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虹の彼方に −1966年哈爾賓(ハルビン)−

「旧思想を打破せよ!」

「反動的な仏教は打倒されねばならない!」

「毛主席の教えに従え!」


怒号が秋天の空に飛んでいた。

10代の若き紅衛兵たちは、寺院へと雪崩れ込み、それぞれ斧や棒を振り回しながら、仏像を破却し、毛沢東の教えに反するものはすべて無価値だという教義に準じて経典を集め火に焚べた。

経典の炎は、前の世界で古の魔術師が使用したスクロールのように新たな術式を解したりはしない。どこまでいっても燃えるカビくさい古紙と、そして空に登る黒い煙のままである。


5月に「プロレタリア文化大革命」の旗が掲げられてからこの国は、混乱と恐怖に包まれている。「四旧」(旧思想、旧文化、旧風俗、旧習慣)を打破し「四新を創造」することを目指し、資本主義の道を歩む実権派を叩き潰すことを新たな革命と毛主席は位置付けた。

(ようは暗に自分に異を唱えた反動的ブルジョア司令部の劉少奇・鄧小平を追い出せということだ)

毛主席の意を得た紅衛兵は「造反有利、革命無罪」を唱え、市や各種団体で権力をふるっていた人物を実権派、資本主義に走った商人などを走資派、古い儒教思想を教える学者や仏教寺院の僧侶を守旧派として批判集会に引っ張り出し、自己批判を迫って断罪した。


そして今ここでは寺院の門前にひきずりだされた僧侶たちが手を後ろに縛られ、頭に三角帽を乗せられ、首から「仏典などデタラメだ」というカードをぶら下げられている。

ひきずられている僧侶たちの横に立つ若い僧侶は、自分だけが人民服と纏い、同僚に向けて下卑た笑いを見せている。


こういう手合いは前生でもよくいたな。

貧しい農村出身の若者が革命の気運に当てられて、彼のなかだけでは自身の行為は裏切りではなく善性にすり替わっているのだ。

本当の悪意とはゼロから生まれるのではなく、己の正義を信じる弱い人間の心に宿る。


だいたい革命という言葉を口にする者にろくな奴はいない。


もともとこの国は非常に高度な官僚機構が発達していたのだ。

トップがどんなに暗君でポンコツだろうが、国を支える官僚が機能していれば大きく崩れるようなことにはならない。

(もちろん例外はいつもあって、それでも国を傾けるボンクラも出現する)

党内部の権力闘争のために始まったこの運動は、エリートを全て否定し主要機関からも追い出してしまった。

革命と初恋は同じようなもので、共に甘い響きを持ちながら人に盲信させるだけの力がある。

そして浪漫に走った感情が万が一成就されてしまうと、だいたいにおいて不幸が待っている。


この世界の歴史を紐解いてみても、守旧を打倒して出来た新たな政権というのは新たな独裁を産むように出来ている。どこかで人民は、自身の現状を打破してくれる強い英雄に支配されたがっているからだ。

そして英雄は人民の不満を感じ取れる才がある。巧みに不安を煽り、共通の敵を作って連帯感を生み出すことができる。アジテーションはもっとも英雄を英雄たらしめる資質だ。

毛沢東というアイコンのヒューマンカルトと成り果て全体主義を突き進むこの国は、先人が積み上げてきた歴史を根こそぎ清算させようとしている。温故知新を唱えた孔子の子孫たちとは思えない愚行だ。


このような悲劇を生まないように、前生での私は沈みゆく国家を防ぐべく穴が空いた船底を必死で塞いできた。

利用できるものはなんでもした。自分の息子さえ、それに捧げた。


前皇帝の毒死は明らかだった。皇位継承順位1位の皇太子殿下も追うようにまもなく死んだ。

宮廷内は蠢いた。誰もが疑心暗鬼になりヒステリックに叫んだ。

ぬめぬめとした殺意が肌に触れるような毎日だった。

私は暫くは不用意に動くことは避け、宮廷内の人物を「利用できる者」「利用するに値しない者」と「利用した後に切り捨てる者」の3つに分類した。

Aに対してBが怪しいと告げ、Bに対してはAが狙っていると流言を流し、Cに対し不安を煽りながら親身になって言葉を掛け、Dには猜疑心で気が触れるようにしむけた。Eの弱みを握り首を縦に振らせ、Fに罪を被せて断頭台へと送った。


宮廷内の掌握を済ませると、息子に皇位を継がせることを既成事実にした。

息子はまだ幼く吃音を持って生まれてきたが、国家の舵取りは自分が責を負うのだと、最初に手を汚した時から固く誓っていた。

多くの屍の上に立つ玉座だった。たとえ有能でなくても暗君とならぬよう躾は特に戒めをもって当たった。

自分の息のかかった者に地方官の首をすげ替え、貴族にも税を設けて、スキャンダルには降爵、褫爵も辞さないようにした。場合によっては側近だった者の粛清も必要だった。

当然内部の反発も強かったが、主要ポストを自分の派閥で固めてからはなにも言わせなかった。

こちらの世界でも「冷酷という悪評など意に介してはならない」とマキャベリは言っている。


ふむ、なるほど。

なんだ、私もやってきたことは毛氏となにも変わらないではないか。

さすがに大躍進計画を打ち立てて、何千万の餓死者を出すほどロマンチストでないが、既得権益を犯される側からすれば蛇蝎のごとく死を願われてきたことだろう。

まあ毛主席は狂信者以外、ほぼ全ての人民の既得権益を犯しているわけだから、スケールが違いすぎて並べて比べるのもおこがましいが。


だからそう、これはきっと報いなのだ。


「智元上人!あなたは仏教の名の下に、反動的な思想を広め、この国を堕落させてきた!あなたは人民の敵だ!毛主席の教えに背き、過去にしがみついている!」


赤本を持つ紅衛兵を後ろ盾に、仲間を裏切った下僧の声が響くと周りの僧侶たちは体を固くさせた。


ったく唾を飛ばすなよ。語彙に知性も感じられない。おまえらは同じようなセリフしか吐けない病気なのか。

共産党が国民党に勝利して時代がすぐにキナ臭くなったときから、党幹部に知己を得てきたし、鼻薬も効かせていた。しかしどこか甘くみていた自分がいたのだろう。

鶴の一声で軍も党幹部も手出し出来ない紅衛兵というカードが突如現れた。

ひっくり返された盤面を見ながら、まさに人間万事塞翁が馬だなと思った。


「智元上人、あたなは労働改造所ラオガイ送りです」と下僧は体を寄せて囁いていきた。


お前さあ、仏に帰依する僧が嗜虐性を発揮して悦に入るなよ。

般若心経でも唱えて落ち着けよ。「色即是空、空即是色」色これすなわち空であり、空これすなわち色である。ひとの価値基準なんて意味なんて無いよ。物事は絶対的な存在ではないし、常に変化し相互依存している。執着を手放し、物事に実体があると信じる心を捨てることで、苦しみから解放されるんだって言っているじゃないか。

ぎやていぎやてい はらぎやてい はらそうぎやてい ぼうじそわか


「仏法は智慧を与えるものだ。それが人民のためになると信じてきた。ひとが真言のさらなる核心を求める限り、私は仏法を信じ続ける。あなたがたもいつかその真理を理解すると願っている」


毛主席の意思に反する守旧派め、態度が悪いと、散々なじられたあと、ベルトで頭を殴られた私は意識を失った。


彼らの言動に反応してしまう私もまた、智慧の修行が足りていないようだ。


—————————————————


そして私はまるで咎人のように、据えた臭いの立ちこむ列車にぎゅうぎゅう詰めに乗せられて労働改造所に送られた。


そこはさながら十八地獄。罪を犯した魂が前生の業に応じて罰を受ける場所。

朝は夜明け前に警報の音で強制的に起こされ、寒さの中で整列させられる。

朝食は栄養価の低い薄粥だけで急いで食べさせられ、すぐに過酷な労働へと追いやられる。

鉱山掘削などの重労働では疲労や飢餓で倒れる者が続出し、看守の容赦ない監視と暴力のもとで、休むことは当然許されない。

昼食も粗末で短い休憩時間があるが、常に監視の目が光り心身共に安らぐことはできない。

午後の労働はさらに苛酷で、囚人たちは体力の限界に追い込まれる。

日没まで労働は続き、その後も毛沢東語録を使用した思想教育や自己批判の時間があり、精神的な圧力も絶え間なく加えられた。

日が暮れた頃、疲労困憊した囚人たちは糞と小便桶の臭いの立ちこむ収容部屋に戻るが、寒さや病気で安眠できる者は少なく、次の日も同じような過酷な日々が続くのだ。


ひとつだけ解ったことがある。いくら苦行をおこなったところでひとは悟りなんて開かない。

労働改造所では地獄よりも地獄らしく、どんな苦行よりも苦行を与えられる苦界の中にいる。

外も阿保みたいな農業政策のせいで餓死者ばかり、飢饉ではなく、人災で人肉を食らう者も出てきていると聞き伝えられるが、なんの慰めにもなるまい。

苦行で悟りが開けるのなら、この世は仏陀だらけである。


釈迦は当時の流行に乗って修行僧に弟子入りして苦行をもって悟りを開こうとしたが、やってみてこれは駄目だと気づいた。(えらいぞ釈迦)

菩提樹の下で瞑想し、無我を悟り、釈迦は弟子たちに説法を行った。

そうして弟子たちが体系化したのが仏教だ。イエスもそうだが釈迦本人は宗教団体を作ってはいない。

教祖自ら宗教をつくるのは軒並みカルトである。この国の現在がまさにそうだ。

まあ国の場合は歴史を改変し、後付けの権威を付帯して神格化するので規模感がまるで違うがね。


そもそも釈迦の教えは哲学である。その哲学を「あーでもない、こーでもない」と派閥を作って別々の宗派が生まれる。

お経を読んで、悪霊退散をするものでもなければ、病も治らないし、死後の素晴らしい世界に導くものでもない。エスプリを効かせた教訓も、資産を築くノウハウも教えてはくれない。


本来お経とは哲人の考えをビートに乗せて読むことで、哲人が至った悟りを疑似体験してみようぜ。

肩を組んでビバ!ラブ&ピースでよろしく、自己と世界の同一化を感じ取ろうぜブラザーと言っているに過ぎない。

にも関わらず世の仏僧は金を稼ぐ集団と化している。寄進される金額によって位が変わるのはどういう解釈なのか問いただしたいぐらいだ。

東洋にルターが現れなかったのは、キリスト教より面を取れなかったことと、宗派が無数にあるためだろう。

そう言った意味では浪漫を追い求める文化大革命としては、金に走った僧侶は許せなかったに違いない。


私を労働改造所へと送った下僧とは別問題だ。

私は彼に口うるさく説教をしていたし、疎ましく思っていたのだろう。

基本的に自分はどうしても馬鹿が許せないのだ。

仏僧が共産思想にかぶれるとはどういう了見だと、つい口をついてしまう。

まったく因果応報とはよく言ったものだ。


—————————————————


鉱山では今日もしのつく雨が降り注ぐ


「お、お、お女囚人は、ち、ち近くにさ、い、い、いないののかな」


同房の張は婦女暴行の罪で収監された男だ。哈爾賓でなら女郎屋も隠れて営業をしていたが、彼がいた山東省の片田舎では聞いたことすらないだろう。


「仮に近くにいたとして、ここではどうしようも出来ないではないか。遂げられないなら最初からいないものだと考えた方がよほど安らかにいられる」


「ぼ、ぼ、ぼ坊主はさ、が、が、がまん、がまんという、け、けども、我慢してい、生きていたって、い、い、良いことなんてないじゃないか」


まあ、真理だよな。


「お、お、俺はさ、ず、ずっと思い出しているよ。あの、お、お、女の股に顔を埋めた時のことを、さ、最初は嫌がっていたけどさ、な、何度か殴るとさ、そのうち、お、お、大人しくなったんだ」


なるほど、清々しいほどクソ野郎だな。

張はその時の女の肌着を袖口に縫い付けていると自慢げに語った。


荀子はその昔、人間はそもそもの存在が悪であるという「性悪説」を唱えた。

欲の塊が服を着て歩いているような存在をコントロールするために、ルールが必要だと言っている。

格差のない自由で平等な世界などどこにもない。転生しても無かったのだ。自信を持って保証する。

あるいは、それはきっとあると勘違いして出来上がったのが、春秋戦国時代よりも退化したグロテスクなこの国だ。



「おまえら!なに無駄口をたたいている!」


看守兵が銃を向けながら叫んだ。


「そ、その、し、し、仕事の段取りの、そ、そ相談でさぁ」


「おまえのような馬鹿に段取りもクソもないだろう!言われた通りに、手と足を動かすんだ!」


看守兵が銃床を振りかぶろうとして張が身を屈めると、彼らはニヤニヤと下品な顔を向けた。

これが理想を掲げて革命を起こした末の帰結であるなら、なんともやりきれない。


そしてそれはやってきた。

雨は静かな山間を蝕むように降り続けて冷たく鋭い音を立てながら土に染み込んでいた。雨粒はしぶきを上げ、次第に大地を浸し山肌を削り取る。水を含んだ土はその重みに耐えかね、細かなひび割れが無数に走り始める。あたりは雨音と共に濃密さを増していき、まるで山がじっと息を潜め、何かを待っているかのようだった。


木々は次第にざわめきを強め、不安げに葉を揺らし枝を軋ませている。長い年月をかけて根を張り巡らせた老木たちでさえ地面にすがりつくかのように、しなやかに揺れ、そしてうめき声を上げている。風が冷たく舞い上がり、緊張が張り詰める中、雲の奥底から地鳴りが低く響き、地面が震え出した。


地を裂くような低い轟音が足元を揺るがし、山肌がまるで溜め込んだ力を一気に解き放つように崩れ落ちた。粘りつく泥と土が怒涛のように流れ出し、斜面を一気に駆け下りる。谷へと向かうとするその奔流は、大地の怒りであり、愚かさに対する無慈悲であった。


土砂の奔流は渦を巻きながら、樹木を根こそぎ引き抜いていく。崩壊した山肌が、まるで滝のように流れ落ち、その中で木々は打ち砕かれ、折れ曲がり、幹はもろくも断ち切られ、濁流の中で激しく転がり回っている。命をもがれた木々や岩がぶつかり合い、泥のうねりに飲み込まれ、次々と姿を消していく。


谷間を越え、勢いを増した土砂はまるで巨大な蛇のようにのたうち、辺りの景色を飲み込んでいった。その視界に映るすべてが土砂の奔流に溶け込んでゆく。その激しい泥流が触れるものはすべて押し流され、瞬く間に濁流に取り込まれ、かつての形跡を完全に消し去っていく。

ただひたすらに流れ、すべてを覆い尽くしていった。まるで山そのものが魂を捨て、命の営みを終え、ただ無情な塊として崩れていくかのようだった。そして、辺りが深い静寂に包まれたとき、残されたのは、ただ静かに横たわる土の海。その場所にかつてあったものの面影は、もう一片さえ見つけられなかった。


鉱山入り口は土砂に飲み込まれていた。

私は土石流に出会った後、気を失い、気づいた時には全てが終わっていた。

地質や自然力学を無視して森林を伐採してきたツケを払わされたのだ。

過剰なノルマに追い込まれ、人の意見を聞けない体質は国全体を犯していた。

その時はそんな考えも、思いを巡らせることも寄らない。

ただ茫然と消えた世界を眺めていた。

分厚い雲から光が漏れ、虹が掛かっていた。

そして土の中から腕だけ出たそれを見つけた。

袖に縫い付けた肌着がほつれ、風にひらめいていた。


「なんだ、貴様も助かったのか」


後ろから話しかけてきたのは、先ほどの看守兵だった。


「まったく、誰がこれ責任取るんだよ」


彼は煙草に火をつけ、小便を土に埋まった手にかけた。


「このどさくさに紛れて逃亡するものがいないか、見に回らなきゃならんな。おい、貴様も変な考えを起こすんじゃないぞ」


気がついたら男をぶん殴っていた。

まったく、度し難い。

自分が馬鹿が嫌いなのは、馬鹿な自分に対する同族嫌悪だと今更気づくとはな。


「立てよ、クソ野郎」


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