第四話 望んだものか、それとも否か
――ドサリ
秋人の体を鈍痛が駆け巡った。痛みで体を動かせない。何が起こったのか分からない。
しばらく痛みがおさまるのを待って、のそりのそりと体を動かす。
「……どこだ、ここは?」
どうやら地面の上に落ちたようだ。それも土の上だ。
しかし分かることはそれだけだ。
なんとか上半身をだけ起こして周りをグルリと見渡す。秋人を木々が囲んでいる。かたい土に雑草がまばらに生えている。高い木を縫うように木漏れ日を指している。
勢いをつけて無理に立ち上がる。服の土をパンパンと払う。
間違いない。自分は森の中にいる。
幻か夢なのか。だが体の痛みも、鼻につく土や草木の匂いが現実と教えてくれる。
さっきまで飛行機の中にいたはずだ。まさか墜落してここに不時着したのだろうか。
いや違う。そんなわけがない。それならばこの程度の傷で済むはずがない。
ハッと気が付く。
「そうだ、他の人たちは……?」
ふと右手から何か音が聞こえた。ここにいても仕方がない。足をひきずるように音のなるほうへと向かう。もしかすると避難した人々がそこで固まっているかもしれない。
近づくにつれ、音がはっきりとする。どうやら何かを叩いている音だった。しかし妙に力強い音だ。生半可な力ではこの音は出せまい。
遠いせいで、確かなことは分からないが、どうやら人影が見える。
それを確認すると、思わず秋人は走っていた。
とにかく誰かに会いたかった。この訳の分からない状況を誰かに説明してほしかった。全身の痛みをこらえて懸命に足を動かす。
息が荒くなる。土を踏みしめる。木や葉と体がこすれる。
人影がその秋人の気配に気が付いたのか、こちらを見やった。
秋人は足を止めた。理解が追い付かなかったからだ。
その人影の顔はまるで牛のような顔だった。頭には曲がりくねった角も生えている。
だがそれにしてはおかしい。その「牛」は二足歩行で、手にはこん棒のようなものが持たれていた。「牛」の隣にそびえたつ巨木が奇妙な形でえぐられている。
秋人が巨木をこん棒でえぐったのがその「牛」と気が付くのと、「牛」が重低音で唸り声をあげたのはほぼ同時だった。
「グゥゥゥゥオオオォォォォッ!」
体がとっさのことで動かない。その間に「牛」は恐ろしいスピードで秋人に迫った。その形相に秋人はかつてない恐怖を覚えた。
それは運がよかったとしか言えない。
転がるように秋人はそこから移動した。その刹那のあとに、秋人がいた場所をこん棒が横切る。
風切り音が鼓膜をふるわす。それは秋人に死の予感をもたらすものだ。
なんとか立ち上がった秋人はとにかく後ろに走った。さっきとは違う走りだ。痛みがどうとか、ここがどこだとか、この「牛」が何者なのかとか、本当にどうでもいいことだった。
捕まれば死ぬ。あのこん棒で殴られれば死ぬ。走らなければ死ぬ。
「牛」は当然のように追いかけてくる。そこに理屈や事情などない。原始的な本能だ。
逃げる者は追う。敵は殺す。それだけだ。
秋人と「牛」の差はどんどんなくなっていく。そしていよいよこん棒が届く距離まで詰められる。秋人は恐怖で後ろを振り返る。「牛」は走りながらこん棒を振りかぶっていた。
(もうダメだ……!)
もう諦めかけたとき、「牛」の振り上げた方の肩に何かが刺さった。
あまりのことに秋人も「牛」も動きが止まった。その止まった瞬間に、さらに二本、三本とそれぞれ脇腹と肘に同じように何かが刺さる。
「アァァァァガァァァァッ!」
瞬間、化け物がのたうち回った。
唖然としている秋人の後ろから、誰かがゆっくりと「牛」に近づいていく。それは、少なくとも、後ろ姿からは人間に見えた。
しかもおそらく女性だった。
その女性は右手をその「牛」に向けると、力を込めた。
女性の四方から小さな火が生まれ、やがて炎となった。そしてさらに女性が右手を振り払った。その瞬間4つの炎はまるで意思でもあるかのように猛スピードで「牛」へと向かった。
まだのたうち回る「牛」がその炎を避けられるわけもなかった。
化け物はしばらく暴れまわり、唸っていた。が、それもどんどん弱くなり動かなくなった。残されたのは炭化した元化け物だけだった。
それを見届けて、女性は秋人に振り返った。
秋人はその女性の顔を見て、状況に似合わず見惚けた。
(きれいだ……)
まだあどけなさが残る顔立ちだったが、意志の強さを感じる眼差し、まるで作り物とすら思える整った顔立ち、そして三つ編みにくくった銀髪は木漏れ日を反射してキラキラと輝いている。その物語の魔法使いが着ていそうなローブも相まって、もはや神々しさすらあった。
そんな彼の内心を知ってか知らずか、彼女が口を開いた。
「大丈夫ですか?」
呆けていた秋人は彼女の言葉に驚く。それはある意味、あの化け物に出会ったとき以上の衝撃だった。
「な、なんて言いました?」
秋人は日本語で聞き返していた。
彼女は小首をかしげて同じことをもう一度言った。
「大丈夫ですか?」
間違いがなかった。彼女から発せられたのは紛れもない。日本語だった。
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「か、体は大丈夫だけど……」
「そうですか。それは良かったです。この辺りはミノタウロスの生息地です。あまり安全ではない場所ですので、お気をつけください」
彼女は少し微笑むと、ペコリと小さくお辞儀して去ろうとする。
慌てて秋人は呼び止めた。
「ちょ、ちょっと待ってください」
「はい?」
「ここってどこなんですか? さっきの化け物はなんなんですか? それに……」
思わず秋人は彼女ににじり寄る。
「どうしてあなた日本語が喋れるんですか? どうなっているんですか!」
「どう、と言われましても……」
その時秋人は奇妙な浮遊感に襲われる。
「ガハッ!」
気が付くと秋人は地面に突っ伏し、誰かに上から押さえつけられている。身動きどころか息をするのも苦しかった。
「貴様! なんのつもりだ!」
上から女性の声がする。しかし秋人にはその人物が誰なのか分からず、そしてその問いかけにすら答えることができず、ただ呻くしかできなかった。
「はあ……」
その光景を見た先ほどのあどけなさ残る女性が溜息をつく。
「マイ。やめなさい」
「しかしミヤビ様……」
「大丈夫よ。たぶん害はないわ」
「……わかりました」
マイと呼ばれた女性は秋人を開放する。
「ゴホッ! ゴホッ……」
せき込むように秋人は息を吸う。そして彼が落ち着くのを待ってミヤビと呼ばれた女性が口を開く。
「こちらのタケダ=マイが失礼しました。私の名前はシラカワ=ミヤビ。故あって各地を旅しております。……失礼ですがお名前を教えて頂けませんか?」
「ぼ、僕は赤澤秋人です」
「なるほど。アキトさんですね。いいお名前です」
「ふん……。アキトとやら。ここで何をしていた。見る限りこの辺りに人間ではないようだが」
マイは上から下まで観察する。その視線につられて秋人もマイを観察した。
彼女もまた、ミヤビとは違った美しさがある女性だった。ミヤビを『静』の美しさとするならば、マイは『動』の美しさだ。
動きやすさを重視したショートパンツを履いているが、体の急所を守るように皮でできたプレートを身に着けている。もちろんそれは体の可動を妨げない最低限のものだ。
そして背中には弓を背負っていた。どうやらあの化け物に矢を突き刺したのはマイのようだった。
「あ、あの……ありがとうございます。助けて頂いて」
二人はキョトンとしたのち、ミヤビは微笑み、マイはバツの悪そうな顔をした。
「フフ。どういたしまして。アキトさんは良い方ですね。あんな風に転ばされたのに、まだお礼を言えるなんて」
「いや、おかしかったですか?」
「全然おかしくないです。……ごめんなさい。笑ってしまって。決して皮肉ではないんです」
「助けてもらったのに、僕こそ失礼な振る舞いでした。すみません」
ミヤビは申し訳なさそうな秋人の顔をじっと見つめた。
「私もアキトさんに興味が出てきました。ちょっとお話を聞かせてもらえませんか?」
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秋人はにべもなく口を開いた。
「まず、教えてほしい。ここはどこなんだ?」
「ここは『セッツ』という場所です。この辺りには町や集落もありませんから、ああいった恐ろしいモンスターも数多くいて危険な場所です」
『セッツ』という場所には聞き覚えが全くなかった。
「モンスターって……さっきの牛頭の?」
「まさか、ミノタウロスも知らんというのか? あんなモンスター、どこにでもいる種族だろう」
「ど、どこにでもいるんですか?」
「私からも質問していいでしょうか? アキトさんはどこから来たのでしょうか。ミノタウロスも知らない、そしてその顔立ち……少なくともこの『セッツ』の周辺で暮らしているわけではないですよね」
「それは……」
どう答えるべきか秋人は迷った。飛行機で沖縄に向かっている途中に、気が付いたらここにいたなんて、どう納得してもらえればいいのか。
それに――モンスターときた。
ミノタウロスという名前に秋人は聞き覚えがあった。しかしそれは空想上の生物だったはずだ。
ではこの二人が嘘をついているのか? いや、それはない。なぜならば秋人自身がそのミノタウロスに襲われたからだ。
彼女たちは何も嘘を言っていない。どれも現実だ。
(悪い夢なら覚めてほしいよ……)
しかし夢ではないもの確かだろう。
秋人は極力、自分に起こった全てのことを二人に話した。
「……では、ヒコウキという機械に乗っている途中で、気が付いたらこの森にいたと?」
「そうです」
「貴様!」
マイが腰に備えていたナイフを取りだし秋人の顔に突き付けた。
「ふざけたことを喋るな! 空飛ぶ機械だと? それにニューヨークにオキナワだと? どれも聞いたことのないものばかりだ!」
だが彼は臆することなく応えた。
「全部本当なんだ! 僕だって理解できないけど、起こったことを言っているだけだ!」
ジッと黙っていたミヤビが口を開く。
「アキトさん。質問してもいいでしょうか」
「な、なんでも。答えることができる範囲ならば」
「そのニューヨークやオキナワにはモンスターがいるのですか」
「まさか! いないよ。少なくとも僕が知る限りミノタウロスなんて空想でしかみたことない化け物だ」
「なるほど。……ではもうひとつ。先ほど私に、なぜ日本語が話せるのか尋ねてましたね?」
「あ、ああそうだ。教えてほしい。どうして日本語を話せるんだ。しかもそんな流暢に。どこで習ったんだ」
「それは私たちが日本語を話せることに違和感を覚えた……そういうことでしょうか」
「そ、そうだけど……」
「ミヤビ様? 如何しました?」
それきりしばらくミヤビは何かを考えこむ。時折独り言で「もしかして……」「まさか、そんな……」などと、呟いている。
そしてひとつ提案する。
「アキトさん。我々はこれから『スイタ』に向かいます。そちらには小さな集落がありまして、もしよろしければ一緒に行きませんか」
行く当ても状況も分からないアキトとしては乗るしかない提案だった。
「ぜ、ぜひお願いしたいです」
「ありがとうございます。マイもいいかしら?」
「ミヤビ様がそうおっしゃるならば……」
「では行きましょうか。日が暮れても困りますし」
それから三人はしばらく歩き続けた。誰しもが無言だった。秋人としてももう少し聞きたいことがあったのだが、聞くのが憚れる雰囲気に口をつぐんだ。
そして一時間ほど歩いただろうか。それまで沈黙していたミヤビが口を開いた。
「アキトさん、マイ。ちょっと寄り道したいのだけれど、いいかしら?」
「僕は構いませんが」
「どちらに向かわれるのですか?」
「森を抜けます」
「森を? しかし森を抜けるのは……」
「いいから」
「わ、わかりました」
さらに20分。30メートルほど先に木々の切れ目が見えた。
「アキトさん。覚悟はよろしいですか?」
「覚悟」
「見ればわかります」
秋人はそれ以上尋ねなかった。
森を抜ける。木漏れ日のかすかな明かりではなく、太陽の燦々とした光が秋人を襲い、目がくらむ。
徐々に目が慣れはじめる。
――そこには想像もしていなかった光景が広がっていた。
モンスターがいたその森の先にあったのは、コンクリートできた近代的な街そのものだった。
コンビニがある。本屋がある。スーパーがある。カラオケ屋もあるし――駅もある。
しかし不気味なことに、この街には人気がまったくない。それどころか所々建物は崩れ、窓ガラスは割れて、シャッターのいくつかはぐしゃりと歪んでいる。コンクリートは劣化のせいか、砂のようにボロボロと崩れ去るばしょが目立っていた。
そして最も秋人を驚愕させたのが、その町のいたるところに書かれた文字だ。
『三浦商店』『ビッグカラオケ』『串カツ石井』『スーパーグローリー』
なによりひときわ目を引いたのが駅と思われる場所の看板だ。
『摂津駅』と書かれている。
摂津――すなわちセッツだ。
「ここは……どこだ?」
ひねり出した秋人の問いにミヤビがゆっくりと答える。
「ここは『オオサカフセッツシ』。おそらく、あなたがいた場所――ニッポンの一部だった場所です」
秋人は今まさしく憧れていた日本の大地を踏みしめていた。