枯葉 −1972年東京−
古本屋で一度は手放した中原中也の詩集を手に入れ、街を歩いた。
商店街を通りを歩く人の雑踏や、けばけばしい笑い声は、遠くから聞こえる管楽器のようだった。
吉祥寺駅を抜けて、井の頭恩賜公園に向かう。
秋が深まり、落ち葉は紅葉莚の絨毯となり、季節の中で一番の美しさを宿す。
昼間は家族連れが多く、子供たちが縦横無尽に走り回って枯葉をせっせと踏んでいた。
僕は公園内のステージ前にある石造のベンチに座り、本を開いた。
頭にはなにも入ってこない。何度も同じ字面の間を上から下へとなぞって追っているだけだ。
この時期になると彼女を思い出し、 どうしようもないほどの引力に贖えず、またここに足を運んでいる。
頭の中のひだが炎症を起こし、じくじくと疼いた。
1969年1月安田講堂陥落。僕の大学はそれ以前にバリ封を自主解除していたので、活動家としてはそこで終わっていた。
5月には三島由紀夫が東大の900番教室で全共闘と討論会を開くと聞きつけて、ツテを頼りに会場に潜らせてもらった。
アポロ11号が月面に着陸するのを、周りで熱狂する友人たちほど馴染めず
翌年、いまだ戦争は続いていたが「人類の進歩と調和」を謳う万博が開催され
11月に市ヶ谷の自衛隊駐屯地で三島が割腹自殺した。
短い期間で駆け抜けた時代の物語は、そうして一応の完結をみたと思っていた。
在学中に我々の闘争とはなんだったのか、僕は僕なりの総括をするために、私小説のようなものを書いた。
マイナー雑誌のささやかな新人賞を取り、学友からは小先生と揶揄して呼ばれるようになった。
彼女に再会したのは丁度その頃だ。
その時は授業をさぼって、井の頭公園の誰もいないテニスコートを眺めていた。
解体後の学友たちの多くは、官僚になるためや、商社に入るために
活動家としての仮面を見事に脱ぎ捨てて、サイモン&ガーファンクルを聞く様な人種に早変わりしていた。
僕はどうにもこうにも同じように、簡単に割り切れずにいたのか
力石徹の葬儀に参加して寺山修司の弔辞に涙したり、相変わらずウッドストックに出ていたアーティストを追いかけたりと
ようするに気持ちの上ではなにも総括出来ていなかった。
時代の潮目に感傷的になりながら、よく公園のベンチで中原中也的な詩を書いて、難しい顔をしていた。
とはいえ、あの時代は結構そういう人が多かったと思う。
変化というか、器用に馴染める人のが少なかったのだ。
「フクシマくん?」
声のする方へ、振り向くと彼女がいた。
黒のタートルネックのセーターにパンツルック、髪は短く揃えていて
顔に不釣り合いな大きな耳が目立っていた。
「ひさしぶり」
いくぶん緊張して、火をつけたばかりのセブンスターを靴の裏で消した。
彼女は、ちょっと時間ある?と聞きながら、隣に座った。
彼女に出会ったのは、新宿の国際反戦デーのデモだったような気がする。
互いにヘルメットを被りながら、友人の紹介で挨拶をし、その後も何度か顔を合わせる機会があった。
私は最初から彼女に好意を寄せていたが、彼女は他に活動家の彼氏がいたし、その後もなにも進展はしなかった。
「本を読ませてもらったの」
そう言って、耳の裏を手で掻いた。
「知っている人が有名になるのって、なんか不思議な感じね」
「誰も知らないような新人賞をもらっただけで、有名人になんてならないよ」
「でも、私たちはあなたの本を読んで勇気をもらっているの。自分たちの活動がこれからどう評価されようとも。そうね、あなたの言葉を借りるなら、それは”私は覚えているだろう/一本の藁のように/我々が息絶える時/いつかしのばせた夢がその証左だと”ってね」
僕は彼女の寒さで先が赤くなった耳を見ながら黙っていた。
「それでね。また一緒に活動できないかなって思ってたの。あなたのことを考えていたら、ベンチで眉間に皺を寄せている人を見かけて、もしかしたらって声を掛けたの」
彼女は、その次の言葉を繋げようとして、途中でそれを諦めてしまった。
しばらく辛抱強く待ってみたが、それがきっとやってくることはないだろうと感じられた。
おそらく、僕が言葉を返す番なのだが、正直なにを言えばいいのか分からなかった。
単純にその気はないと伝えればいいだけなのだが、彼女を傷つけずに伝える方法はどんなに頭を捻っても、中原中也的文法には適したものは無かった。
「まあ、それはね。どうだろうね」
我ながら、情けないほど気の利かない台詞をよく吐けたものだ。
それこそ彼らが好んで使っていた、自己批判すべきであり、総括をされるべき対象として吊し上げが必要だった。
僕の懊悩する惨めさに対して、彼女はあまり興味を示していなかったと思う。
彼女は別の世界、隣にいながら別の風景を見ているようだった。
永遠に続くと思われた沈黙の中で、中原中也的思考を諦め、どうにか次に繋げる言葉こそはサルトルのように示唆的で、ハイデガーのように刹那的なものをしなければと、なんとも場違いな考えを僕は巡らせていた。
「フクシマくんの家はここから近いの?」
「今日は自転車できたけど、比較的近いよ」
「今からご飯食べに行っていい?」
「ごはん?家になんて大したものなんてないよ。いせやでも行った方がまだマシなものが食べれる」
「公安に目をつけられているから、あまり人がいるところには行きたくないの。活動のためにいつも金欠だから、どれだけおなかが空いた状態なのか、わからないぐらいおなかが空いてる」
今振り返ってみても、僕の中のサルトルもハイデガーも仕事をしなかったことだけは確かだ。
アパートに行って、ごはんと納豆と味噌汁を出して一緒に食べた。
そのあとは当然の成り行きのようにセックスをした。
朝までに6回はした、と思う。
彼女の体はとても華奢だった。この体で非合法的活動をするという意味が、僕にはよく理解できなかった。
そのつつましやかな胸を、丹念に撫でた。
下着隙間から濡れている性器に触れて指を入れた。こんな時、爪をしっかりと切る習慣をもっていることに感謝した。少なくとも肝心の時に働かない哲学よりはよっぽど価値がある。
彼女の吐息に合わせて、深く指を入れていった。
彼女は強く反り立った僕の性器を触り、言った。
「苦しい?」
「とても苦しい」
「入れたい?」
「とても入れたい」
世の中にこれ以上に素晴らしい例題文があるだろうか?
異国の言葉を習得するのであれば、最初に習うべきは、この文法であるべきだった。
彼女の体は身体的に不釣り合いな箇所が二つあった。その大きな耳と、大きな面積をもつ陰毛だ。
そのアンバランスさが、僕の興奮をより強く、より深く欲情させた。
お互いの欠けているものを埋めるように、ターザンとジェーンのようにお互いを求めた。
「革命戦士の子を産みたいの」
何回目かの性行為の後で彼女は言った。
僕はそれにどう応えていいかわからず、彼女の陰毛を撫でる事で返した。
今ならわかるが、あの頃世界的に若者達が体制に反旗を翻していた。
アメリカ、フランス、ドイツ、メキシコ、ポーランド
日本は大学の自治やら学費の値上げに対して、授業をストライキし、バリ封して抗議したのに対し、海の向こうは銃撃戦だった。
僕とっての大学闘争とは、自己陶酔を否定し、自己欺瞞の解体をすることだった。
高圧的で矛盾に満ちた大学制度と、占領後の日本的思考を覆す叡智養うことだった。
ベトナムには否定的だったが、ベトナムに行くわけじゃなかった。
現政権を打倒したいわけでも、取って代わりたいわけでもなかった。
彼らの夢想につきあうのは、もうまっぴらだった。
彼女の陰毛を撫でながら、また指を下に移すと濡れ初めていた。
そしてまた何度目かのセックスをした。
頭がゆっくりと覚醒し、朝を迎えるころ、ベットの横には彼女はいなかった。
さよならの手紙も無かった。
部屋には彼女と過ごしていたという残滓はあったが、実感は湧かなかった。
諦めて今日は大学に行こうと思った。
彼女の居場所を探すのは困難だった。活動を続けていたのはわかるが、どのような組織に属しているかは知らなかった。
ツテを辿ればもしかするとわかるのかもしれないが、過激派の連中とはこれ以上付き合いたくはなかった。
また、なんと言って探せばいいのかも分からなかった。
革命戦士の女性と性行為をして、気になるから探しているんだと言ったところで
とても君は正直な人だねと褒めてもらえるとは思えなかった。
そうして1年ぐらい、やり場のない感情を持て余しながら時を過ごし、テレビから群馬県の山中でリンチによって総括された彼女の名前を聞くことになる。
彼女はお腹に子供を宿して死んでいた。