冬に煌めく
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─草津からの帰り道、冬の夕陽が、車窓の向こうで溶けていった。
「次は大宮〜、大宮〜」
─車内アナウンスが流れるたび、今日が終わっていくのを少しずつ実感していく。
─隣では希望君が、ほんの少し口を開けてうとうとしていた。
─髪の先にまだ、温泉の香りが残っている。
─寝顔を見つめていたら、胸の奥がふわりと熱くなった。
「(……楽しかったなぁ。ほんとに)」
─朝からずっと一緒にいたのに、不思議と「もう少し話したい」って思ってしまう。
─高崎で食べたカツサンドも、湯畑のライトアップも、混浴の時の彼の照れた顔も──。
─全部、今日しか見られなかった瞬間。
「……ふふっ」
思わず笑みがこぼれると、希望君が目を覚ました。
「どうした?」
「ううん、寝癖……可愛いなって思って」
「またそれかよ〜」
「だって、ほら。ぴょこって跳ねてる」
─そう言って、私は指先で彼の前髪をそっと整えた。
─その瞬間、希望君が少し照れたように目を逸らす。
─その表情が愛しくて、もう一度笑ってしまった。
──ああ、こうして笑い合えるのって、当たり前じゃないんだ。
─看護師として働いていると、「今日も無事に帰れること」が、どれだけ尊いことかを思い知らされる。
だからこそ、この時間が、余計に愛しく思えるのだ。
「……ねぇ、希望君」
「ん?」
「今日みたいに、普通に一緒にいられることが……幸せだなって思ったの」
「……そうだな」
「私ね、時々怖くなるの。仕事でいろんな人を見るたびに、"今"がどれだけ儚いかって。
だから、こうして笑ってる時間を、ちゃんと覚えていたいの」
「……それなら、心配すんな。俺が忘れさせねぇから」
─その言葉があまりに優しくて、涙が出そうになった。
─手を繋いだまま、私は小さく頷いた。
─湯けむりよりもずっと、あたたかい手のひらだった。
「……ねぇ、希望君」
「なんだ」
「今日の夜、一緒にケーキ食べようね。草津限定のプリンケーキ」
「もちろん。冷蔵庫に入れてあるしな」
「ふふっ、ほんと準備いいんだから」
──やっぱり、私が選んだ人は正解だ。
――――――――――
─夜九時半。
─冬の冷たい風に頬を撫でられながら、私たちは部屋に帰ってきた。
─玄関の灯りが、いつもより少しだけ暖かく感じる。
「ふぅ〜、ただいま」
「おう、ただいま……舞姫、寒かったべ。先、風呂入っていいぞ」
「一緒に入る?」
「……まぁ、旅の締めだしな」
「ふふっ、やっぱりそう来ると思った」
──お湯が溜まる音を聞きながら、二人で洗面台に立つ。
─鏡越しに、湯気の中で彼と目が合う。
─なんでもない時間なのに、どこか照れくさい。
─草津の温泉とは違う、けれど確かな温もり。
─お風呂を出ると、希望君が髪を乾かしてくれた。
「熱くないか?」
「うん、気持ちいい……」
ドライヤーの風がやさしく頬を撫でるたび、心まで溶けていくようだった。
「……ありがとう」
「なんだよ、改まって」
「ううん。今日、全部が幸せだったから」
─リビングには、帰りに買ったプリンケーキ。
─紅茶を淹れて、二人でテーブルを囲む。
「いただきます」
「……っ、美味しい!」
「だべ? 湯畑プリン、人気らしいし」
「うん。甘すぎなくて、やさしい味……なんか、今日みたい」
─希望君が「舞姫の方が甘いけどな」って呟いたのを聞き逃さなかった。
─だけど、あえて何も言わず、笑ってスプーンを口に運んだ。
──静かな夜だった。
─外は雪混じりの風。
─部屋の中は紅茶の香り。
─そして、隣には婚約者のぬくもり。
─私はその温もりに寄りかかりながら、
「次は、春に行こうね。桜、見たいな」と呟いた。
「行こうな。……約束だべ」
─その声を聞きながら、心の中で思った。
─きっと、どんな季節が来ても。
─この人となら、大丈夫だって。
──夜が、静かに更けていく。
─カーテンの隙間から、やわらかい冬の朝陽が差し込んでいた。
─キッチンからは、トーストの焼ける匂いと、コーヒーの香り。
─静かな休日の朝──まるで、幸せが形になったみたいな時間だった。
「……おはよう、希望君」
「おう、おはよ。まだ眠そうだな」
「昨日、いっぱい歩いたからね」
「だな。俺も足ちょっと張ってるわ」
─彼はエプロン姿で、手際よく目玉焼きを焼いていた。
─私が休日の朝は、たいてい希望君が朝食を作ってくれる。
─それが、なんだか"家族"みたいで好きだった。
「舞姫はパン派だったよな。ジャムはどっちにする?」
「うーん、今日はマーマレードかな」
「了解」
──その声を聞くだけで、安心する。
─同じ部屋で朝を迎えられることが、これほど穏やかであたたかいなんて、昔は思いもしなかった。
─テーブルに並んだ朝食。
─トースト、目玉焼き、ベーコン、そして希望君が淹れたコーヒー。
─特別じゃないけれど、二人だけの時間。
「昨日の草津、楽しかったね」
「だな。……混浴は、ちょっと予想外だったけど」
「ふふっ、恥ずかしかったけどね。でも、あの雪景色……忘れられない」
「俺も。なんかさ、写真よりも、舞姫の笑ってる顔が一番印象残ってる」
「……そんなこと言って、また照れさせるんだから」
「(──ほんとに、幸せだな)」
─彼といると、こんな何気ない会話さえ、心に残る。
「春、どこ行きたい?」
「うーん……弘前も行きたいし、桜が咲く頃に京都もいいな。
あ、希望君、和装似合うと思うよ」
「マジか。舞姫も似合うと思うけどな。白無垢とか」
「……もう、結婚式の話?」
「まあ、準備もそろそろ始めないとだべ」
「……うん。楽しみだね」
──未来を語るたび、胸の奥に小さな光が灯る。
この人となら、きっとどんな日々も乗り越えていける。
─そう信じられる朝だった。
「なぁ、舞姫」
「ん?」
「今夜、爺ちゃんに電話してみようと思ってさ」
「透助さん?最近具合悪いもんね」
「だべ。こないだも『体調ええから大丈夫や』って言ってたけど、ちょっと気になる」
「……うん。希望君最近お見舞い来てなかったし久しぶりに声聞かせてあげようよ。きっと喜ぶよ」
「だな……舞姫、ゆっくり休みな」
──その言葉を聞いて、私は笑って頷いた。
─洗い物をしながら、コーヒーの香りに包まれる。
穏やかで、あたたかい朝。
この幸せがずっと続くと思っていた。
だけど──
─その日の朝九時─。
─突然リビングのスマホが震えた。
─希望君が画面を見た瞬間、その表情が、静かに凍りついた。
「……もしもし……?はい、俺です。……え?」
─一瞬、空気が変わった。
─彼の手が震えている。
─胸の奥で、嫌な予感が鈍く響いた。
「……爺ちゃんが……危篤、だと……?」
──コーヒーの香りが、急に遠のいた。
─いつもと変わらない朝だったはずなのに、
─その日から、少しずつ、季節の流れが変わり始めた。
「舞姫、すぐ行くぞ」
「うん……車、出すね」
─冷えたマンションの玄関を出ると、白い雪がちらちらと舞っていた。
─冬の夜は、やけに静かだ。
─その静けさが、余計に胸を締めつける。
─ハンドルを握る手が震える。
─助手席の希望君は、何も言わない。
─ただ、スマホを握りしめたまま、前を見つめていた。
「……希望君」
「……ん」
「大丈夫。落ち着いて。ちゃんと間に合うよ」
「……ああ」
─返事はある。でも、心はきっと遠くにある。
─透助さん──希望君が、唯一彼と血が繋がってる存在で、大好きなお爺ちゃん。
─私も仕事で彼と話すことが多く、希望君からもよく話に聞いていた。
─「俺のじいちゃんは、昔医師をしてて、職人気質で口下手だけど、めっちゃ優しい人だ」って。
─雪がフロントガラスに落ちては溶けていく。
─その度に、ワイパーの音が心に刺さる。
「……舞姫」
「うん?」
「じいちゃん、……俺が余命宣告される前、言ってたんだ」
「なにを?」
「"おめぇが幸せになれば、それでいい"って。……なんか、あの時の声がまだ耳に残ってんだ」
─その言葉に、胸が熱くなった。
─希望君の声が震えていた。
─夜の雪道を照らすヘッドライトが、彼の横顔を淡く照らす。
「……絶対、会えるよ。透助さん、きっと待っててくれてる」
「……だといいな」
─私の手を握る彼の手が、いつもより強くて、でも少しだけ冷たかった。
─握り返しながら、私は祈る。
─どうか、もう少しだけ時間をください。
─どうか──希望君が、間に合いますように。
⸻
─雪は、だんだん強くなってきた。
─白い道を、ただひたすらまっすぐ走る。
─車の中には、エアコンの音と、二人の息遣いだけがあった。
──その沈黙の中で、私はそっと思った。
─あの日、草津で見た雪景色は、綺麗だった。でも今は違う。
─同じ雪でも、こんなに胸が痛いものなんだと知った。
⸻
─遠くに南北北病院の灯りが見えた時、
─希望君の手の震えが止まった。
「……着いた」
「うん。行こう、希望君」
─冷たい空気の中、二人で駆け出した。
─雪を踏む音だけが、夜の静寂に響いた。
「ここか……」
「希望君。鳳斗さんに連絡は…」
「分かってる…今電話するよ。もしもし鳳兄…」
─本来、希望君は仕事があったものの、緊急事態になってしまった以上は仕方ない。
<生野…朝早くからどうしたの?>
「鳳兄……実は爺ちゃん危篤で…今朝院長から電話来て…」
<うん。これ以上言わなくていい。店は俺達に任せて。でも、気持ちが落ち着いたら連絡してね>
「うす……」
「希望君……入るよ」
「おう」
─病室に入ると、酸素マスクを着けている透助さんがいて、穏やかな表情で横たわっていた。
「…………」
「(良かった…何とか間に合った…)」
「…爺ちゃん」
─希望君は、私の手を一瞬だけ握って、病室の中へ入っていった。
─私は静かにその後ろ姿を見送る。
──あの背中は、たぶん今、一番強くて、一番脆い。
……To be continued
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