浮気はやめた
校舎の最奥にある教室に、黒板をチョークで叩くリズミカルな音が響く。
開けた窓から午後の風が、けだるさを連れて前髪を揺らす。
教壇に立ち、後ろ向きに黒板を向かう彼を見るのが好き。
跳ねた後ろ髪と、少し汚れたシャツの袖口、骨ばったその指が自分の恥部をなぞるのを想像する。
思弁歴史学講師として顔と、プライベートで甘えた声をだす、そのギャップの余韻の中で遊ぶ。
そして親友の婚約者を寝とっているという背徳感が私を高揚させている。
やがて黒板を埋めて、こちらに向き直った彼は頭を掻いて口を開いた。
ああ、いつも重そうな瞼が可愛いい。
「春学期は全10回の講座だ。カリキュラムとしては今記載した通り。思弁歴史学は歴史の理解、解釈において、想像や仮説を重視することで新たな歴史の側面を導きだすことを主眼としている。歴史観というのはその時の大きな声に誘導されやすい。これはもしかしたら、という可能性を掘り下げることで、見えていなかったものを見ようとする試みなんだ。自国のレガシーは特に客観性を持つことは難しい。ラルキア人であるというアイデンティティは、その複雑な経緯もあって、いつも対局の主義者達が争うデリケートな問題だ」
1 「イントロダクション」 歴史とはなにか、存在しなかった歴史とは
2 帝政が今も続いていたとしたら
3 軍事政権の可能性
4 左翼の台頭、社会主義国家、共産主義国家への道はありえたのか?
5 カーラ文書は存在したのか?それはなにが書かれたものだったのか?
6 革命前夜 それぞれの視点、観測について
7 思弁的方法序説
8 パラレル歴史観における現実世界へのフィードバックを考察する
9 分岐点の再演
10 「最終講義」 革命としての思弁、思弁としての革命
ノートに写すフリをしながら、彼を盗み見ていた。
級友達は彼が私の恥部に顔を埋める姿を知らない。イク時に小さな悲鳴のような声をあげることを知らない。情事のあとに煙草を咥えながら上裸でギターを弾く姿を知らない。
誰にも打ち明けられない優越が私をただれさせる。
「革命期この国は当然ながら多くの問題を抱えていた。それは歪な世界を構築していた神話が崩壊したことに他ならない。その兆候は多く現れていたが、もっとも大きく影響を与えた存在として、というより口火を切ったのは、みんなも大好き征夷の勇者だ。まあ、彼を現代にまでたらしめているものは、戯曲に小説、講談に映画、ゲームキャラクターまで、なんなら本当は女性だったんじゃないかと説も出てきて、もう原型すら留めていない、金髪碧眼の女体化にデフォルメされたものまである。このように、その人物像は全て創作物からきている。彼は本当に英雄たりえたのかは分からない。確かに軍がクーデターを起こそうとしていた、というのは当時の状況証拠としても揃っている。おそらくその可能性は高かったと思う。ただそれは世界を後から俯瞰した場合に知っているということであって、その当時は同所属であった征夷の勇者が反旗を翻す理由がやはり分からない。だから補完するために各々がそうあって欲しい彼を想像していく。そうして出来上がったのが憂国の志士であり、革命期の詩人であり、女にも男にもだらしなく、情に脆く、信義に厚く、気っ風がよく、持病に苦しみながら、本懐を遂げるまえにその生を終えることで一種のヒロイズムの象徴のような存在になってしまった。この講義は彼がいた世界線と彼がいなかった世界線を行き来しながら、ありし日のその可能性を横に見ながら隠れた歴史の深淵に触れていきたいと考えている。ではプリントを配るので後ろに回してくれ」
彼の唇の動きを見ていたから、話はまったく頭に入ってこない。彼の講義を取得している時、私はいつも落第者だ。
思弁歴史学を学んだところで社会に出た時に役に立つとは思えないけども、同じぐらい未来のない恋にのめり込むことの生産性の無さは言われなくても自覚している。
理屈で分かっていても、理屈にならないことをしてしまうのは、人類種の歴史を見れば分かる。その一点の意味においてのみ歴史を知る価値はあると思う。
「ねえ、彼、今日ちょっと様子が変じゃない?」
「そう?いつもどおりじゃない?」
「長く一緒にいるからねえ、やましいことがある時、嘘をついている時、なにか隠し事をする時とか昔からそう言う時の癖って気づいちゃうんだよね」
急激にアクセルを吹かした心音が口から漏れそうだった。
幼馴染婚約者マウントに打ちのめされる余裕すら無かった。
硬直した頬周りに精一杯の引き攣った笑いが張り付いている。
「そこ、私語は慎むように。皆プリントは渡ったかな?主観が体制側、反体制側になるかで歴史の差分は変わってくる。二項対立なんてバイアスは御伽話でしか存在しない。その時の立場の違いでしかないんだ。恋愛に置き換えて考えてみてくれ、夢を追いたい男、定職について欲しい彼女、そこに明確な正義なんてないだろう?どちらが友人であるかで助言も共感も変わってくる。主語が大きい方の意見を通すと、軋轢が生まれる。溝が出来る。関係性の中で許容するか、不満を貯めるか、いずれにしても平和的解決など未来永劫見ることはない。唯一それを回避出来るとしたらそれは信仰だ。無性の愛は神格化された対象のみに発揮される。現代の我々に置き換えるなら単推しと言ってもいいだろう。勿論それは偶像であれば一度崩れると振り幅は大きいけどね」
私の隣に座る彼女は身を寄せてきて、小さく囁く
「がんばって若者に無理して寄せて喋ろうとするの、なんかウケるよね」
風に揺られる彼女の横顔を見ながら私は少しも笑うことが出来なかった。
◇
彼の研究室で乱暴に私は服を脱がされる。
本来なら彼が発情している状況だけで興奮できるのだが、今はその気になれなかった。
「やめてっ」
彼はいつもの場を盛り上げる演出だったと思ったのか、「そんなこと言って、もう我慢出来ないんだろう?」と嬉々として力を強めてきた。いや違うんだけどな。
やっと話ができたのは彼がパンツのジッパーを上げる時だった。
「ねえ彼女、もしかすると気づいているんかもしれない」
「え?なんでそう思うの」
「わからない。なんかそんな気がする」
「考えすぎじゃないかな、今日もいつも通り家に起こしに来てくれたぜ」
きっと男と女じゃ脳が違うんだよと言っても分からないんだろう。
女は笑いながら心で泣くことができるし、隣で愛してるって顔をしながら珈琲に微量の毒を盛ることだってできる、なんならそのあと友人とアフタヌーンティーに出かけて、計画犯罪とお菓子を一緒に共有だってできる生き物なんだよ。
「征夷の勇者の逸話にそんな話もあったよな。最初の女、ステラに浮気がバレたかもしれないと訝しんだ彼は、遠回しに確認を試みた。こんな話があると彼は彼女に告げる。あるところに旅人がいたんだ。この旅人のコートを脱がそうじゃないかと北風と太陽は考えた。なんで?彼女は問いかける。なんでかは分からないけど、そう思ったんだ、と彼は言う。北風と太陽はなぜ一人称になるの?彼女はまた問いかける。これはそういう話なんだ。と少しムッとしながら彼は答える。ねえ最後まで聞いてもいいけど、それが浮気をしたこととなんか関係があるの?と彼女は告げる。これは今では勇者の北風と太陽の話という諺になっている。このお話の教訓は……」
放課後の校舎に響く吹奏楽部の演奏と、運動部の掛け声が重なり合う。
この景色を大人になっても覚えていられるのだろうか?
きっと永遠に続くと思っていたものは、永遠には続かないことを知る時がくる。
私は欲してしまった。
雨の日に一つの傘を、肩を寄せて分け合う二人の後ろを歩きながら、こんなにも近くにいながら、どこまでも遠くに二人を感じていた。
だから、きっとだからそう。
本当に欲しかったのは彼だったのか、彼女だったのかは今はもう分からない。
影が伸びていく。
生徒達の笑い声は遠く、遠くに離れていく。
風に揺られたカーテンの奥に立つ彼女の顔は三日月が浮いているようだった。




