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フライミートゥーザムーン

頭の中は期待と煩悶の間で揺れていた。

だがこれから死地へと向かう身で、舞い込んだラッキースケべに贖える情熱は存在しなかった。

本来であれば双方の意見を弁証法でアウフヘーベンすべきだが、理性の一方的な虐殺で決着を見る。


夫人には遠慮がちに伝えたが、むしろもう気持ちは前傾姿勢である。

救いようのない勘違いというリスクも考慮して、自分の鼻息は悟られないようにすることがエチケットであると心に誓った。(自分の冷静さを褒めてほしい)


別邸に付きそうことを承諾すると、夫人は良かったと破顔して体を寄せてきた。

すでに満身創痍であった理性が後頭部を鈍器で殴られたような感覚に襲われたが、下唇を噛むことで耐えた。

少し血の味がした。


別邸までは馬車で移動した。

本邸からでる際に誰かに見られていないか、胸の高鳴りを禁じ得なかった。

外のぬるい風が背徳感を刺激する。


別邸に着くとラウンジに通された。

夫人は普段はこちら(マナーハウスと呼んでいた)に住んでいるらしい。

部屋を見回していると、夫人はお酒を手にして戻ってきた。

口に含むと苦味が少し走る、不思議な味がした。


「今、王都ではぶどう酒にフルギルを入れて飲むのが流行です」


田舎者である少佐からすれば、曖昧に頷くしかなかった。

もう一杯口に含み


「味はともかく、長靴いっぱいで飲みたいですね」と、元ネタを知らない人に言っても伝わらないセリフを吐いてしまったことで、「そうですよね。食べる時間もなかったでしょうから、なにか用意させますね」と変な気を使わせて自己嫌悪に陥ったりしていた。


フルギル入りのぶどう酒とやらを飲みながら、夫人の話に相槌を打っていった。

(話の大半は知らない貴族の醜聞だった)

なるべく夫人の胸元には目が行かないようにしていたが、あまり自信はなかった。

話の途中に何度も夫人が膝に手を置いたりするので、しぶとくしがみついていた理性は何度も血反吐を吐いていた。


体から気だるさを感じた。

上がったり、下がったりしている自分の血の流れを感じる。

皮膚から泡が出て何度も膨らんで弾けている。

頭の中でレコードの最内周を繰り返し回る音が鳴っていた。


「つまり資本家が労働者を搾取している構図、つまりブルジュワとプロレタリアートというこの世界にも共通する流れの中で、労働者革命が起きて自由主義経済への移行を指を加えて黙っているわけにはいかないのです」


「なんですか?」


「この生活をしているとタコ部屋のようなアジトで、豚の脂身だけが浮いている煮込みうどんをすすって喜んでいたことを忘れそうになります」


「なんですか?」


「あなたを見ているとフクシマくんを思い出します。いつも眉間に皺を寄せて世界になじまないって顔して、格好つけていたあの人に」


「ふへ?」


「何度いのちが巡っても/あのひとの手はなお赤い/私は覚えているだろう/一本の藁のように/我々が息絶える時/いつかしのばせた夢がその証左だと」


「かっ…っぺ」


いまや世界は反転する重力の中でもがく蟻塚であった。

点描画で書かれた砂嵐が画面を揺らした。

デュポンの火で揺れる光を頼りにアラジンは空飛ぶ絨毯でバドルウルバドゥールの部屋へと忍ぶ。

アケメネス朝ペルシアはアレキサンドロスに蹂躙されていく。


「残酷な世界や」


あたまの中のおじさんが言った。


「救いがあらへん」


おじさんは小刻みに首を振った。


「願っては打ちのめされ、希望をもった側から崩されるんや」


「あなたは誰ですか?」


「わいか?わいは他者や」


そこで場面は暗転した。


次に私は空を飛ぶ燕であった。

王子像から輝くサファイヤの目玉をもらっておつかいに行くところであった。

燕は本当はエジプトに行きたかった。友人たちはみなナイル川にそって飛び回ったり、蓮の花に話しかけたりしていたのだ。

でも涙もろい王子の銅像が、悲しんでいたのでしかたなく手伝いをすることになったのだ。

薪が買えなくて暖を取れない劇場の若者にサファイアを届けたり、持っていたマッチを溝に全ロスしたマッチ売りの少女にも届けたりした。

やがて季節はすぎ、雪がふり、人々は毛皮を着て歩くようになった。

燕は死期を悟って、王子像のくちびるにキスをする。

王子の足もとに落ちた燕を見て、どんなにみすぼらしい姿になっても自我を残していた王子の銅像は心臓が割れた。


「救いがあらへん」


あたまの中のおじさんの声がした。


急に下半身から雪崩が起きたような地滑りを感じた。

それは贖えない衝撃となって少佐を襲った。

いまや凶暴に膨張する自分の愚息は、檻から解き放たれた獣だった。

そのとき、自分は侯爵夫人と共にしていたことを思い出した。


ベットの海に横たわっていた。

彼女の匂いや、柔らかな吐息を思い出していた。

笑うたびに隠す仕草をしていたその口で、わたしのものを含んでくれているのだと思った。

起床とともに咥えられているという事象はハイファンタジーでしばしば語られるが、現実的で起こることはない人類が発明した創作だ。

今行われているそれは、全人類の到達すべき目標が達成されたことと同義である。

メロスが親友セリヌンティウスために走り続けて戻ってきたことに、処刑をしようとしていた王が感動して「俺も仲間に入れてくれ」と言い出す世界がやってきたのだ。


根本を押さえながら上下する手と、口の中で踊る繊細な音律は祝福に満ちていた。

すでに感覚は完璧に調和の取れた数式を導き出していた。

私のフィジカルは限界を迎え、グランドフィナーレを迎えるために軍楽隊は突撃ラッパを鳴らす直前であった。


「やあ」


目の前にフィッツジェラルド近衛師団長の顔があった。


「悔いは残したくないと思ってね」


思考が停止した。

3万年前から永久凍土に保存されている微生物のように、それは完全なる停止であった。


「大丈夫、男を知らない子を導くのもボクは上手いんだ」


動き出した視界に部屋の明かりを灯す燭台があった。

外からの月の光でカーテンが揺れていた。


フィッツジェラルド団長はなにか言葉を発していたが口に含んだそれで、うまく聞き取れなかった。

思考はゆっくりと回復してきたが、こだまのように後から追いついてくる。

しかしその間にも加虐的な技巧で世界は侵食されていった。

私は「違うんだ!」と叫んだ。

しかし残念ながらそれは言葉として外に出ては来なかった。

空気を震わせてもいなければ、部屋のどこにも反響した跡は見つけられなかった。


そして私は放課後にひとりで机にこすりつける女生徒のような悲鳴を小さくあげた。


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