第二話「心中」
鉄橋での一件の後、結局縷々はまともに眠れなかった。
無理もない。突然自分の世界に飛び込んできた非日常は、あまりにも鮮烈だった。
クラスメイトの裏の姿に、物悲しい悪霊の末路。簡単には整理出来ない出来事は、縷々の脳内を完全に支配してしまっていた。
「……い、行ってきます……」
日頃から寝付きが悪く、中途覚醒も多いせいでただでさえ睡眠不足気味なのだ。徹夜明けとなるともうほとんど気力がない。
朝食もあまり食べず、明らかに覇気のない縷々を訝しみつつも義両親は縷々を見送る。関係性がそれ程良くないとは言え、普通程度には心配してもらえているようだ。
気を抜くとふらついてしまいそうな体調だが、正直縷々はこの程度の体調不良には慣れている。ポケットに常に忍ばせている目覚まし用のガムを食べながら、縷々は事故だけは起こさぬよう慎重に登校した。
いなかったらどうしよう、などとよくわからない不安を抱きながら教室のドアを開いたが、朝宮露子は普通に自分の席に座っていた。
あれだけ美しい金髪は一目でわかる。その後、自分の席に真莉夢がいないか確認したが、昨日の今日なのもあってか縷々の席には誰も座っていなかった。
そんな当たり前のことに安堵しつつ、縷々が自分の席へ向かっていると、甲高い声が縷々を呼び止めた。
「おはよう来々さぁん。今日かわいくなぁい?」
案の定、声の主は真莉夢だ。
相変わらず取り巻きを数人侍らせて、白魚のような右手でスマホをいじりながら縷々の方を見ている。
「えっ、あ……はぁ……?」
「いつもはすっぴんで来るのに、今日目元盛ってない? ねえどこのアイシャドウ使ってる?」
ああ、クマのことか。そうわかった途端、縷々は顔をしかめそうになった。
嘲笑と目線がやけに痛い。ただの世間話のようにからかわれると、適切な対処がわからない。
もっとも、適切な対処法がある場合も縷々にはそれを行う勇気がないので同じではあるのだが。
「私のおすすめ教えたげようか? 休憩時間、空いてたらメイクさせてよ~。来々さんかわいいから、きっとモデルみたいに出来るんだけど」
そう言いながら、真莉夢はスマホの画面を縷々に見せつける。
映されているのは、検索エンジンでヒットした子供服のモデル達の姿だ。
「……」
クスクス笑う真莉夢達に、縷々は言葉を返せない。
何か言い返してしまえばどうせこちらが悪者になるのだろう。
そうなるように、真莉夢は口では何も悪口は言っていない。
「来々さん? 体調悪い? 保健室行った方が良いんじゃない?」
”いつもみたいに”。真莉夢が口パクでそう付け足したのが縷々にはわかった。
どうすれば良いんだろう。真莉夢は何がしたくてこんなことをするのだろう。
縷々には何もわからなかった。
眠気でぼやけた頭がフリーズしてしまいそうだった。
そのまま何も言えずに突っ立っていると、不意に誰かが後ろから近づいてくる。
「来々、ホームルームまでに昨日の課題の答え合わせする約束、忘れてんじゃないでしょうね」
そう言って縷々の肩を叩いたのは、先程まで自分の席に座っていたハズの朝宮露子だった。
「あっ……えっと……」
真莉夢の表情が露骨に歪む。
露子はそれを無視して、縷々の手を引いた。
「ほら行くわよ。もうあんまり時間ないんだから」
強引に引っ張られ、縷々は強制的に自分の席へと連れて行かれる。
その手が妙に温かくて、縷々は思わず握り返していた。
「……またね、二人共」
一瞬、露子と真莉夢の視線が交差する。
真莉夢の方は意味深に見つめていたが、露子は対して興味がなさそうに視線をそらしていた。
「ったくトロいんだから。あんなの無視して席に着きなさいよね」
縷々を席に着かせると、露子はわざとらしくため息をつきながらそう言う。
「あっ……すみません……あと、ありがとう……ございます」
ボソボソとした声でしか言えなかったが、縷々はどうにかして御礼の言葉を絞り出す。
正直あのままだと、ホームルームの時間まであそこでおもちゃにされてしまいそうだった。
「ま、いーけど」
適当にそう言いながら、露子は自分の席に戻ると縷々へ背を向ける。
課題の答え合わせなど、縷々を連れ出すための口実でしかない。そもそもそんな約束はしていないのだ。
「あ、朝宮……さん。あの……」
「なに?」
「さっ……昨夜の……ことなん、ですけど……」
おずおずと口にしたが、露子は振り向いてもくれない。
「忘れなさい。三回目は言わないわよ」
にべもなくそう言われ、縷々は口ごもる。
それでも勇気を振り絞って食い下がろうとしたが、チャイムの音に邪魔されてしまった。
***
昼休み、縷々は基本的に水筒と弁当箱を持ってどこかへ逃げ込む。
それは渡り廊下だったり、どこかの階段だったりするが、最悪の場合はトイレに逃げ込むこともある。
出来れば昼休みは他人と関わりたくなかったし、真莉夢の視界に入ればかなりの確率で捕まる。これは中学の時からの経験則だ。
「え~来々さんのお弁当ちっちゃくてかわい~! だいぶ使い込んでるけど、小さい頃から使ってるの?」
そして今日は、逃げそびれて捕まってしまっていた。
何が悲しくて真莉夢と取り巻き達と机を突き合わせて弁当を食べなければならないのか、頭を抱えたくなる。
縷々は食が細く、弁当箱は小学生の時から変わっていない。
そしてこの弁当箱は、義姉の杏奈のお古なのだ。別に悪いとも思っていないが、縷々にとってそれはなんとなく触れられたくない部分だ。
腹立たしいことに中学の時から毎回同じクラスの真莉夢は、縷々の家庭事情をある程度わかっている。わかっている上で、こうしてわざわざ触れてくるのだ。
態度には小馬鹿にした様子がありありと出ているが、相変わらず言葉の上ではただの世間話の範疇だ。縷々がまともに返答出来ないのをわかっているからこそ、変にリスクを犯してまで直接的な弄り方は避けているのだろう。
「いや、その……これは……はいっ……小さい、時から……」
なんとか捻り出した当たり障りのない答えに、真莉夢は笑顔で話題を広げていく。
「小さい時と言えばさぁ、来々さんってたまに誰もいないトコをじーっと見てることあったよね?」
「あっ……う……」
中学の頃は、校内に迷い込んだ浮遊霊を見かけることがしばしばあった。それでついつい視線を向けていたのを、真莉夢に見つかってしまい、弄りのネタにされたことも多かった。
正直なところ、またこのネタか……くらいの気分ではある。
だがだからと言って堂々とすることも、適当に流すことも縷々には出来なかった。はい、視えちゃいます、などとも言えない。
「え? 来々さん幽霊見えるの?」
取り巻きの一人が食いついてくる。これは単純な好奇心からだろう。
「そうそう。来々さん視えるっぽいんだよね~。すごいよね」
幽霊の話題で、取り巻き達がにわかに盛り上がる。
話を振られるのがしんど過ぎて食がまるで進まない。睡眠不足による体調不良もあいまって、かなり最悪の気分だった。出来れば今すぐ早退したいくらいだった。
「じゃあさ、呪いの家、行ってみない?」
そんな中、真莉夢がスマホを取り出しながら言う。
真莉夢が全員に見せつけてきたスマホには、イヌスタと呼ばれるSNSが表示されていた。真莉夢の友人のアカウントが表示されており、這輪戸町内の住宅街のとある一軒家の写真が投稿されている。
「ここ、何ヶ月か前に一家心中があったらしくてね。事故物件になって買い手がつかないらしいよ」
真莉夢の話を聞いて、縷々は青ざめる。
そういう場所には十中八九霊が出現する。多くは元の持ち主の霊だが、関係ない霊が住み着いてしまうことも珍しくない。そんな場所、行けば絶対にロクなことにならない。
「なんか不動産詐欺? みたいなのに遭ったらしくて一家心中だってさ。ここらじゃ結構有名なんだって」
冗談じゃない。そんな場所、絶対に行きたくない。行かせるべきでもない。
そう強く思う縷々だったが、中々言葉に出来なかった。強い口調で喋ることに慣れていないのだ。それも、相手が真莉夢となれば尚更難しくなる。
「来々さんさぁ、行ったら何か視えるんじゃない?」
きっぱりと断る勇気が出せないのが、縷々にとって一番腹立たしかった。
***
(結局来てしまった……)
バックレる、という方法もあったのが、そんな度胸はないのが来々縷々である。
学校に通う以上、真莉夢とはどうやっても毎日顔を合わせることになる。バックレて余計な因縁が増えれば面倒なことになるのは目に見えていた。
が、霊……それも悪霊が関係している場合は命に関わる。霊の視えない人間なら、過度に関わらなければ干渉されないかも知れないが、視えてしまう縷々の場合は違う。かなりの確率で悪霊に襲われる可能性が高いのだ。
命と天秤にかけて、重たいのが真莉夢との関係だなんて馬鹿馬鹿しい。わかってはいても、縷々は結局呪いの家まで来てしまった。
正直なところ、眠気もあいまってどうにでもしてくれ、という気持ちもある程度ある。
投げやりな気持ちで、縷々は呪いの家をぼーっと見つめる。
どう見てもただの一軒家だ。なんの変哲もない。
だが建物の中で渦巻く憎悪は尋常ではない。縷々には一目で、この事故物件が本物だと理解出来た。
「あ、来々さ~ん。早いじゃん、楽しみにしてたの?」
呪いの家を眺めていると、制服のままの真莉夢達がこちらに向かって歩いてくる。
真莉夢と取り巻きを合わせて三人。
みんなで寄り道をしてきたらしく、どこぞのカフェで買ってきたらしいテイクアウトのコーヒーだかカフェオレだかを手に持っている。
「あ、あっ……あの、やっぱり、やめま……せんか?」
少ない勇気を振り絞り、縷々は真莉夢を見上げてそう告げる。
この家が本物の事故物件である以上、危険なのは間違いない。いくら真莉夢達とは言え、わかっていてわざわざ関わらせるのは視える人間として捨て置けなかった。
しかし縷々のそんな気持ちをよそに、真莉夢はクスリと笑う。
「え~? じゃあここ、来々さんのお墨付きってこと? やばくない?」
全く本気にしていない顔だった。
そもそも真莉夢は、縷々に霊能力があるだなんて少しも思っていないように見える。ただの弄る口実程度にしか思っておらず、呪いの家も退屈しのぎだろう。
「そ、そそ、そうです……なので、危ない……ので……」
今回は事が事だ。簡単に引き下がれず、縷々はしどろもどろになりながらも引き返すよう提言する。だがどうやら、真莉夢も取り巻き達も取り合うつもりはなさそうだった。
「じゃあ~……来々さん、先に入ってみてくれない?」
「えっ……?」
「来々さん、視えるんでしょ? 安全確認してきてよ」
そうきたか。と縷々は口ごもる。
「通話かけるから、スマホでリアルタイム実況してくれない? 私達、外で待ってるから」
この家の中には、出来れば縷々も入りたくない。このまま引き返したいのだ。
ここでようやく縷々は気づく。
真莉夢の目的は心霊スポットの探索ではない。
本物の事故物件に縷々を入れて、そのリアクションで楽しもうという魂胆なのだ。
霊なんて信じていないから思いつくことだ。霊を、悪霊の存在とその危険性を少しでも知っていればこういう発想にはならない。
「…………」
だが、全員で入り込んで全滅するよりはいくらかマシだろう。
縷々は霊に干渉されやすいが、経験がある分逃げ方も少しは心得ている。一人で入って、真莉夢達には適当に楽しんで帰ってもらうのが一番安全に思えた。
真莉夢なんかのために身体を張るのは最悪の気分だったが、それでも怪我をされたり取り憑かれたり、死なれたりするのは嫌だった。半ば投げやりになっていても、縷々の中の善性はまだ枯れていない。
「わかり……ました……縷々が……見て、きます」
うつむきがちにボソボソとそう答えると、真莉夢は満足そうに笑う。
「ありがとう~! それじゃ、お願いね!」
もう後はなるようになるしかない。
意を決して、縷々はスマホを片手に呪いの家へ一歩踏み出した。
***
よくよく考えれば、曲がりなりにも不動産業者によって一応管理されている空き家の鍵が開けっ放しということはないのではないか。
鍵が開いていませんでした。となれば真莉夢達もそれ以上は追求してこないかも知れない。
そんな期待を抱きながら玄関のドアに手をかけると、気持ちいいくらいドアノブを簡単にひねることが出来た。明らかに開いている。
(ず、杜撰な……!)
曰く付きの物件だ。業者もあまり立ち入りたがらなかったのかも知れない。少なくとも、この家が放置されていることだけは間違いなかった。
「うぅ……」
数メートル後方では、真莉夢達が楽しそうにこちらを眺めている。
これはもう、開いてなかったことにするしかない。
真莉夢達も縷々の手元までは見えていないだろう。開いてなかったと言ってしれっと戻ればとりあえずこの家からは全員を遠ざけられる。
そんなことを考えていると、縷々を咎めるようにスマホが振動した。
慌てて確認すると、やはり真莉夢からの着信だった。振り返ると、真莉夢がスマホを耳にあててこっちを見ている。
『それじゃ来々さん、実況お願いね。もしかして鍵かかってた?』
「あっ……その……」
こういうとき、流れるように嘘がつければ良かったのだが縷々にはそれが難しい。
嘘がつけないのではなく、単純に流れるように喋ることが苦手なのだ。大抵の場合、吃っている内に相手に気取られる。
『来々さん、ほらドア開けてみて』
声の圧が少し強くなる。
抗えず、縷々は再びドアノブに手をかけた。
家から感じる負の霊力が強まるばかりだ。長くこんなところにいれば、縷々が体調を崩してしまう。ただでさえ寝不足で調子が悪い今、家の中で倒れてしまってもなんら不自然ではない。
「はっ、は……入り、ます……」
震えながらドアを開け、縷々は家の中に入っていく。
当然、家の中は視覚的には普通の一軒家だ。下駄箱や、二階へ続く階段、リビングへ向かう廊下など、何の変哲もない景色である。
だが昼下がり独特の僅かな薄暗さと、生活感の消えた景色が不気味さを醸し出す。
どこか空気が重い。空気中に霧散した負の霊力が、縷々の中に少しずつ入り込んでくる気がした。
『……ど……な…………さん? ……んじ…………よ……』
「……あれ? 孔雀門……さん?」
スマホから聞こえてくる音声が、かなりぶつ切りになっている。ノイズも相当混じっており、真莉夢が何を言っているのか全くわからなかった。
厭な予感がして、すぐに出ようと玄関のドアへ向かう。
「えっ……!?」
どういうわけか、ドアは全く開かなかった。内鍵もかかっていない。どれだけドアノブを捻っても、ドアが開く気配はなかった。
その上、真莉夢との通話も完全に途切れてしまう。
「そ、そんな……!」
閉じ込められた、と理解した瞬間、冷えた汗が背中から吹き出すような感覚があった。
そしてそれと同時に、二階からガタガタと何か大きなものが転がり落ちてくる。
「ひっ……!」
階段から一階まで転がり落ちてきたのは……スーツを着た青白い顔の男性の遺体だった。
ギョロリと目を剥き出しにし、頭部の穴という穴から血を吹き出した状態で、見るからに変死体だ。
(……いや、これは……!)
否、遺体などではない。
これは――――
「あ、悪霊……っ!」
男の身体がピクリと動く。
アレは物理的に存在する遺体ではない。変死した男の霊が悪霊化した姿なのだ。
変死? こんな場所で? 否、こんな場所だからこそ……? 考えを巡らせている内に、縷々の中に男の霊力が流れ込んでくる。
(この人……ここで殺されたんだ……!)
この男は、この呪いの家に立ち入って悪霊に殺されたのだ。
それに気づいた頃には、男が立ち上がり、カクカクとした動作で縷々に近づいてくる。逃げ出そうにも、後ろにあるのは不可解な形で閉じられたドアだけだった。
首が不自然に捻じ曲がっている。
青白い顔面と飛び出したギョロ目が縷々に近づいてきて、その細い首筋を両手で掴んだ。
「ぐっ……!」
男と接触すれば、縷々には更に男の詳細がわかるようになる。
この男は、この家とはほとんど関係がない。この家の家族がなくなった後、管理を担当しただけの他人だ。
「っ………!」
知らず、縷々の目を涙が伝う。
(どうして……また、こんな……!)
この家を呪いの家たらしめているのは、この家で死んだ家族の霊だ。この男は、その呪いの中に取り込まれているだけに過ぎない。
彼が死ななければ理由など何もなかった。ただこの家の中で負の霊力に囚われ、誰彼構わず襲いかかっているだけなのだ。
ただの被害者でしかない彼が、ここに囚われて悪霊化しているという事実が、縷々には耐えられなかった。
そしてまた、この家の家族もまた被害者に過ぎない。
この男から流れてくるイメージが正しければ、この家の家族が一家心中した理由は、自身を不動産のプロだと偽る詐欺師によって財産の殆どを騙し取られた結果なのだ。
たった一人の詐欺師による自分勝手で悪辣な金儲けが一つの家族を殺し、更に被害者を生み出している。この負のループはあまりにも度し難かった。
だが、そうして感傷に浸っている間にも縷々の首はギリギリと締め上げられていく。
もうほとんど呼吸が出来ない。
どうにか、真莉夢達が逃げ出したかどうかだけは確認したかったが、このままではそれすら叶わないだろう。
連中のためにこのまま死ぬのは嫌だったが、巻き込まずにすんだのならそれを誇って死ねる。
そこまで考えて、縷々が意識を失いかけた――――その時だった。
「動かないで」
ピシャリと。凛とした声が響く。
縷々がもがくのをやめると、サイレンサーで抑えられた銃声が鳴り響き、縷々の真横を弾丸がかすめていく。
次の瞬間、弾丸が直撃した男の霊はそのまま霧散していく。
突如解放された縷々は、その場に一度膝から崩れ落ちた。
「けほっ……けほっ……」
むせ返りながら、縷々はなんとか自分が生きていることを確認する。
あと一歩で意識を手放してしまうところだった。
「はぁ……やっぱりまたアンタなのね」
なんとか振り返ると、そこにいたのは通学鞄を持った制服姿の朝宮露子だった。
「朝宮……さん……?」
「ま、事情は大方察してるけどね。来る前に見かけたわよ、孔雀門一味の皆様」
やや皮肉っぽくそう言って、露子はすぐに縷々の元へ歩み寄ると、右手を差し出した。
「立てる? さっさとここを出なさい」
「あ、ありがとう……ございます……。あの、孔雀門さん達は……?」
「さあ? どっか行ったわよ。……少なくともこの辺りにはいないわ」
露子の言葉を聞いて、縷々は安心して腰が抜けそうになる。
とにかく霊と無関係の人間を、悪霊から遠ざけることには成功したらしい。
「……」
そんな縷々の様子を見て、露子は小さく嘆息する。だがすぐに笑みを浮かべた。
「根性あるじゃない。ここに来たのも連中のせいなんでしょ?」
霊能力のある人間が、明らかに悪霊の住み着いている場所に肝試し感覚でわざわざ入り込むわけがない。真莉夢達の性格を考えれば、縷々の挙動を面白がってこの呪いの家に連れ込んだだけだろう。
何も知らない人間の”遊び感覚”は、時に死を引き寄せる程残酷だ。
縷々は何もかもわかった上で自ら入り込み、真莉夢達をこの家から遠ざけたのだろう。でなければ、真莉夢達の安否を即座に確認するようなことはするまい。
そこまで考えて、露子は縷々のその精神性に感心していた。
一見臆病なだけに見えた彼女に、ここまでのことが出来るとは思っていなかったからだ。
「来々、ここはあたしに任せてはやく逃げなさい。ここの悪霊は、あたしが必ず祓う」
「祓うって……この家の人達を、ですか……?」
何故か不安げに問う縷々に、露子は小さく頷く。
「こ、この家の……人達は……きっと何も、悪くない……です。さっきの人だって……」
「……そうかもね」
露子は、橘を介して不動産業者からこの家の除霊依頼を受けている。そのため、事情は既に把握していた。
「それでも、人に害があるなら祓うしかない。熊と同じよ」
露子の仕事はあくまでゴーストハンターだ。悪霊を狩り、生きた人間を守るのが務めだ。
祓うことで霊を解放し、救う。そういう考え方もあるが、露子は仕事として割り切っている。
情が勝れば手が鈍る。責務が勝れば心が鈍る。
危ういバランス感覚を強いられる中、露子は除霊行為そのものは完全に割り切ることに決めていた。
「……そう、ですか」
露子の言葉に、縷々は言い返せなかった。
正論だ。
生きた人間を守るためなら、悪霊は祓わなければならない。
例えそれが元々は被害者だとしても。
「問答するなら今度にしましょう。今はとにかくここから出なさい」
「えっ、あ、いや、でも……玄関が……」
閉じられている。そもそも露子はどうやって中に入ったのだろうか。もしかすると、この家の悪霊は来る者だけは拒まないのかも知れない。まるで、蜘蛛が生贄を待つかのように。
そんなことを考えている内に、縷々も露子も巨大な負の霊力を感じ取った。
「っ!?」
そして居間の方から、八本の手が伸びてくる。
縷々の身体はすぐに絡め取られ、居間の方へ引きずり込まれてしまう。
即座に追いかけ、露子は居間の中に入っていく。
「来々っ!」
居間の中は、むせ返る程の練炭の臭いで満ちていた。
思わず口元を覆いそうになるが、これは実際の練炭ではない。
悪霊が発する霊的な現象だ。霊能力によって拡張された霊的な知覚が、悪霊の中のイメージの一部を臭いとして受け取っているに過ぎない。
この一家の死因は練炭による自殺だ。大抵の悪霊は、死亡時の状態が色濃く影響する。練炭の臭いはその現象の一環だ。
「朝宮……さん……っ!」
そして居間にギチギチに詰まるようにして、この家の悪霊がそこにいた。
父、母、息子、娘。四人の家族が滅茶苦茶に連結した、肉塊のような怪物だ。
八本の手足がバラバラに生えており、顔や頭髪も上下前後様々な場所から浮き出るようにしてついている。どれも苦悶の表情を浮かべており、身体の中央についた首の曲がった男性の顔は真っ黒な涙を流していた。
そのあまりにも悲惨で醜悪な状態に、露子も僅かに動揺する。このレベルで変異した悪霊は、何度見ても慣れない。
八本ある腕の内二本が、縷々の身体を捕らえていた。
「僕……ハ……まも、ナンでコんな……おレわるクなッ……ゴメんネェぇェぇぇあっ……死ニたくなイよォォ……クルシッ」
「集合霊……ってわけね」
集合霊。
複数の霊魂が寄り集まって巨大な悪霊となった存在のことだ。
大方、この家で地縛霊となった家族の霊魂が一体の巨大な悪霊として形を成したのだろう。
同じ場所、同じ理由で死んだ霊は集合霊になりやすいのだ。
「う……あっ……っ!!」
この家の集合霊と直接触れ合ったことで、縷々の中には四人分の負の感情が流れ込んでくる。
家族を守れず、死を選ぶ親の絶望。若くして未来を失い、呪いとしてしかこの世に留まれぬ子供達の悲哀。
どうしてこんな目に遭わなければならなかったのか、誰にもわからなかった。
もっと別の方法があったのかも知れない。命を断つ以外の手段はきっとあったハズだ。
だが限界まで追い詰められた父母の心は、既に再起不能なレベルでひしゃげていた。
死を選んでも尚、子供を手放せない己の身勝手さに対する後悔と怒り。父母を恨む気持ちと同時に、確かに存在する温かな思い出。
何もかも滅茶苦茶に混ざった感情が、縷々の中に流れ込んできてしまっていた。
「来々……今助けるわよ!」
このままでは来々縷々という人間が崩壊しかねない。生まれつき霊力の高い人間が、訓練なしで強い悪霊と触れ合えば最悪の場合精神に異常を来す。
露子は射撃の腕にはある程度自信があったが、それでも誤射のリスクをなくすことは出来ない。
その上、悪霊の動きはひどく不安定だ。縷々を掴む腕はゆらゆらと揺れており、不意に動かれれば弾が縷々に当たりかねない。
そして問題は、集合霊の性質にもあった。
集合霊はその名の通り複数の霊の集合体だ。そのため、普通の霊とは性質が異なる。
ダメージを与えても簡単には祓うことが出来ない。素早く、的確に縷々の命を救いつつ霊を祓わなければならない今、向こうの耐久力に合わせて持久戦をやっている余裕はない。
集合霊を素早く祓うには、集合霊の本体を叩く必要がある。集合霊の核になっている霊魂、それさえ払えばまとめて一気に祓うことが出来るのだ。
ジッと目を凝らし、霊力を集中させて露子は核を見極める。
身体の中央……父親の顔が浮き出ている場所に、集合霊の核があるのが見えてくる。
分厚い霊体に覆われているため、一撃では祓えないだろう。
「……ふぅ」
意を決して、露子は鞄の中から一本の武器を取り出す。
露子が取り出したのは、昨晩のナイフではなく小刀だった。漆黒の鞘に収められた小刀を抜刀し、露子は身構える。
「霊刃――電光朝露」
呟くやいなや、露子は集合霊との距離を詰める。
相手に反応させる隙も与えず、露子は電光朝露を振り下ろす。
「アッ……!?」
集合霊が奇声を上げる頃には既に、その身体は真っ二つに両断されていた。
分厚い霊体がばっくりと割れ、中から小さな核が姿を現す。
すぐさま露子は、その核に電光朝露を突き刺す。電光朝露を通して、露子の霊力を流し込まれた核が、一気に祓われていく。
「ゴめんなサい……ゴメんナさい……ぱぱとマまが……悪かッタの……」
混ざり合っていた四つの霊魂が、消えていく。
それを見送った後、露子は集合霊から解放され、その場に倒れ込んでいる縷々の元へ駆け寄っていく。
「来々っ!」
駆け寄りながら、露子はよろけかけて膝をつく。
電光朝露を使ったことによる副作用だ。
電光朝露は、使用者の霊力を大幅に消費する。しかしその代わりに、どんな状態の霊体でも確実に切り裂くことが出来るのだ。
この方法が、恐らく最もはやく確実に今の集合霊を祓う手段だっただろう。
長期戦になれば、途中で縷々の精神がもたなくなる。
「朝宮……さん……」
縷々の言葉を聞いて、露子は心底安堵する。どうやら彼女の精神は無事らしい。
「……無事なら良いわ。さっさと帰るわよ」
体格的に背負うのは難しいが、肩を貸すくらいは出来る。露子が手を差し伸べると、縷々はその手を取って立ち上がった。
「ありがとう……ございます……」
「むしろ、こうなる前に助けられなくてごめんなさい。あたしの落ち度だわ」
もっとはやくこの場に来ていれば、縷々をここに立ち入らせずにすんだかも知れない。露子としては、縷々を戦闘に巻き込んだ時点で大失態だと感じていた。
「いえ、そんな……首を突っ込んだのは……縷々なので……」
言いながら、縷々はこの家にいた霊達に思いを馳せる。
(皆……被害者でした……)
高い霊能力は、霊を知り過ぎてしまう。
命と精神が助かった安堵よりも、この家にいた霊達を想うやるせない気持ちの方が勝ってしまう。
あの家族を騙した詐欺師は、今もどこかで平然と生きているのだろうか。
「……アンタ、もう霊と関わらない方が良いわよ。本当に」
その想いを察してか、露子は静かにそう告げる。
「……そう、ですね」
これ以上関わっても、悲しい思いをするばかりだ。命だっていくつあっても足りない。
行き場のない気持ちを抱えたまま、縷々は露子に支えられたまま居間を後にし、玄関に向かう。
もうドアは、開くようになっていた。
露子がドアを開けると、家の中にこもっていた負の霊力の残滓が、外へ出ていって霧散していく。
この家の呪いは、ようやく終わったのだ。




