……え?」
「だって、"痛い"っていうのは、気にしてあげることとは違うから」
─そう言って、彼女は小さく笑った。
─静かな笑顔。
─優しさでも、同情でもない。
─ただの"気づき"みたいな笑顔。
─なんだそれ。
─なんでそんな顔、できるんだよ。
─俺は言葉を失った。
──雨が、止んでいた。
「じゃあ、また明日ね」
「……あぁ」
─その一言が、教室に残った湿気をやさしく溶かしていった。
─俺はまだ、信じちゃいけないと思ってた。
─けどあの時、ほんの少しだけ──
─"信じてもいいかもしれない"と、思ってしまった。
――――――――――
─六月の昼休み。
─教室の窓の外では、入道雲の足音みたいに部活の掛け声が響いていた。
「いただきます」の声が上がって、あちこちで弁当箱や牛乳のパックの音がする。
──俺は、給食の時間が嫌いだった。
─食べられるものが限られてるせいで、いつも担任から「残すな」と言われる。
─でも、無理に食べたら体調を崩す。
─薬の副作用で味覚も変わるから、普通の子みたいに食べられない。
「生野、牛乳残すなよ」
─担任の声が背中に落ちてきた。
「……すみません。医者から、乳製品は控えるようにって言われてて」
「医者?そんなこと言ってたか?」
「はい、病院の先生が……」
「甘えんな!栄養はちゃんと取らないと体力つかないだろ。完食するまで居残りだからな」
──言葉が詰まった。
─この人は、俺が「病気だから」って言葉を盾にしてると思ってる。
─だから、何を言っても"怠け"に聞こえるんだ。
「……はい」
─結局、口をつけられなかった牛乳パックを持って立ち上がる。
─ゴミ箱に捨てようとしたその時──
「それ、もらっていい?」
─静かな声がした。
─振り返ると、舞姫だった。
─箸を持ったまま、まっすぐこっちを見ている。
「……飲めないなら、私が飲むよ。無理しない方がいい」
「……別に、平気だし」
「顔、ちょっと青いよ。平気じゃないと思う」
──ぐっと、胸の奥が痛んだ。
─"見透かされた"感じがした。
─同情されたくないのに、何故かこの子にだけは強く反発できない。
「……いいから。ほっといてくれよ」
─少し強めの声が出た。
─周りの子が一瞬静かになる。
─舞姫は、ほんの少しだけまぶたを伏せた。
けど、何も言わなかった。
─ただ、小さく「……うん」とだけ言って、自分の席に戻った。
──やっちまった。
─わかってる。悪いのは俺だ。
─でも、誰かに踏み込まれるのが怖かった。
─心配されるほど、惨めになる。
─俺は、机の下で拳を握りしめた。
─"優しさ"なんて、いらない。
─期待したら、また傷つくだけだから。
――――――――――
─放課後。
─外は雨が上がって、夕陽が廊下を染めていた。
─部活の声が響くグラウンドを横目に、
─俺は一人、保健室に向かって歩く。
─胸のあたりが少し苦しい。
─体育を見学したせいか、冷たい空気が肺に刺さる。
「生野君、今日も来たのね。どう?体調は」
─保健の先生の声。いつもの笑顔。
「大丈夫です」
「無理しちゃだめよ。あんまり我慢してると、また点滴コースだからね」
──"また"か。
─笑いながら言われたけど、その言葉が刺さる。
─帰ろうと廊下を歩いていると、曲がり角でぶつかりそうになった。
「あ、ごめんっ……あ、生野君」
─舞姫だった。手に雑巾を持って、掃除の途中らしい。
─教室の隅の雑巾の匂いと、濡れた靴下の湿気が混ざっていた。
「……別に」
「さっきは……ごめんね。怒らせるつもりじゃなかったんだ」
「……別に。気にしてねぇし」
「そっか」
─そう言って、彼女は少しだけ笑った。
─その笑顔が、ずるかった。
─怒ることもできない。泣かせることもできない。
─ただ、胸の奥が少しだけ温かくなる。
「ねえ、生野君」
「……なに」
「うちのお父さん、南北北病院で働いてるんだ。もし希望君がが何か言ってくれたら、私も伝えておくね。食事のこと」
「……いらねぇよ、そんなの」
「ううん……頼まれたと思って「お前に俺の何が分かるんだよっ!」
──"頼まれたと思って"。
その言葉が、変に胸に残り、俺の怒りを引き立たせ、大声を上げてしまった。
─俺はその場を通り過ぎた。
─背中に夕陽が当たって、影が長く伸びていく。
─振り返った時、舞姫はまだ廊下に立って、
涙目で俺の背中を見ていた。
─目が合うと、少しだけ笑って手を振った。
──その仕草が、やけにまぶしかった。
――――――――――
─夜。
─帰り道の夕空が赤から紫に変わる頃、
─俺はひとり、自転車を押して歩いていた。
─病院通い、薬、制限食。
─普通の中学生が当たり前に持ってる"青春"が、
俺にはほとんど無い。
で─も、あの教室の中で──
─ほんの少しだけ"自分の居場所"を見つけた気がした。
─たとえ、それが一瞬でも。
「……舞姫、か」
「(父親が医者か……金持ちの娘だと思ってたけど、あいつは何か違うな)」
「(てか…なんであんな顔出来るんだよ…)」
─小さくつぶやいた名前が、
─夏の匂いの風に溶けていった。
──この時の俺はまだ知らなかった。
─この出会いが、俺の人生のすべてを変えるってことを。
――――――――――
──七月の雨。寿賀河市の夏祭りの日。
─この日は疫病退散と無病息災を願う伝統的な祭り─胡瓜天皇祭が市内の中心で行われていた。
─病室の窓に雨粒が叩きつける音が、外の賑やかさを遠くに押しやる。
─俺はベッドに横たわり、天井のシミをぼんやりと見つめていた。
─祭りの提灯や並ぶ屋台の明るさは、もちろん遠くでしか見えない。
──ガチャリ、とドアが開く音。
「……希望君」
─声の主は舞姫だった。
─今日の彼女は、いつもと違う。浴衣を着て、普段より少し華やかに見える。
─胸の奥が、ざわっとした。思春期男子特有の感覚が、体を通り抜ける。
「……舞姫?」
─声が少し震えた自分に気づく。
「……うん、お見舞いに来た」
─手に小さな紙袋を持ち、雨で濡れた髪をそっと触る舞姫。
─サラサラの栗色ショートヘアが顔にかかり、長いまつ毛が瞬くたびに光を受けて揺れる。
─ぱっちりした翠の瞳、広い二重幅──普段の制服姿とは違う、ほんの少し大人びた印象だった。
「……似合うな」
─口に出すつもりはなかったのに、思わず呟いた。
─舞姫は少し躊躇ったように視線を逸らす。
「……今日はお祭りだし、浴衣にしてみたんだ。見られるの、ちょっと恥ずかしかった」
─小さな声で告げられ、胸の奥が熱くなる。
──舞姫はそっとベッドのそばに座った。
─紙袋から差し入れを取り出す。ゼリーやプリン、スポーツドリンク──
─指先は揺れず、優しくもなく、ただ自然に手渡してくれる。
「……希望君、食べられるものだけね。本当はお祭りっぽいものが良かったんだけど」
「……ありがとな」
─突き放すのをやめ、小さく言った。
─舞姫が微笑む。目をそらさず、はっきりと俺の方を見ている。
「今日は……祭り、楽しみにしてた?」
─俺は窓の外を見て、言葉を濁す。
「……俺には無理だ。病院だし、窓から外を見るだけ」
─吐き捨てるように言ってしまった。
「そっか……」
─少し沈黙。だが、舞姫はすぐに視線をこちらに戻す。
「窓からでもいいよ。屋台、見えるかな?」
─その声に、ほんの少し希望を感じた。
──ベッドの上で体を起こし、窓の外を見た。
─雨で揺れる提灯、遠くで光る花火。
─舞姫の浴衣姿と、この光景が妙に心に残る。
「……舞姫、なんでそんなに普通にいるんだ」
「普通って……?」
「その、……俺のこと気にかけて、無理しないでって言えるその顔とか」
──突き放したいのに、気持ちが抑えられない。
─舞姫は小さく笑い、少しだけ肩を前に出して座る。
「……だって、希望君は、無理しちゃうと危ないんだもん」
─目をそらさずに、はっきりと告げられる。
─翠色の瞳が揺れ、光が瞬くたびに胸がざわつく。
──その瞬間、ベッドの上の俺は、ただ見つめることしかできなかった。
─突き放したくても、突き放せない。
「……舞姫、さ……」
─言いかけて言葉が詰まる。
─舞姫は軽く首をかしげ、口元に小さな笑み。
「どうしたの、希望君?」
──近すぎる距離。
─指先が紙袋に触れるたび、偶然であっても俺の手に当たりそうになる。
─その一瞬で、心臓が跳ねた。
─思わず手を引っ込め、顔を逸らす。
「……ごめん、なんでもない」
─小さく呟く声。
─でも胸の奥は、期待と緊張でいっぱいだった。
──舞姫は手に持ったゼリーを差し出す。
─指が触れた。短い瞬間、熱が指先から伝わる。
─心臓の奥がざわつき、息を飲む。
「……食べるか」
─小さく頷き、口に運ぶ。
─舞姫は満足そうに微笑む。
「……来てよかった」
─俺は目を伏せて呟く。
「うん……良かった」
──窓の外で雨が強くなる。
─けれど、病室の中は、ほんの少しだけ祭りの色を帯びていた。
──浴衣の舞姫、雨の音、ゼリーの甘さ、そして、確かに俺の隣にいる存在。
「……舞姫、祭りのあと、また見舞いに来てくれるか?」
─思春期男子らしく、少し照れながら聞く。
「……もちろん。あとこれ、きゅうり……お父さんには内緒で食べてね」
─小さな声が返ってきた。
─翠の瞳とその声に、少しだけ安心する。
──冷やしきゅうりを手渡され、笑ってしまう。
─この雨の祭りの夜、俺と舞姫の距離は、ほんの少しだけ近づいた。
……To be continued
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