冬の空、手を重ねて
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─福島の夜は、まだ少しだけ冬の気配を残していた。
─外では風が木々を鳴らし、マンションのベランダ越しに冷たい空気が流れ込む。
─薄いオレンジ色の照明の下、リビングには小さな鍋の湯気が漂っていた。
「……ただいま……」
「おかえり、舞姫。今日も遅かったな」
「うん……小児科の当直さんが体調崩して、引き継ぎバタバタでさぁ……」
─舞姫は髪を後ろでゆるくまとめて、ナース服の上に薄手のカーディガンを羽織っていた。
─俺はすでにシャワーを浴び終えていて、部屋着姿でソファに座っていた。
─テーブルには、俺が作った夜食──野菜スープと雑穀パンが置かれている。
「……あったかい。希望くん、作ってくれたの?」
「うん。冷えたべ?今日は夜風強いし。とりあえず、食ってから風呂入れ」
「ふふっ……ありがと。優しいなぁ、ほんと」
─舞姫はスプーンを口に運びながら、ほっと息をつく。
─俺は対面の席で、彼女の頬が少し赤らむのを見て微笑んだ。
「最近さ、思ったんだけど」
「ん?」
「お互い落ち着いてきたじゃん。仕事も、生活も」
「うん。最近夜勤続きも減ったしね」
「だから……たまには、どっか行かね?」
「……どっかって、どこ?」
─舞姫の声が少し柔らかくなる。
─俺はソファに深くもたれて、窓の外を見ながら言った。
「草津温泉。前から行きたいって言ってたべ?」
「……覚えてたんだ」
「当たり前だべ。舞姫、あん時テレビ見ながら"湯畑きれい〜"って言ってただろ」
「うぅ……そんなこと言ってたっけ……?」
「言ってた。しかも"雪の中で温泉入りたい"って。ほっぺ真っ赤にしてさ」
「や、やめてぇ……恥ずかしい……」
─舞姫はスープの皿を隠すように両手で覆い、視線を逸らした。
─俺はその仕草を見て、少し笑う。
─彼女の照れた顔を見るたび、胸の奥が穏やかに熱くなる。
「でも……草津、いいかも。温泉入って、のんびりしたいし……希望くんと二人で、ちゃんと休みたい」
「決まりだな。来月の休み、合わせよう」
「うん。でも私、連休取るのちょっと大変かも……」
「そん時は俺が院長に頼みに行くべ」
「やめて、それ余計ややこしくなるから!」
「ははっ、冗談だって」
─二人の笑い声が、夜の部屋に柔らかく響く。
─舞姫が食器を片付けに立つと、俺は後ろから腕を伸ばして、そっと抱きしめた。
─洗いたての髪と、石鹸の香りがふわりと混ざる。
「……舞姫。ちゃんと休めよ」
「ん……分かってる」
「頑張り屋すぎて、たまに壊れそうになるからさ。俺が守るって言ったべ」
「……そんなの、ずるいよ」
─小さな声で呟いて、舞姫は希望の胸に額を預けた。
─窓の外では風が少しだけ静まり、遠くの街灯が雪を照らしていた。
─その光が、まるでこれから向かう"草津の灯り"のように思えた。
「……楽しみだね、旅行」
「あぁ。ふたりで、ちゃんと冬を抜けよう」
「うん。草津でゆっくり……湯気に包まれて、のんびりしようね」
─カップに注いだ紅茶の香りと、俺達の体温が混ざる。
─夜はまだ長いけれど、確かに──次の物語のページが、静かに開かれようとしていた。
――――――――――
─草津温泉デートの前日、夜九時半。
─リビングの照明は少し落として、テーブルの上には大きめのバッグが二つ。
─俺はソファに腰をかけ、舞姫は床に座り込んで、服をたたみながら口を尖らせていた。
「……ねぇ希望君、これ絶対持ってった方がいいと思う?」
「なにそれ?」
「フェイススチーマーとパック…あと、美顔器」
「……日帰り温泉行ってまで肌管理すんの?舞姫はそのままでも可愛いべ」
「女の子にとっては大事なの!温泉入ると乾燥するし!それに最近夜勤続きで目のクマが…」
「そうなると荷物パンパンだべ、それ」
「ええ〜、じゃあ希望君が荷物持ってくれるの?」
「はいはい。俺のバッグが持つよ」
─希望がため息をつきながらもスーツケースを寄せると、舞姫は嬉しそうに笑った。
─柔らかな頬が、照明の下でほんのりと染まる。
「ありがと。やっぱ優しいなぁ、私の婚約者さん」
「言い方が可愛すぎて照れるべ……」
「ふふ、何照れてるの〜。もう三年一緒にいるじゃん」
「三年一緒でも、好きなもんは好きなんだって」
─俺の声が低く響く。
─その一言に、舞姫の手が一瞬止まった。
─静かな夜の中で、ドライヤーの音もテレビの音も消えている。
─ふたりの間に流れる空気だけが、少し甘く熱を帯びる。
「……なに急に、そんな事言う?」
「嘘じゃねぇべした」
「……もう、ずるい」
「ずるくてもいい。俺、舞姫以外いらねぇもん」
─俺は手を伸ばして、舞姫の髪を軽く撫でた。
─彼女は顔を伏せて、頬を包むように手を添える。
少し俯いたまま、ぽつりと呟いた。
「……草津、楽しみやな」
「あぁ。温泉入って、湯けむりの中でのんびりしたい」
「希望くん、肩凝ってるやろ?うち、揉んであげるわ」
「まじ?そいじゃ、帰りも頼む。温泉で緩めて、舞姫マッサージで完治だ」
「ふふっ……そんな単純ちゃうけどね〜」
─舞姫は立ち上がって、希望の背中に回る。
─軽く肩を押すたび、希望の肩が小さく動く。
─その温もりに、ふたりともゆっくりとした息をついた。
「……なぁ、舞姫」
「ん?」
「こうしてると、なんか……夫婦みてぇだなって思う」
「……そりゃ、もう婚約してるし」
「そうだな。でも……"結婚したあと"の暮らし、ちょっと楽しみだべ」
「私も。きっと、今みたいに笑ってたい」
─希望は少し振り向き、舞姫の手を取った。
─そのまま指先を絡めて、見つめ合う。
─二人の手の中で、静かに春の夜がほどけていく。
「明日は、冰山から出発して、大宮駅から草津直行な?」
「うん、早朝の新幹線でね」
「んだら、早めに寝ねぇと。寝坊したら温泉遠のくぞ」
「……希望くんが起こしてくれたら、ちゃんと起きるもん」
「ん〜、それたぶん起きねぇパターンのやつだ」
「むぅ〜……」
─舞姫がふくれっ面になると、俺は小さく笑いながらその頬をつまんだ。
─ふたりの笑い声が夜のリビングに溶け、時計の針が静かに進む。
──荷造りの夜は、まるで"旅の前の小さな夢"みたいに、
─温かく、静かに過ぎていった。
――――――――――
─午前六時前。
─窓の外は薄い橙色の朝焼け。
─カーテンの隙間から差し込む光が、舞姫の頬をそっと照らしていた。
「……んっ……」
「おはよう、舞姫」
「……希望君……もう起きてたんだ?」
「うん。お湯沸かしてっから、コーヒー淹れてやっから」
「……ふふ、ありがと」
─布団の中で舞姫が身を起こすと、まだ寝ぼけ眼のまま、伸びをした。
─乱れた髪をひとつにまとめる仕草さえも、俺には眩しかった。
─キッチンでは、コーヒーとトーストの香ばしい匂いが漂う。
─テーブルの上には、昨日準備した旅行バッグがふたつ並んでいた。
「……なんか、ほんとに行くんだなぁって感じする」
「今更か?デズニー行く時も同じこと言いそう」
「だって昨日まで夢みたいやったんやもん」
「夢じゃねぇよ。ちゃんと現実だべ」
─俺がカップを差し出すと、舞姫は両手で包み込むように受け取る。
─白い息が、湯気と一緒に溶けた。
「……温かい」
「舞姫、寒がりだもんな」
「うん。でも……希望君の隣にいたら、平気」
「……またそういう可愛いこと言う」
「はっ!お化粧しないと」
「化粧か……舞姫は寝起きでも十分めんこいべ…」
─目を合わせるだけで、言葉がいらなくなる。
舞姫が微笑むと、俺の心臓がほんの少し早く打った。
「違うの!今日は希望君の温泉デートなんだよ?この為に夜勤三連勤も頑張れたの〜」
「よしよし……舞姫、今日の髪型はどうする?」
「温泉入るから…顔周りだけ巻く感じかな。あとの髪はストレートにして下ろす…ふやぁ」
─家を出る時間が早い遅い問わず、舞姫はデートの時は必ず化粧だけはしていく。
─彼女が化粧するところはずっと見てきてるのに、この日は特別に見えた。
─たまに彼女に化粧品をプレゼントするのだが、それを使ってくれてるのだから。舞姫の顔に合うコーラルピンク色のリップが艶めかしい。
「もう…見られると恥ずかしいよ…」
「いやぁ…舞姫、睫毛長いし目ぱっちりしてるなぁって…」
「……褒めても何も出ないのに…」
「髪もサラサラだなぁ…」
─俺は舞姫が化粧をしてるのを見るのが好きだ。
─舞姫の持つ包容力や暖かさ、優しさが引き立つからだ。
「ふぅ…新幹線の時間、七時三十分だったな」
「うん……希望くん」
「ん?」
「今日の服、かっこいいね」
「マジで? 普段通りだべ」
「でも、なんか……旅行デートって感じ」
「そっちこそ。なんだよそのコート、似合いすぎて反則だべ」
「……嬉しいけど、褒めすぎだって」
─この日の舞姫は黒のワンピースを着ていて、俺は暗めの紫のパーカーに黒のズボンだった。
─顔を赤らめながら、舞姫はコーヒーを飲み干した。
─その指先が、そっと希望の手に触れる。
─自然に指を絡めて、二人は少しだけ見つめ合った。
「行こっか」
「あぁ……行こう。今日から二泊三日、俺らだけの時間だ」
「うん。温泉も、夜の街も、楽しもな」
─マンションを出ると、冷たい朝の空気が頬を撫でた。
─福島の冬はまだ少し名残を残していて、息が白い。
「寒っ……!」
「おいで。手、出せ」
「……こう?」
「ん」
─希望は舞姫の手を取り、ポケットの中へ一緒に入れる。
─彼女の指先が、少しずつ温まっていく。
─よく見ると、ネイルがされていた。そういえば昨晩、先に寝て欲しいと言われたのだが、その為だったとは─。舞姫の瞳の色と同じ、エメラルドグリーンのネイルだった。
「……ぬくい」
「それでいい」
「希望君、優しすぎるんだから……」
「俺が優しいんじゃなくて、舞姫が冷えすぎなんだべ」
「ふふっ」
─改札を抜け、新幹線ホームに立つ。
─少し遠くで雪がちらつき、空気は澄んでいた。
─アナウンスが流れ、列車のヘッドライトが光る。
「……行こっか」
「うん。行こう、舞姫」
─手を繋いだまま、二人は列車に乗り込んだ。
─窓際の席に並んで座り、車窓の外を眺める。
街が少しずつ遠ざかっていく。
「……こうしてるだけで、幸せだね」
「俺もだ。隣に舞姫がいるだけで、なんか全部報われる気する」
「……もう、希望くん……」
─照れながらも微笑む舞姫の肩を、希望はそっと抱き寄せた。
─窓の外の光が二人の顔を柔らかく照らす。
─その瞬間、世界のどこよりも穏やかな時間が、
─新幹線の中に流れていた。
──草津への旅が、始まった。
……To be continued
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