第2部
翌日、御器所家に、一と同じ小学生の少年が現れる。彼の名乗りに、御器所は驚くのだった。
「ご当家、軒下の仁義、お控えなすって!」
たたみかけるように、すらすらと男の子は言った。
うわっちゃあ。そう来るか。めちゃくちゃ流暢じゃないか!
なら、ぼくだって腹をくくることにする。
「お、お、お控えなすって!」
「さっそくながら、ご当家、三尺三寸借り受けまして、稼業、仁義を発します」
男の子は言う。
わかった。わかりました。もうぼくの負けです。全部相手の土俵に乗るしかないじゃないか。こっちも本気で答えてやる!
ぼくはさらに両脚をガニ股に開いた。ぐいっと腰を落として、右の手のひらを前に差し出す。
「手前、えーと、み、み、未熟者です。ど、ど、ど、どうかお控えなすって」
舌をもつれさせながら、ぼくは返答した。
「それでは仁義になりません。お兄いさんからお控えなすって」
お兄いさんときたぞ。歳はそんなに変わらないはずなのに。
しかし、ぼくも〈御器所組〉の一員として相手を迎えなきゃいけない。それが、極道としての礼儀だ。
「ぎゃ、ぎゃ、ぎゃ……ぎゃ、逆言ですが、えーと、それではお言葉に従いまして、えーと……て、て、て、手前、ひ、ひ、控えさせていただきます」
ぼくの背後で母さんが爆笑するのを必死にこらえている。「逆言」なんて単語、人生ではじめて口にしたぞ。
「さっそくのお控え、ありがとうござんす」
玄関の「客人」の男の子は大真面目でぼくを見上げた。そして、一気呵成にまくしたてた。
ぼくは口を半開きにして絶句した。
「弘法大師も筆の誤り、猿も木から落ちる世の喩え。手前、粗忽者ゆえ、仁義前後を間違えましたる節は、まっぴらご容赦願います。向かいましたるお兄いさんには、初のお目見えと心得ます。手前、生国は帝都東京でござんす。稼業、縁持ちまして、身の方やと発しますは、中村一家四代目を継承いたします中村兵蔵に従いましておりました、若い者でござんす。姓は星崎、名は雄之介、稼業、昨今の駆け出しもんでござんす。以後、面体お見知りおきくださいまして、万事万端よろしゅうお願いなんして、ざっくばらんにお頼ん申します」
すごい……完璧だ!
助けを求めたくて、背後を振り返る。
なんてこった。
〈御器所組〉の若い衆も、「姐さん」である母さんでさえも、肩を激しく痙攣させていた。
答えられなければ、我が〈御器所組〉の面子に関わる一大事だというのに!
けど、やるしかない。
一度大きく息を吸い込むと、たどたどしく言葉を放った。
「あー、あ、ありがとうござんす。ご、ご、ご、ご丁寧なるお言葉、申し遅れまして失礼さんにござんす。て、て、手前、と、と、当〈御器所組〉三代目を継承いたします御器所一也に従います若いもん。姓は御器所、名は一と発します。ご、ご、ご……えーと、ご賢察のとおり、部屋住みでござんす。以後、万事万端よろしくお頼ん申します」
やった! ぼくにも言えた!
母さんと一緒にヤクザ映画をたくさん観ていてよかった、とつくづく思う。
「ありがとうございます。どうかお手をお上げなすって」
星崎雄之介と名乗った男の子は、真面目な表情のまま手を差し出した。
これにもちゃんと返さなきゃいけない。それが極道のしきたりというやつだ。
「い、い、いや、お、お、お兄いさんさんから、ど、どうぞお手をお上げなすって」
ぼくが言うと、
「それでは困ります」
と返してくる。
そんなことで困るなよ! と思いながらも、ぼくは続けた。
「そ、それでは、ご、ご、ご一緒にお手をお上げなすって、くれますよね」
ちょっといい間違えたかもしれない。
ぼくと相手は、同時に体を起こした。
「ありがとうござんした」
二人声を合わせて答えた。
これでやっと〈軒下の仁義〉の切りあいが終わるのだった。
ぼくは緊張から解き放たれて大きくため息をついた。腰の力が抜けそうだ。
「ブラヴォー! 実にいいものを見せてもらった!」
唐突に拍手を始めたのは、いつの間にか姿を現した不老翔太郎だった。
「さすが二人ともプロフェッショナルだね。たいへんに素晴らしいパフォーマンスだったよ!」
不老はいたく関心した様子で、満面の笑みで拍手を続けている。
極道同士の、真剣な仁義の切り合いを何だと思っているんだ? 見世物じゃない!
が、次に不老が放った言葉に、ぼくは耳を疑った。
「星崎君、元気そうでなによりだよ! この街に来ることは耳に入っていたんだが、思っていたよりも早かったね」
すると、玄関の星崎雄之介と名乗った男の子が、一気に満面の笑みを浮かべた。
「翔ちゃん、背が伸びたなあ! 前はぼくのほうが1センチ高かったんだぜ。すっかり越されちゃった!」
ぼくは二人を代わる代わる見やった。
「あの……えーと、お知り合い?」
ぼくが訊くと、不老が「はっ!」と大きな声を上げた。
「御器所君、僕の伝記作家たる君がそんな記憶力じゃあ、頼りないね」
「へ?」
ぼくは必死に、虹色の脳細胞をくまなく検索した。
「ちょっと待った、翔ちゃんの伝記作家は僕のはずだよ!」
眼の前の極道少年が、くりくりとした眼で不老翔太郎を見上げた。
「あ……!」
記憶がよみがえった。ごく最近のことなのに、すっかり忘れていた。
つい先日のことだ。不老翔太郎の「最初の事件」の話を聞いたばかりだった。
不老が小学三年生のときに遭遇した「まだらの着物」事件だ。そのときに不老と一緒に謎を追ったのが、当時の同級生だった星崎雄之介君だったのだ。
「思い出した! そっかあ、君が星崎君だったんだね。えーと、はじめまして。ぼくは御器所です。御器所一」
「お互い、さっき仁義はもう切ったじゃん」
星崎君はにっこりと笑った。
またもやはっと思い至った。
「あ、あの、星崎君って……うちと同業者?」
「うん、元同業者。じゃ、もう一回やろっか? お控えなすって!」
そう言って星崎君は腰を落とし、また右手を前に差し伸べた。
いやいや、とんでもない!
「さあさあ、上がりたまえ!」
ぼくを押しのけ、不老翔太郎は我が家かのように星崎雄之介君を招じ入れた。
うちの若い衆たちが必死に笑いをこらえて悶絶しているのを、ぼくは痛いほど背後に感じた。
「翔ちゃんの顔を見ると、いろいろ思い出すなあ。『まだらの着物』事件の翔ちゃんの推理には、ほんとにびっくりしたよ」
「でもあの事件では、僕は大きな間違いを犯していたよ」
「覚えてる? あの事件の前にも、翔ちゃんが推理力を発揮したことがあったんだよ。ほら、『屋根裏のオオネズミ』事件を覚えてる?」
「忘れるものか。実に奇妙な発端だったね。真相は拍子抜けするほど単純だったけれどね」
星崎雄之介と不老翔太郎が、ぼくのベッドに並んで腰かけて、思い出話に花を咲かせていた。二人とも満面の笑みではち切れそうだ。三年ぶりの再会なのだから、それも当然かもしれない。
ぼくたちの前には、母さん自ら手作りの「キウイのヨーグルト・ソーダ」が並んでいた。
ぼくはキウイ果汁たっぷりのヨーグルト・ソーダをストローで吸った。甘味と酸味、そして炭酸の淡い刺激がぼくを内側から喜ばせてくれる……はずだった。
なぜか、ぼくの気分は少しずつ沈んでいくのだった。胸の奥で何かがもやもやと薄暗い色の渦を巻いている。
「一君、この小学校のことはいちばん詳しいよね」
出し抜けに星崎から声を向けられて、ぼくは慌ててしまった。
「そりゃまあ、一年生からずっと通ってるから……」
しどろもどろで答える。
「三組の担任の前山先生って、怖いねえ!」
「えっ、そう……かな?」
六年三組の担任の前山静香先生は、ぼくが五年生のときにこの小学校に赴任してきた、若い新人の先生だ。髪は ヴェリー・ショートで、小柄だけど運動神経は抜群。高校、大学と陸上競技でいくつもの大会に出場した経験があるらしい。「お姉さん」というよりは「お兄さん」的に少年っぽい雰囲気をまとっている。特に女子たちのあいだからとても人気が高かった。
「前山先生って、いつもあんなふうに怒ってるの?」
「へえっ? 前山先生は優しくて人気者で、全然怖くないよ」
前山先生の授業を受けたことはないけれど、いつだってエネルギーに満ちあふれていて、いつだって明るくて一挙手一投足がキビキビ、テキパキとしていることは、隣のクラスのぼくでもわかった。僕たちのクラスの萱場先生とは何から何まで大違いだ。
「今朝、前山先生と一緒に職員室から六年三組の教室に教室に行く途中で、廊下で女の先生と一緒になったんだ。ほら、君たちのクラスの先生」
「萱場先生ね」
「そしたら、前山先生が急に立ち止まって、怒った口調で一気にまくしたて始めたんだ。びっくりしちゃったよ。かなりキレてるみたいだった。先輩の先生にいきなり突っかかるなんて、性格がきつい先生なんだね」
意外すぎる言葉だった。不老翔太郎を見やると、関心があるのかないのか、両手の指先をあわせ、無表情なまま星崎を見返している。
「翔ちゃん、まさにこれって事件発生だよ? きっと前山先生が謎を抱えているんだから!」
星崎雄之介は、とてもうれしそうだった。
が、不老翔太郎は、いつもながらいまいましいほどに冷静だ。
「星崎君、事件はそんなに身近に転がっているものじゃないよ」
「不老翔太郎行くところ事件あり。不老翔太郎も歩けば事件に当たる、さ!」
自信満々に、星崎雄之介は答えた。
ぼくはヨーグルト・ソーダをストローですすった。冷たくてすっぱくて甘い。快楽の塊のはずなのに、それが今ではぼくの舌の上で、重くねっとりとまとわりついている。
心の奥がムズムズと落ち着かなくなる。
それは、悔しさだった。
星崎雄之介は、ぼくの知らない事件を知っている。ぼくの知らない不老翔太郎の姿を知っている。
不意に星崎雄之介が声を上げた。
「うわあ、このジュース、めちゃくちゃ美味しいね!」
目を見開いている。
ぼくは、心のなかで小さなガッツポーズをした。やっとぼくにも、星崎雄之介に勝てることがあった。
「星崎君、これはジュースではない。清涼飲料水だ。『ジュース』という呼称は果汁を100%搾ったものにしか使ってはいけない」
不老翔太郎は冷静な顔つきで、ストローでキウイのヨーグルト・ソーダを吸い始めた。まったく、野暮がこりかたまった男だ。
「ところで星崎君――」
不老はそこでぼくのほうに一瞬だけ視線を向けると、星崎雄之介に尋ねた。
「君がこの街に転校してきたこともまた、ひとつの『事件』であり『謎』であると考えられないかい?」
不老の言葉に、星崎雄之介は天井を向き、鼻をぴくりと動かした。
「お、新たな事件の匂いを嗅ぎつけた? さすが翔ちゃん、鋭いねえ。実はね――」
と、その瞬間だった。スマートフォンが電子的なメロディを奏でた。星崎君はズボンのポケットからスマートフォンを取り出し、画面を見た。
「うわ、姉ちゃんが呼んでる! 行かないと殺される!」
星崎は慌てて立ち上がった。
お姉さんの名前は菫さんだったな、とぼくは不老から聞いたことを思い出した。
「悪いね、翔ちゃん、一君。もう帰らないと!」
星崎はずいぶんと焦っている様子だった。
「なんだ、もう行ってしまうのかい? せっかく久しぶりに再会できたんだ。もっと旧交を温めたいじゃないか。僕も一緒に帰るよ。積もる話をしよう。菫さんにもまた会いたいしね」
不老が身を乗り出した。
「いや、翔ちゃんも知ってるだろ? 姉ちゃんって、怒らせると怖いんだ。また明日、学校で話の続きをしようよ」
星崎が足早に部屋を出ていこうとするので、ぼくは言った。
「玄関までの行き方、わかる? 案内するよ」
「大丈夫。じゃあ一君、翔ちゃん、また明日ね」
そう言い残して、慌てた様子で星崎雄之介は部屋を出て行った。
閉じたドアを見ながら、ぼくは椅子に腰を下ろした。
うまく言葉にできないけれど、寂しいような、腹立たしいような気分だった。
不老翔太郎は、ぼくよりも星崎雄之介と過ごした時間のほうが長い。ぼくは不老という男をすっかりわかっていた気になっていたけれど、星崎雄之介のほうが、不老をずっと深く知っている。そしてまた、不老も星崎のことをよく知っている。
「さて、僕もそろそろ失敬しよう」
不意に不老はベッドから立ち上がった。
「えっ? 不老も帰っちゃうの?」
「君の中学受験の勉強の邪魔をしちゃ悪いからね」
「べつに、邪魔じゃないけど」
不老はぼくの部屋を出ていこうとしたが、ドアの前で動きを止めた。右の人差し指を顔の前でぴんと立てた。
そして、意外な言葉を放った。
「ねえ御器所君、星崎君は、ほんとうに菫さんから呼ばれたと思うかい?」
「へ?」
「彼は必ずしも真実を語っていないよ、御器所君」
「へえっ?」
不老翔太郎は、にやりと心底楽しんでいるような笑みを浮かべた。
「また明日会おう、御器所君。明日には、話すべきことがたくさんできるはずだ!」
そして不老翔太郎は身を翻すようにして、ぼくの部屋から去って行った。
ぼくだけが取り残されてしまった。
たった独りで、ヨーグルト・ソーダをすすった。ストローの先端が、ずずずっと間抜けな音を立てただけだった。
翌日の九月二日は短縮授業なので、午前中の四時間だけで授業が終わった。
萱場先生はあいかわらず、やる気があるのかないのか、ゆるい四時間の授業だった。
不老は昨日「話すべきことがたくさんある」と言っていたけれど、実際に言葉をかわすことはなかった。なんとなく、こちらから声をかける気分にもなれなかった。
帰り支度をしていると、金銀河がぼくのもとに近づいてきた。
「昨日はどうだったの?」
「どうって何が?
「まさか、学校で抗争なんて起こさないでしょうね」
「コーソー?」
「ほら、転校生のこと! シマを荒らされて、一触即発じゃないの?」
「ヤクザ映画の観すぎだよ」
ぼくだって人のことは言えないけど。
「でも、ライヴァル登場よね」
面白そうに金銀河は言った。が、ぼくには笑えない。
「御器所君に訊きたいことがあるの」
「へっ? 訊きたいこと? 不老じゃなくて? ぼくに?」
「いちいち文節に区切らなくていいし、倒置法使わなくていいの!」
「あ、えーと、なんかごめん」
「御器所君だったら、わかるかもしれないと思って」
金銀河からそんな言葉をかけられるなんて、ちょっとうれしい。いや、かなり、いや、めちゃくちゃ、とてつもなく、うれしい。
が、その気持ちは有松篤志にふっとばされた。
「早く来てくれよ!」
ぼくの二の腕をぐいと引っ張る。
「痛たたた――何っ?」
「やっぱ俺の言ったとおりだった。侑愛の教室に行くぞ。不老も呼んでくれよ」
「へ? 不老ならあそこに……」
ぼくがランドセルが似合わない不老翔太郎を指さすと、有松篤志は気まずそうな面持ちになった。
「なんかあいつって、話しかけづらいじゃん」
「そうかなぁ」
「うかつに声をかけると、怒られそうな気がするじゃん?」
ぼくは首を傾げつつ、不老に手を降った。
「不老、事件だよ!」
退屈そうだった不老翔太郎の顔に、一気に活気が宿るのが見て取れた。
「ちょっと御器所君! 話の途中!」
金銀河が割り込もうとするが、有松篤志がぐいぐいとぼくを教室の外へと強引に引っ張り出して行く。
「あ、あとで聞くから! 絶対に聞くから!」
声を上げた。けれど、たぶん金銀河には届いてないだろう。
「逆転の構図」第3部へつづく