ダイナミック防犯訓練
【登場人物】
富木秀郎(40)…主人公。宇央商事総務部新人。以前勤めていた会社を退職し、宇央商事へと転職してきた。出勤初日に会社のド派手な防犯訓練に巻き込まれることになる。
斧田信介(50)…宇央商事総務部部長。秀郎の上司。
日向明秀(43)…宇央商事総務部社員。
武口晴男(47)…宇央商事人事部部長。
上村景三(47)…宇央商事経理部部長。
真鍋昌喜(44)…宇央商事情報システム部部長。
北本貞雄(46)…宇央商事技術部部長。
毛利隆也(55)…宇央商事法務部部長。
島地貴弘(46)…宇央商事営業部部長。
ーーとある会社の防犯訓練の話…なのだが…
「初めまして。本日よりこの部署に配属になりました。富木と申します。」
富木秀郎は、自分の新たな上司に頭を下げた。秀郎は今年、以前勤めていた会社を退職し、新たにこの宇央商事へと転職した。
「こちらこそ初めまして。総務部長の斧田です。」
秀郎の新たな上司となる総務部長の斧田信介も、腰低そうに秀郎に頭を下げた。
温厚そうな上司を見て新たな職場での不安がどことなく解消されたような気がする秀郎。
「では富木さん、出勤初日で申し訳ありませんが、実は今日、会社全体で防犯訓練があるんです。」
「防犯訓練ですか?」
出勤初日で最初にやることが防犯訓練になるとはもちろん予想外だ。まあ、これもこの会社を知る良い経験となるだろう。
「でも、富木さんは今回は、とりあえず私についてくれば良いので安心してください。」
やっぱり良い上司だ。秀郎は無事に今日を終えられること、これからこの会社で平穏に働いていけるだろうことを確信した。
ーしかしそれは、儚くも崩れ去ることになる。
昼休みも終わり、午後の業務が始まろうとする時間に防犯訓練が始まると秀郎は伝えられている。秀郎は、いつくるかもわからないその始まりのために万全の精神で構えている。この会社での初仕事の一つにしっかりと望むために。
すると館内放送が流れ始めた。
〈業務連絡、至急、備品部は赤いカラーコーンを入り口前にお持ちください。〉
これが防犯訓練の始まりの合図だ。秀郎は言われた通り、他の社員たちと共に上司である斧田の周囲に集まる。なぜかはよくわからないがとにかく上司の周りに集まるのだ。
「さあ、みなさん集まりましたね。連絡によると不審者は、刃物を以て四階の営業部付近に居るそうです。更に興奮状態という情報もあります。」
防犯訓練はどういう不審者が何を持ってどこにいるか、という具体的な設定の下で行われる。
「そこで今回は、ここ総務部を我々の前線基地にすることが上層部によって決定しました。」
前線基地? 斧田の口から防犯訓練の中では聞きなれない言葉が出て困惑する秀郎。
「というわけでみなさん、早速デスクを全て壁際に寄せてください。」
斧田の一声で社員たちが一斉に動き出す。それに合わせて秀郎も重いデスクを壁際へと引きずらせる。
「人事部、ただいま到着しました!」
机が隅に寄せられ広くなった総務部の部屋に人事部長に引き連れられた人事部の社員たちが一斉に入ってきた。彼らはなぜかヘルメットと分厚そうなベストを身に着け、手にはさすまたや警棒を握り、完全防備の状態だ。
「経理部到着しました!」「技術部到着しました!」「情報システム部到着しましたー」「法務部到着しました!」
さらに部屋には、経理部、技術部、情報システム部、法務部の社員たちが人事部と同じく防備を整えた状態でぞろぞろと入ってきた。
「よーし! 籠城中の営業部を除く全部署到着完了!」
籠城…斧田の口からまた防犯訓練では聞きなれない言葉が出てきた。
「それでは、現在の状況を説明します。」斧田が部署ごとに整列した社員たちに話始める。「現在社内にいる不審者は一名。手に刃物を所持しており、四階奥の営業部の部屋の近くに居座っているそうです。」
社内にいる不審者は一名。ここまでの大人数が必要だろうか。というかこんなところでたむろしてないでさっさと助けに行った方が良いのではないか。というかこういうのは普通に警備員に任せて、ただの社員である自分たちはバリケードでも作って部屋にとどまっているべきではないのか。そんなことが秀郎の中には渦巻いた。しかし、訓練中の厳粛な空気の中でそんなことを言えるはずがなかった。
「よってこれより、『刃物を所持した不審者の討伐及び犯人警察引き渡し作戦』を実行します!」
「斧田部長!」
秀郎が手を上げる。
「お? どうしました富木さん。」
「水を差してしまうようで申し訳ありませんが、この会社ではいつもこのような訓練を行っているのでしょうか?」
意を決して疑問を投げかける秀郎。周囲の視線が秀郎に集まる。
「ええ。見ての通りこのように社員一丸となって来るかもしれない戦いに備えています。」
戦い…訓練に戦いもクソもあるのか…?
「もしかして、新人の方ですか?」
他部署の社員の一人から声がかかる。
「はい。手短に紹介いたします。今日から総務部に配属された富木くんです。」
斧田が社員たちに秀郎を紹介する。
「そうですか。まあ覚悟を持ってやっていただければと。」
覚悟…訓練に覚悟をする要素があるのか…?
社員たちへの秀郎の紹介が終わると、再び訓練へと戻る。
「ではまず、不審者制圧に係る作戦会議を行います。」
「斧田部長、先陣は我々人事部にお任せください。」
一歩前に歩み出てきたのは、人事部長の武口晴男だ。
「武口さん、相手は刃物を持っていてとても危険です。それでも行って頂けますか?」
「ここに会社に来た時から、もうそれぐらいの覚悟はできています。」
会社に死にに行く覚悟があってたまるか…秀郎は今日の午前中まであったこの宇央商事での前向きな将来の展望がかすんでいくような気がした。
「それでは、不審者討伐の戦闘部隊は、武口部長率いる人事部にお任せすることにします。」
「ちょっと待った。」
武口の背後から声が上がる。
「武口が行くなら私も行かせていただきます。」
声を上げたのは、先程秀郎に“覚悟”を求めるような発言をした経理部長の上村景三だ。
「上村お前、人の役割を奪おうってのか⁉」
「相手によっては、数の暴力が必要ってことだ。」
「お前がいなくても俺ら最強の人事部隊なら雑魚一人くらい簡単に潰せるわ!」
「その根拠のない自信が自分を破滅に追い込むんだよ。」
「あのぉー‼」言い合う二人の横から叫んだ秀郎。「営業部の方々の命が掛かってるんでしょう! こんなことしてないでさっさと行って解決しましょうよ! そんでさっさと訓練終わらせましょ!」
“数の暴力”やら、“最強の人事部隊”やら、意味の分からんことを言っている部長もとい会社役員にしびれを切らした秀郎が叫んだ。
「富木さんの言う通りです。では、人事部と経理部はそれぞれ反対側から回り込み、敵を挟み撃ちにすることにしましょう。」
斧田がそう提案すると二人は納得して引き下がった。
「それでは、社内のセキュリティ関連は我々が担当することでよろしいですね?」
手を上げたのは情報システム部長の真鍋昌樹。
「はい。システム部の方々にはここで実働部隊の後方支援をしていただきたいと思います。」
「では斧田部長、我々技術部は現場での作業を担当致します。」
そう声を上げたのは技術部長の北本貞雄。
「ありがとうございます。では、人事、経理の方々と共に現場への急行をお願いします。」
最初の人事部と経理部の衝突こそあったが、各部署の社員たちの役割分担はスムーズに終わろうとしていた。
「あとは法務部の方々の役割ですが、どうしましょう?」
「そうですね…法に関わる我々が前線に立つのはどうかと思いますし、ましてはここにいても特に役立つようなことはありませんし…」
法務部長の毛利隆也は、他の部長たちとは違い歯切れが悪い。
「なんかいっつも法務部だけ微妙な立ち位置になるよな。」
武口が愚痴をこぼす。
「戦闘に積極的でなければ、後方支援も出来ない。それで毎回前線基地の入口警備やら備品運びやら雑用みたいな仕事ばっかりなんですよ。」
上村も法務部のこれまでの微妙な活躍に対して愚痴をこぼした。
「すみません。わたくしの力不足です。」
毛利は小刻みに頷くことしかできない。
「まあみなさん落ち着いて。法務部のみなさんも決して訓練を蔑ろにしたいわけではないですよ。」
「斧田部長。」
真鍋が口を開く。
「なんでしょう?」
「ここは法務部のみなさんに殿をやって頂くのはどうでしょう?」
「殿?」
聞きなれない言葉に首を傾げる斧田。
「軍団の一番後ろに位置し、背後を守る部隊のことです。先鋒は人事と経理が二手に分かれて担当するので法務部は二手にわかれて各隊の一番後ろについていただきましょう、という提案です。花を持たせるのには十分かと。」
真鍋の提案を聞いた毛利はやや動揺する。
「真鍋部長、しかしそれはあくまで敵に敗れて逃げる時に割り振られるもので…」
その時、斧田の発言を遮って毛利が声を上げた。
「やります! 我々法務部は殿をやらせていただきます!」
「毛利部長、よろしいのですか?」
「いままで役に立てなかった分、ここでしっかり取り返したいと思います。そして部下たちにもしっかり花を持たせたいと。」
「わかりました。ではこれですべての役割分担が終わりました。これより、不審者の制圧及び営業部の救出を行います!」
終わった…ようやく堅苦しい茶番が終わった…。秀郎は自分に言い聞かせた、これは防犯訓練なんだと…。なんか戦乱の最中みたいな雰囲気が出まくりだったが、これは一応ただの防犯訓練なんだと…。そして思った。こいつらは一体なんのためにこんな茶番みたいなことをやっているんだ?
「よーし! 先鋒部隊、出撃だ!」
武口が叫ぶと他の社員たちも一斉に「おう!」と声を上げ、総務部を出ていく。武口率いる人事部は部屋を出て右側の通路へ、上村率いる経理部は左側の通路へ。殿担当の法務部は二手にわかれて人事部と経理部それぞれの後ろに付いていく。法務部長の毛利は人事部側へと付いて行った。技術任務担当の技術部も人事部側と経理部側の二手に分かれてそれぞれ出撃していく。技術部長の北本は経理部側に付いて行った。
「では我々総務部はここで部隊の士気、システム部はセキュリティ制御をお願いします。」
斧田がそう言うと総務部と情報システム部の社員たちが慌ただしく動き出す。部屋の中央にいくつかのデスクが集められ、その上に通信用のトランシーバーや会社の建物の見取り図、システム部のノートPCなどが置かれていく。
「それでは富木さん、私たちはこの通信機で現場の人事部や経理部に指示を出します。」
「え? 僕もですか?」
斧田の急な指示に焦る秀郎。
「大丈夫。私がサポートします。基本的には総務部が立てた戦略を現場の社員に伝えます。」
「あー…はい。わかりました。」
今さら引き返すこともできない。転職したこの職場に慣れるためにも。なんとか…。
〈こちら人事部。営業部東側の非常階段踊り場に到着。〉
通信機のスピーカーから武口の声が響いた。それに斧田が答える。
「武口部長、不審者の様子はわかりますか?」
〈踊り場のドアは占めた状態で待機している。こちらから営業部の様子は確認できない。〉
「防犯カメラの映像を確認します。」真鍋がノートPCのキーボードを叩く。「不審者を確認できました。右手に刃物を持って営業部前に何かを叫びながら営業部のバリケードを破壊していっています。」
その情報を斧田がトランシーバーで武口に伝える。
〈それなら今すぐに制圧しましょう!〉
「待ってください! まだ経理部が到着していません!」
〈クソッ! 上村は何やってんだ!〉
この会社は一体何をやっているんだ…? 秀郎はそう思った。
〈経理部、只今営業部西側の非常階段踊り場に到着しました。〉
上村からの通信が届く。
〈上村お前何チンタラしてんだ! 営業部の命が掛かってんだぞ!〉
〈敵に気づかれないように慎重に動いてたんだよ!〉
〈これで営業部に何かあったらおま…〉
「早く行きましょう! 営業部の命が掛かってるんでしょう!」無線から大声が響く。斧田からトランシーバーを奪い取った秀郎だ。「さっさと終わらせましょう! 訓練なんだから!」
武口と上村は秀郎の気迫に黙り込む。
「富木さんの言う通りです。早く不審者を制圧しましょう。」
斧田も無線で現場を宥める。
〈わかりました。いつでも行けます。〉
上村が答える。
〈なかなかな新人だぜ。〉
武口も突入への構えを立てる。
「それでは、私の『突入』という合図で一斉に不審者を制圧します。」
〈〈了解〉〉
斧田の指示に武口と上村が同時に返答する。
「不審者はバリケードの破壊に夢中になっています。今なら不意打ちを狙えます。」
防犯カメラ映像を凝視する真鍋が言った。
「よし、では、行きます。」
斧田の顔はいつになく真剣なものになる。やっと終わる、と心の中で思う秀郎。
「突入!」
斧田が叫ぶ。防犯カメラ映像には非常階段の扉が開き、武口を先頭とする人事部と上村を先頭とする経理部が一斉に不審者に飛びかかっていく様子が映し出されている。
「不審者が見えなくなりました。」
大人数に囲まれた不審者は逃げる間もなく社員たちの波に埋もれていった。訓練なのであくまで偽物のはずだがかなりのやられようであることが伺える。
〈不審者制圧!〉
武口から無線が入る。それと同時に総務部とシステム部の社員たちが一斉に声を上げて喜ぶ。
「よーし良かった! 本当に良かった!」
斧田もトランシーバーを握りしめながら喜ぶ。
「あーやっと終わった…」
秀郎はようやくこのトンデモ訓練から解放されることに喜ぶ。
不審者役が制圧されたことで、籠城状態になっていた営業部の社員たちもようやく解放される。
「島地部長、大丈夫ですか?」
〈ええ。全員無傷です。〉
斧田の呼びかけに応答したのは、営業部長の島地貴弘。解放された喜びからか、その声からは安堵の気持ちが伺える。
「島地部長、長いことお待たせしてしまいました。」
〈いえ、救出していただけたんです。これ以上嬉しいことはない。〉
本当に長いことお待たせしてしまったよな…茶番みたいな役割分担会議のせいで…と秀郎は思った。
〈これで一件落着ですね。〉
武口も営業部の救出成功を喜んでいるようだった。
〈あとは、この不審者を警察に引き渡すだけ。〉
上村も答える。
社員たちが肩を寄せ合い喜んでいる中、突然無線が声を発した。
〈緊急連絡、緊急連絡、社内にはまだ不審者が複数いる模様。繰り返す、社内には…〉
指揮の面々も現場の面々も先程までの喜びとは打って変わって表情をこわばらせる。
秀郎は呆然としている。今、「不審者は複数いる」とはっきりと聞こえたからだ。
〈クソッ! まだいやがったのか!〉
〈静かに! 声がでかい。不審者に聞こえたら厄介だぞ。〉
武口と上村の声が無線に響く。
「あのー」秀郎が重苦しい雰囲気の中で恐る恐る口を開いた。「訓練、まだ続く感じですか?」
早くこの意味不明な状況から脱したい秀郎は念のため斧田に聞いた。
「これが本当の事件だった場合、本当に何が起きるかわかりません。訓練でも常にそれを考えながら行動できるよう、こういった試練が課されるんです。」
試練?…またでたよ、わけのわからん言葉が。試練の言葉の意味を知らないわけではない。なぜここで試練という言葉を使うのかがわからない。
「防犯カメラ映像をチェックします。」真鍋がキーボードを叩く。「ビル入口付近に不審者が大勢います!」
斧田や他の社員が真鍋のPCをのぞき込む。秀郎も後ろの方からゆっくりのぞき込む。
「退路を塞がれたのか…」
斧田が顔を落とす。
〈不審者の数はどれくらいだ⁉〉
武口がトランシーバーに話す。
「ざっと、二十名ほどかと。」
真鍋がPCの画面を凝視する。
〈それなら部隊全員でかかってすぐに殲滅すればいい。〉
武口は一斉攻撃を主張する。
「ではまた二手に分かれましょう。そして双方向からかかれば確実に倒せるはずです。」
斧田が現場部隊に提案する。
〈了解です。〉
上村が応える。
〈それぞれさっきと同じ非常階段を下りて、一階まで向かいます。〉
武口も本部に次の行動を伝える。
「わかりました。ではみなさん、敵がいるのは入口付近だけとは限りません。慎重な行動をお願いします。」
そう言うと斧田は無線を置いた。
「長丁場になりそうですね。」
真鍋が言った。
「ええ。もしかすると、我々も打って出ることになるかも…」
「えぇー‼」
斧田の発言に秀郎が叫んだ。
「つまり僕らも戦うってことですか!?」
「まあまあ、もちろん戦うのは僕だって嫌ですよ? でもその時はその時で何とかやり過ごせば問題ないですよ。」
「え? これこんな本格的に戦うところまでやるんですか?」
秀郎は斧田に驚嘆の目を向ける。
「ご安心ください。総務部にも優秀な戦闘要員はいます。」
戦闘要員…本格的に戦だ。大体そんなことマジで警察にやらせろや。ほんでこんな茶番やらせる上層部の顔を見てみたいわ。と、秀郎は溢れんばかりの不平不満を心の中に噴出させる。
「この日向明秀くんは私たち総務部の中では最も腕っぷしが良いんですよ。」
「どうも日向といいます。」
斧田に紹介されたその社員は、落ち着いた印象で特段強そうな感じはなく、どちらかというと文武の文の方に向いていそうだった。
「どうも今日から入りました。富木と申します。」
「今朝、紹介していただきましたよ。」
「あ、そうだった。」
このやりとりで少しだけ場が和む。不審者討伐に行っている社員たちには悪いが。
〈本部! 本部!〉
突如、無線の乾いた音が鳴ったと思うと、苦しそうな声が響いた。その声は武口のものでも上村のものでもない。
「どうされました!?」
斧田が無線を取る。
〈法務部長の毛利です…人事部隊…壊滅しました!〉
「何!?」
本部に緊張が走る。秀郎はその異様な光景に気持ち悪さを感じ始める。
「どういうことですか! 毛利さん!」
〈二階まで降りたところで背後から突然敵に襲撃されました。私たち法務部は打って出たのですが、相手の人数が多く…〉
「お待ちください。防犯カメラには入口以外に不審者は映っていませんでしたが? 全員映像全部見ていたよな?」
真鍋やその他情報システム部の社員たちは常時社内全ての防犯カメラ映像を注視していた。しかし、誰一人として敵の姿を確認していない。
「大勢いたのであれば、見逃すはずはありません。一体どうなっているんだ…」
斧田は非常事態にやや焦り気味だ。そんな斧田に真鍋は見解を示す。
「考えられることは、死角を上手いことすり抜けてきたか…システムがハッキングされていたか…」
「ハッキング…」
「社内が無人になっている時間帯の防犯カメラ映像を録画し、それを私たちに対する目隠しとして流していた…。」
「なんてこった…」
愕然とする斧田と真鍋。秀郎は別の意味で愕然とする。防犯訓練の魔の仕掛けがまだあったのかと。
〈斧田さん! 私はどうすれば…〉
「今、どこにいますか?」
〈二階の資料室の中です。法務部員数人でいます。〉
防犯訓練で戦う仲間たちをほったらかしにして逃げて閉じこもるとはこの部長、どこまで意気地がないのだ…。それとも防犯訓練の演出なのか?
「人事部の人たちは…武口さんたちはどうしました?」
〈わかりません。しばらくは戦っていたようですが、途中で資料室に逃げてしまい…今部屋の外からは特に声は聞こえません。〉
「人事部隊の壊滅は間違いなさそうですね。」
真鍋が肩を落とした。
「経理部隊…経理部隊はどうなったんだ?」
その時、無線の音が鳴る。声の主は経理部の上村だ。
〈こちら経理部、一階に向かう途中不審者の集団に急襲された。〉
「上村部長! 無事でしたか!」
〈ええ。北本さんがすぐに異変に気付いたおかげで早急に対処できました。〉
〈いつも機械の音聞いてますから異音くらいはわかります。〉
北本の声も聞こえる。
「そういうものなんだ…」
秀郎が呟く。
〈状況からして、人事部隊にはなにかあったようですな。〉
上村が人事部隊について触れる。
「はい。先程、毛利部長から通信があり、不審者集団に襲撃され壊滅したようです。今も武口部長ら多くの社員たちが消息不明です。」
〈でしょうな。襲撃された後、勢いでそのまま一階まで突撃しましたが、一向に人事部が現れませんでしたから。〉
「は?」
斧田ら指揮隊は戦慄した空気に包まれる。
「じゃ、こいつらは!」真鍋が顔面蒼白のままキーボードを叩く。「クソッ! やられた!」
そう叫んだ真鍋は机を叩いた。
「まさか…合成ですか?」
「録画した防犯カメラ映像に更に合成したものを我々に見せていたんです…」
あーもうわっかんねぇなこれ…ただの茶番劇と化しているこの防犯訓練の渦の中で秀郎の精神は疲弊していくばかりであった。これがあとどれくらい続いて一体これ以上にどんな茶番が起きるのだろうか…。
「斧田部長」日向が話始める。「敵がここまでして自分たちが一階にいるということにしたかったということは…」
日向の言葉を聞いて斧田がハッとする。
「狙いはここだ!」
斧田が叫ぶと他の社員たちも一斉に慌ただしく動き出す。
「机そっち!」
真鍋の指示を受けたシステム部の社員がデスクの一つを入り口に押し付けようとしたその時、
ーバン、ドンッ
開かれたドアとデスクがぶつかる金属音が響き、システム部の社員が押しのけられる。それと同時に木刀や警棒を持った帽子、サングラス、マスクという不審者三点セットを身に着けた不審者の軍団が一斉に本部になだれ込んできた。
「何何何何!」
秀郎も突然の出来事に取り乱し、部屋を逃げ回る。
「であえであえ!」「押さえろー!」「やめろー!」
本部は社員たちの指示や悲鳴が響く地獄絵図と化す。
「富木さん! これ!」
秀郎が声のもとに振り向くと斧田が武器を投げ渡してきた。
「コレでどうしろと⁉」
「戦うんです! うおー!」
斧田は不審者軍団に突っ込んでいく。
「えー! もうマジか!」
秀郎は部屋の隅で一心不乱に恐らく五割くらいの強さでさすまたや警棒や木刀を振り回す社員と不審者役たちを傍観し続ける。斧田から渡されたホワイトボードの図を解説する時に使う指示棒でどうやって戦えばいいのか。
「くるな、くるな、くるな!」
棒立ちしているところに不審者役の一人が木刀を持って駆け寄って来る。
「おらーおらーおらー」
不審者役は会社に乗り込んできた暴徒とは思えぬほどの地声と棒読みだ。試しに一回指示棒で頭を軽く叩いてみる。
「うわっ、おらー」
少し痛がるリアクションをしたと思えば五割くらいの力で木刀で腕を叩いてきた。
―ペチペチペチペチペチペチペチペチ……
少し余裕が出てきたので不審者を力弱く殴打しまくる秀郎。それに応えるかのように不審者役の男も木刀で力弱く左腕を連打してくる。
「オラァ! やってくれたなァ! お前らァ!」
怒気を帯びた声が響く。先程、壊滅状態となっていた人事部の武口が社員を引き連れて本部に突入してきたのだ。
「全員押さえろ!」
さらに上村率いる経理部も一緒だ。
「みなさんもう少しです! 蹴散らしましょう!」
斧田がさすまたを振りながら社員を激励する。劣勢となっていたが人事部と経理部の突入により形勢は一気に逆転した。
―パシッ、ベチッ、ペン、ペチッ、ペチッ、ベチッ
秀郎の不審者役を叩く力も自然と強くなっていった。
「いてて、いた、いて…」
不審者役も本音が思わず漏れ、引き下がっていく。
「うりゃー!」後退していた不審者役を真鍋が後ろから締め上げ取り押さえた。「よし! 確保!確保!」
まるで現場の警察官かのようなセリフも発した。
「不審者、制圧完了!」
斧田が叫ぶ。本部にいた不審者役たちは全員、社員に取り押さえられているかその場で倒れていた。倒れている不審者役の中には周囲をキョロキョロと見渡す者もいた。
「あとは警察に引き渡すだけです。」
上村がそう言うと、社員たちは不審者役を立ち上がらせ続々と本部を後にしていった。しばらくすると「訓練終了、訓練終了。社員は休憩の後、通常業務にお戻りください。」という社内アナウンスが響いた。
「ほんとなんだったんすかコレ…」
秀郎はようやく本当に訓練が終わったことに安堵しその場に腰をおろした。そこに斧田が声をかける。
「富木さん、よく頑張りました。これで当社の不審者対応はばっちりわかったでしょう。」
「ええ。だいぶ心に体にくるものがありましたねー。」
秀郎は腰をおろしたまま脱力した状態で答える。
「不審者は全員警察に引き渡しました。」
武口たちが不審者たちを警察に引き渡した体で戻ってきた。
「それとこの人たちも戻ってきました。」
上村の背後には途中で敗走を喫した法務部の毛利らがいた。
「大変申し訳ございませんでしたー!」
毛利はその場で勢いよく頭を下げた。
「背後を守るどころか寧ろ通しまくって、挙句の果てにいつの間にかいなくなってたから驚いた。」
武口はため息を吐く。
「まあ、難しい役目を引き受けただけでも評価はできますよ。」
斧田はうつむく毛利をフォローした。
「それでは最後に各部署で社員の生存確認をしましょう。終了次第無線でご連絡を。」
斧田が指示すると武口ら部長陣はそれぞれの部署へと戻っていった。
秀郎たち総務部も社員の生存確認をしていく。しかしここで不可解なことが起きた。
「日向さんがいない…」
部長である斧田が手元の社員リストで一人一人の名前を呼び点呼を行った。しかし日向の名前を呼んでも返事が返ってこない。社員たちも部屋中を見渡すが日向の姿は無い。
「あれ? 部長。」
社員の一人がある場所を指差した。示された場所は社外秘の資料が入った金庫だった。
「嘘でしょ⁉」
斧田が金庫に近づく。中を見るとそこに置かれていたはずの紙類と電子媒体がいくつか無くなっている。
「どういう状況ですか?」秀郎が恐る恐る聞く。「訓練自体はもう終わりましたよね?」
秀郎はこれも防犯訓練上の茶番なのではないかと疑っている。
「予定外です。」
斧田の顔からは本物の深刻さが伺える。
「てことは本当に秘密情報盗まれたってことですか?」
「日向さんはもしや…スパイ⁉」
「スパイ⁉」
「スパイ⁉」
防犯訓練は終わったが全く別の何かが始まった。しかも次は訓練ではなく〝マジ〟だ。
「まさか、防犯訓練のどさくさに紛れて…」
総務部での宇央商事と不審者役軍団の最終決戦は非常に激しいものだった。部屋中が人で埋め尽くされ、うごめいていた。
「斧田部長! 斧田部長!」
総務部に武口が血相を変えて駆け込んできた。
「どうしました! 武口さん!」
「ライバル企業の亀山商事の軍団がこちらに向かっています!」
「はーーー⁉」
驚きのあまり斧田よりも先に叫んだ秀郎。
「しかもその軍団の中に、総務部の日向もいるそうです!」
「日向さん…まさか…」
斧田の顔は青白く染まり、その場に崩れ落ちた。
「斧田部長、これは訓練ではありませんよ。」
「訓練じゃないってどういうこと⁉」
急展開にその場で右往左往しまくる秀郎
「わかりました。」斧田は立ち上がる。「みなさん、戦いの心得は今日の訓練でしっかりと身に付いたはずです。」
「戦いの心得…ですか?」
秀郎は斧田を見つめたまま固まる。
「みなさん、総力戦です‼」
「「「オーーーウ‼」」」
斧田が戦いを宣言した。社員たちは顔を震わせてそれについていく…秀郎を除いて。
「ちょっと待って! ちょっと待って! 社会はどうなっちゃったの⁉ なんで会社がマジで戦うの⁉」
「新人!」
慌てふためく秀郎の肩を武口が掴む。
「社会はな、甘くないんだよ!」
そう言って武口は決戦に向かった社員たちの後を追った。
一人残され呆然と立ち尽くす秀郎。
「……社会人やめよ。」
外からは社員たちの猛々しい咆哮が聞こえていた。
――終わり