夢の世界で生きると決めたんだ
最近やたらと夢を見る。夢なんて滅多に見ないのに最近は驚く程に見てしまう。しかも、どの夢も楽しくて幸せなもので、自分の失ったものや辛い過去が全てリセットされて、理想通りに物事が進み、失った過去は全て綺麗なリアルとして目の前に現れる。
それはとても幸福で気持ちよくて、濁った感情がないものだった。でもそれは所詮夢。そう思っていても、夢を見る時間はどんどん長くなっていく。夢の記憶なんて曖昧なもののはずなのに、しっかりと覚えている。
このまま、夢に取り込まれそうな気がしている。そんなもやもやした頭のまま、俺はいつも通り高校へと一人で足を運んでいる。つまらない街中。鉄の塊にしか見えないビルやマンション。寂れた個人経営の店。コンビニ。信号。面白くない。気持ちの良い朝なんて俺は知らない。楽しい街というのも、よくわからない。
カップルが横を通り過ぎた。どっからそのテンションと笑顔が生まれるんだと思うくらい、純粋な笑顔を浮かべていちゃいちゃして歩いている。俺には関係のない光景だから、奇妙な人間に見える。女子のグループが通った。甲高い声で何やら話している。楽しそうで何よりだ。
歩けば歩くほど、学校が近づいてくる。今日もつまらない日々が始まる。意味の無い勉強をして友達と上っ面の笑顔を浮かべながら雑談をする。腹の立つ事を言われてもぐっと我慢して笑ってその場を流す。教師に理不尽な説教をされても言い返さずに謝り続ける。
俺は足を止め、回れ右をしていた。なんか、真面目に学校に行くことがアホくさくなってしまった。別に必死こいて嫌な勉強をしてまで人生を生きようと思わないし、頑張って高校を卒業してなりたい職業というのも無い。だから、行かない。頭の中で色々考えた末に、頭の中には学校に行きたくないという事でいっぱいになっていた。
家に帰り、制服のままベッドに倒れ込む。二度寝だ二度寝。また、夢を見よう。今度はどんな楽しい夢を見られるのだろうか。夢を見ているときが人生で一番楽しい。いや、それは人生とは言わないか。でも、夢を見ている時は本当に幸せなんだ。いっそ、夢の中だけで生きていたい。
俺は気づくと、中学校時代の教室にいた。懐かしいなぁ。この頃は将来の不安とかまだ無くて、進路の事を考えて憂鬱になる事もなかった。受験は辛かったけど、仲の良い友達がいたから耐えられた。中学の頃は何もかもが充実していた。俺は黒板の前に立って教室を見渡していた。
すると教室の真ん中に、見た事のない女の子がいた。長い黒髪はさらさらとしていて艶がある。毛先が少しカールしていて、これ以上伸びると口の中に入ってしまいそうだ。もみあげは長く、ラーメンでも食べようもんなら髪の毛が着水してしまいそうだ。唇は薄いが柔らかそう。肌は綺麗で色白。腕も足も細い。顔は小さいけど目は大きい。セーラー服がとても似合っていて、大和撫子という言葉が思いついた。
「おはよう、鹿取君」
「あ、うん。えーと。君は誰?」
「私は伊緒間菜々実だよ」
い、いおまななみ? 難しい名前である。ていうかそんな奴俺の知り合いにいただろうか。いや絶対にいない。いおまなんて珍しい苗字始めて聞いたぞ。
「ここは鹿取君の中学時代の教室だよね。なんだか幸せな空気が漂ってる」
幸せな空気ってどんな空気だ。
「きっと、鹿取君は中学時代楽しかったんだろうね」
俺は高校三年生で十八歳になっている。十八年生きた中で、確かに中学時代が一番楽しかった。楽しい事も嫌な事もあったが、全てひっくるめて良い経験をしていたし、十分に悩み考え抜いていた。友達と楽しくしていたし恋愛もそこそこ頑張った。
でも高校生になってから最悪だ。高校はとてもガラが悪く頭も悪く、一桁の割り算を出来ない奴がいた時は退学届けを出そうかと想った。悪い意味で変った奴が多すぎるし幼稚な人で溢れている。教師は頭ごなしに怒るだけで言っている事はめちゃくちゃで、理不尽な事を言うのが仕事らしい。
俺は高校生活に疲れ切って、もうどうでもよくなってきている。うちには大学に行く金なんかない。専門学校はどうだという話になるが、俺の住んでいる札幌においては、とりあえず専門学校行っておけというノリは宜しくない。どこの専門学校も圧倒的人手不足であり、学費をアホみたいに安くしている学校だってあるし、二年制の学校に通う勇気もない。北海道は、東京と比べると二倍か三倍は仕事がないのだ。バイトでさえ東京よりも圧倒的に少ない。そんな場所で、専門学校に入る意味はあるのかと思う。だからと言って、高卒で就職が決まらなかった場合そのままフリーターという訳にもいかない。
そういう事を考えると憂鬱になる。ていうか、ここまで必死に考えたり悩んだりして出した結果を信じて歩んでも、この時代良い事なんて待っていない。死にものぐるいで人生を歩むほどに、この世界に意味と価値はあるのだろうか。無いと思う。
「……楽しかったさ。中学時代は最高だったよ。高校生に比べると悩みが少ないし、世の中の汚さも知り始めたばかりだ」
「うん。そうだよね。私もそう思う。だから、ずーっとここで生きればいいんだよ夢の中で、楽しい事だけしていればいいんだよ!」
俺は頭の中で、今自分は夢を見ているとわかっている。夢を見ながら夢だと気づくのはかなり珍しい事だと思う。だからこそ、俺は頷いた。
「それがいいや。人生なんてやってらんねーよ! この夢の中で俺は過ごすんだ」
「そうそう! 夢の世界は楽しいよ」
伊緒間は、遠い国にあるとでも大きな氷山にでも流れていそうな小川くらいに純粋な笑顔でそう言った。この女の子の笑顔に嘘なんてない。汚れも何もない。ただ、純粋に真っ白な笑顔を俺に向けてくれている。
現実の女なんて、何を考えているかわかったもんじゃない。男に笑顔を振りまきながらも心の中ではあしらっているだけかもしれないし、笑顔一つだけでも色々な意味を含めていそうだ。
人の表情なんて信用出来ない。でも、夢では信用してもいい。人を簡単に信じていいなんて、想像を絶するほどに楽で気持ちのいいことだ。夢の世界は素晴らしい。俺が伊緒間に嘘をつかれたくないと思えば、伊緒間は俺に嘘をつかない。夢とはそういうものだ。
「ところで、君は誰なんだ。俺の過去で知り合ったっけ?」
俺がそう聞くと、伊緒間はしばらく考え込んだ後、小さく首を横に振った。
「本格的に出会ったのは今が始めて」
「どういう事だ? 夢ってだいたい自分の知り合いとか、出会った事のある人間が出てくるもんじゃないのか? 親とか兄弟とか友達とかさ」
「そうだよ。でも貴方の出会った事のある人間という解釈が少しおかしいかな。ねぇ鹿取君。貴方は当然スーパーとかデパートに行ったことあるわよね」
「え? そりゃあ、あるけど」
「例えば……。札幌駅。北海道最大の都市だけあって、人の数はハンパじゃないよね。住んでいる人間もそうだけど、外国人の観光客も多いわ。そんな札幌駅にあるデパートの中を適当に三十分歩くだけで、貴方はいったい何人の人間とすれ違う事になるのかしら?」
想像してみる。呆れるくらいに広くてでかいアパートを、俺は休日一人で歩いている。可愛い女の子、イケメン、不良、地味なやつ、外国人、おばあさん、色々な人を見かける。でも、どれだけ見とれてしまう可愛い子がいたとしても、すれ違うだけの人間の顔なんてすぐに忘れてしまう。ていうか、通行人なんか覚えているわけがない。それで何人の人間とすれ違うなんて、わかるわけがない。
「わからないよ。とにかく、莫大な数だろう。通行人の顔なんて覚えられないんだから、数はもっと覚えられないや」
「うん。でもそれは、あくまで人の表面的な脳みそでの話なんだよ。例えば、鹿取君が超可愛い女の子とすれ違ったとするわね。鹿取君はその子の事を可愛いと思っても、いつかは忘れてしまう。でも、脳みその奥底にはきちんとその女の子が記憶されている時がある。だから、夢を見ている時たまーに見た事のない人間が出てくるときがあるんだ。夢では、自分が忘れてしまっていることでさえ思い出されるんだ」
「そうなんだ。夢ってすげぇな」
「うん。夢は良い。だって、現実世界なんて最悪じゃない? 世の中金と顔が全て。人はお金が無いと生きていけない。人は人をまず顔で判断する。カッコ良い人と可愛い子は無条件でモテる。仕事の面接だって、顔で判断される時もあるからね。特に接客業とか」
そうだ。伊緒間の言うとおりだ。俺は、金と顔が全てであり、そういうものが生きる上でとても大事だという事に疲れ切っている。生きるためには金が必要。まっとうに生きたかったら金を稼げ。何かを食べたいなら金を使え。病気を治したかったら金を払え。
カッコいいか可愛いかで、人の態度だって急変する。それは自分だってそうだ。相手が可愛い女の子だったらやっぱり緊張するし、優しく接する。
なんだか、俺はそういうのに疲れちゃったんだ。金を中心に生き、顔で判断される世の中。そのためにせっせと働き少しでも他人よりマシな人生を送ろうと汗を流す。生きる目標も意味も何もないのに、経済危機の中で就職活動をしなきゃいけない。何が楽しくて高校生対大学生対ニート対フリーター対失業者との就職活動を繰り広げないとダメなんだ。
人生の全ての仕組みにうんざりしている。大きな仕組みも、とてもとても小さな仕組みも、うっとうしく思える。何もかもが嫌だ。今の俺は何も受け入れることは出来そうにない。まぁ、そう思ってしまうくらい嫌な事があったんだが。
「伊緒間は、俺とどこかですれ違ったことがあるのかなぁ」
「うん。じゃなかったら、貴方の夢に出られる訳はない」
「だよね。……伊緒間も、よく夢を見るのか?」
俺がそう聞くと、伊緒間は少し困った顔をしたが、すぐに笑顔になって言った。
「うん、まぁね。夢はとても楽なんだ。誰も自分を否定しないし、自分は周りのものを全て肯定出来るの。だって、自分が否定したくなるものは現れない。現れても、消せがいい。ここでは空を飛べるし、もの凄いスピードで走ることも出来る。自分のやりたいように出来る。夢では自分のやりたいように出来る」
「そりゃ、まさに天国だ」
「そうだよ。夢は天国。人は誰でも天国に行きたいと思うよね。そりゃあ、もしも死後の世界があるとしたら、死んだ後くらい幸せな所で暮したいもんね」
伊緒間はニコニコ笑いながら話続ける。面白い子だな。夢の世界ではこんなに可愛い女の子と初対面にもかかわらず楽しくお話を出来る。現実の俺は、好きな女の子に振られたモテない男。
「ねぇ鹿取君。せっかく夢の世界にいるんだから、色々と周りを見てきてみたら?」
「そうだな。でも、もう少し君と話していたいな」
「後で沢山話してあげるよ。それとね、一つ提案があるんだ」
「何?」
伊緒間は始めて真面目な顔になった。急に改まり、俺の目を強い眼差しで見てくる。
「鹿取君は、現実世界でずっと生きていたい? それとも、ずっと夢の世界で生きていたい?」
「そりゃ、夢の中でずっと生きていたいよ。夢は良い。嫌な事が何も無い。自分の望みは全て叶う。俺が空を飛びたいと思えば空を飛べる。欲しい物はお金がなくても出てくる。自分の嫌な過去を引きずる必要もない」
伊緒間は頷きながら言った。
「忘れられない辛い過去があるのなら、それをリセット出来る。無かった事にしてもいいし、夢でやりなおしてもいい。いや、やり直す必要なんて無いんだよ。もしも貴方を裏切った人がいたとしても、夢では裏切った事も裏切られたことも無かった事になり、普通の友達としている事だって出来る。辛い事なんてしなくていい。嫌な事からは逃げてもいい。本当はね、嫌な事は何でもかんでも見て見ぬ振りしてもいいんだよ。逃げていいんだよ。だって、自分の意志とは関係無く勝手に生まれてきて、楽しい事よりも嫌な事の方が多い現実を生きるなんておかしいじゃない。夢の世界では何をしてもいい。本能のまま過ごして良い。自分のあるがままに生きてて良い。仮面を被る必要もない。自分という存在と本質全てをさらけ出して生きる事が出来るの。夢では自分の存在をしっかりと持って生きる事が出来る。でも現実世界では自分の本質を保って生きる事は出来ない」
そうだ。そうだよ伊緒間。現実世界では、自分という存在を隠していかなきゃダメなんだ。頑張って面白い事を言って楽しい奴と思われないと友達が出来ない。嫌な事を言われても笑って流さないと、空気読めない奴とか逆ギレする奴とか言われてしまうんだ。自分が頑張って交流しようとしたりしても、皆にしらけられる事だってあるんだ。現実は、必死に頑張って生きる場所だ。でも、それは自分をしっかりとさらけだして、裸の気持ちで生きる事を言う訳じゃない。沢山服を着て仮面を被り自分をごまかさなきゃならない。
現実はおかしいんだ。どうして人として生きるために、自分という世界に一人しか存在しない概念をごまかし、隠しながら生きていかなければならないのだ。それは人として間違っているが人として生きる上では正しい。俺は、そういうのに疲れた。
「鹿取君、選んで良いんだよ。夢の世界で一生を過ごすか、現実世界で一生を過ごすか」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。なんでそんな事を聞くんだよ」
伊緒間は髪をかきあげて笑うと言った。
「鹿取君、最近よく夢を見るでしょう」
頷く。
「それはね、貴方の人生が満たされていないから。理想と現実の差に戸惑っているから。現実を捨てたいと思っているから。そういう気持ちがとても強いから私が貴方の夢に出てきたの。そして、私には一つの役目がある。貴方を一生夢で過ごさせるか、現実で生かすのか。どちらかを選んでもらうの」
「……具体的に、夢でずっと生きる事は、どういう事になるんだ?」
「夢の世界で一生を過ごすと貴方が決めた瞬間、現実世界の貴方の体は死ぬ。まぁ、心臓が止まっちゃうのね。でも心は死なない。ちゃんとこの夢の世界で生き続けるし、夢の世界だけに存在する架空の貴方の体でちゃんと生きられる。もちろん、歳はとらないわ。一生若い体のまま、子供のまま、過ごせるわ。脂っこい中年になることも、しわだらけのおじいさんになることもない。髪だってハゲないよ」
ピーターパンみたいだな。
「現実で生きると決めたのなら、今見ている夢の記憶は消去されて無かった事になる。でも、夢で生きると決めたら、現実世界を無かった事にして夢を現実として見ることが出来るわ」
俺の心が大きく揺れてきた。夢を現実に出来るのなら、そうしたい。でもさすがに、現実を簡単に捨てる気にもならない。いや、その前に言う事がある。
「そんな事が出来るのか。いくら夢とは言え、夢を一生見続ける事は出来ない。人は死ぬまで眠ることは出来ないんだぜ」
「眠らないわ。死ぬんだもん」
「そう言ってもよぉ……」
「信じなくても良い。ただ、決めてほしい」
夢で生きるのは楽だ。しかし、それは現実を捨てる事になる。現実世界で俺は死んでしまう。ただ夢という妄想の世界と妄想の魂と体で生き続ける事になる。そうなると、そもそも俺は現実世界で死んでしまっているのだから、人としての存在概念が消えたことになる。
いくら夢で生きているとは言え、結局の所俺は死んだことになるから意味がないようにも思える。矛盾している。いや、矛盾とは言わないのか? よくわからない。
しかし、現実で生きる事はしたくない。何もうまくいかない。バイトは全然慣れなくて止めるハメになる。好きな人にふられる。思い描いていた楽しい学校生活は、ガラの悪い学校のせいで消失。バラ色の学校生活とか良く言うが、俺はどす黒い学校生活だ。家は貧乏で大学には行けない。頭も悪い。運動神経悪い。特技は無い。
人として現実で生きるのは辛い。それなら、人としての人生を終わらせて妄想の中で生きても良いかもしれない。現実で夢を叶えるなんて無理だ。頑張れば報われるなんて綺麗事。
でも、夢では叶えたい物はなんでも叶えられる。逃げたいと思う事すら無い。人としての心と体を失っても、ぽっかりと開いていた心の穴が埋まるのなら、死んで夢という架空の世界をさまようだけになっても、俺の人としての心は満たされることになるんじゃないか?
……やっぱり矛盾だな。現実で死んだらそこで人生終了。それ以上でも以下でもない。そのかわり、全てが妄想の中で生きる。その事に意味と価値というものは無いだろうが、俺の魂は清い気持ちで満たされる。それは、結局の所欠落していた心の回復と言うべきじゃないだろうか?
どちらが正しいのだろうか。人として生きるか、人を辞めて妄想の中で生きるのか。
「よーく考えてみな。人としての本質を捨ててただ心を埋める事に自分の存在理由と幸せを感じるのか、綺麗事が通用しないのに綺麗事を受け入れるしかない現実世界で確かに人として生きるのか。それを見極めてみなよ」
俺は小さく頷くと、ゆっくりと体を宙に浮かせた。そして窓をすり抜けて外に出た。
外をふらふら歩いていると、突然場面が街から飲食店に変った。夢とはなかなかとうとつなものだ。
この店は以前俺が働いていた飲食店だ。ホールをやっていたのだが、どうも不器用で物覚えが悪くて店長にとても嫌われてしまい、店に居続ける事を止めてしまった。
気づくと俺は制服を着てメニューを運んでいた。驚くことに、テキパキと言われた通りのメニューをさっさと客に運んでいく。小さい店だが席は多く、客が楽しそうに料理を食べている。
ファミリーレストランなので家族連れが多く、子供がぎゃあぎゃあとうるさい。そんな店内で、料理をちゃんと運んでいく俺。ミスなんてしない。俺を嫌っていた店長は笑顔で褒めてくれる。
素晴らしい。最高だ。夢の中で自分は不器用な人間ではなく器用な人間で、店長に褒められている高校生だ。現実とは真逆である。
そう思ったら、次は高校の教室にいた。しかし、誰もいない。俺一人がぽつんと椅子に座っている。どうしたものかと思っていると、突然一人の男が教室に入ってきた。
その瞬間俺はぎょっとした。そいつは草野という男で俺とかなり仲の良かった奴なんだが、俺が好意を持っていた女を口説いて付き合ってしまった。その女の子はどうやら俺の事を好きだったらしいが、このクソ男が俺の悪口を流しやがったのだ。あいつは全部知っていた。俺とその女の子が両思いなのを知っていて、あえて、わざとあの女を口説いたんだ。
「鹿取じゃねぇか。こんな所で何してるんだ」
「……別に」
「別にって。水島さんが呼んでるぜ」
水島愛理。俺が好きだった女の子。俺を好きだった女の子。草野が口説いた女。
「お前さぁ、もう少し水島さんの事構ってやれよ。お前に興味持ってるんだから」
「え? あ、あぁ!」
そうだ。ここは夢の世界なんだ。俺の辛い過去は無かった事になっている。思い通りの生活を送ることが出来る。水島は俺の事が好きで恋人がいない。草野は俺にひどい事していない。普通に友達としてやっている。
「ま、今度暇な時は一緒にゲーセンでも行こうや」
「あぁ。わかってる。……お前も彼女作れよ」
草野は苦笑いしながら言った。
「うるせぇな。わかってるよ」
俺が教室を出ると、そこには水島愛理がいた。ボブカットヘアー。童顔。くりくりした目。顔の横に出来たにきびを横の髪でなんとか隠してる。髪を伸ばしている途中で後ろ髪がボブヘアーなのにちょっと長い。癖毛はヘアーアイロンでごまかしている。
「あ、鹿取君。ちょっと来るの遅いよ」
ちょいとハスキーボイスで、水島の声を聞いているとこれこそ黄色い声なのかなぁと思ってしまう。
「悪い悪い。えーと。なんか用?」
「うん。あのさ、一緒に帰りたいなって」
俺は、草野と付き合っている水島に告白したが、その時既に水島の心は草野に奪われていた。時は遅かった。巻き戻しでもしない限り俺の大切な高校時代は戻ってこない。貴重な恋愛を奪われる気持ちは誰にも理解されたくもない。
振られた後、水島は俺と学校の廊下ですれ違うとわざとらしく目を反らした。裏で俺の悪口も言った。勝手に俺の事を誤解して色々と噂もばらまいた。それでも水島の事は嫌いにならなかった。
そんな水島が、俺を見て笑っている。一緒に帰ろうと言ってくれている。嬉しい。とても嬉しい。
現実なんてクソだ。現実の水島は俺と会話することなんて絶対にない。むしろ悪口を言うし目も合わせてくれない。でも……。
「あぁ、一緒に帰ろう」
夢の世界では、デートが出来る。
デートが終わると、俺は中学時代の教室へ戻った。伊緒間は椅子に座って本を読んでいた。
「何読んでるの?」
「青春小説」
「俺も好きだよ。青春小説。読む度に羨ましくなる。こんな青春してみたいなぁって」
「そうだよね。架空の世界は最高だよね。なんたって、綺麗事がまかり通る。綺麗事を突き通す事が出来る」
「そうそう」
俺と伊緒間は二人同時に笑い出した。屈託のない笑み。
「で、どうだった?」
「楽しかった。幸せだった。それに尽きる」
「それにしては、結構早く帰ってきたけど?」
「少しの時間で十分さ。俺はもう決めた」
伊緒間は本を閉じると、濁りのない透き通った瞳で見つめてきた。
「じゃあ、聞かせてもらおうかな」
「俺は……」
唾を飲み込んで、ゆっくりと言った。
「夢の世界で生きる」
その瞬間、伊緒間は目を見開き、「えっ」と呟いた。ツチノコでも見たかのような驚いた表情をしている。
「本当に良いの? 鹿取君、死んじゃうんだよ?」
「それでいい。人として死んでしまい人生が終わろうとも、俺は夢の世界で生きる事で自分の存在理由をしっかりと持てるんだ。現実の俺が生きているとか死んでいるとか、そんなのどうでもいい。ただ、楽しい夢の世界で生きていたいだけだ」
「妄想の世界での生活を、現実だと思い込むって事?」
「そうだな。そうだよ。妄想という夢の世界を現実として俺は架空の魂と体で生きる」
「嘘の世界とも言えるんだよ」
「本当とか嘘でも、何でもいい」
「わかった。そこまで言うのなら、何も言わない。現実世界での可能性も全て捨てるのね?」
「可能性っていう言葉は、嫌いなんでね。俺は夢の中で生きるよ」
俺がそう言うと、伊緒間がゆっくりと薄くなっていった。それと同時に目の前が白い光に包まれて、気づけば伊緒間は目の前からいなくなり、完全に視界は真っ白になった。
何日経ったのかわからない。何ヶ月経ったかも知れない。夢の世界では時間の感覚が失われる。だから今日から日記を書くことにした。楽しい出来事を文章に残しておくんだ。
今日は、面白い奴が沢山いる学校の友達皆で遊んだ。嫌な事は何もなかったけど、なんか楽しくない。夢の世界では特にする事がない。世の中全ての出来事を自分で決められるし、欲しいと思う物は想像すれば目の前に現れるから、動く必要がない。
でも、困った事がある。新しいゲームが欲しいと思ったのだが、俺は新しいゲームなんて知らない。夢の世界に会社なんて想像しない。自分で妄想して作り上げても、自分で考えたゲームしかプレイ出来ない。どうやら俺にクリエイターの素質は無いらしい。
好きな小説家の小説も読めなくなってしまった。音楽も聴けなくなった。
そして何より、水島に飽きてきた。自分の思い通りの事しか言わない。一時の夢なら良いかもしれないが、夢の中の理想通りの水島はすぐに飽きてしまった。新しい彼女が欲しいけど、夢の世界じゃ新しい人間との出会いというのは難しい。現実じゃないから、本質的な恋愛が出来ない。
伊緒間とは一度も会っていない。どこに行ったのだろうか。あいつも夢の世界のどこかで楽しく過ごしているのだろうか。
なぁ伊緒間。こんな夢の世界でも、一つ納得のいかない事があるんだよ。
ぬくもりが、無い。
読んでくれた方、ありがとうございました。