第三話 「日本」へ
秋人の座席は窓際だった。もう自分は窓際だからといって喜ぶような年齢ではない、そう思いつつも気分があがるのも事実だった。
荷物を座席上のスペースに収納してさっそく自身の定められた椅子で寛ぐ。
離陸までまだ30分近くもある。やることもなく、なんとはなしに外を眺めた。が、何か落ち着かない。スマホを見る気にも、持ってきた小説を読む気も起きない。なぜだろうか。
理由に気がついて秋人は自嘲気味に笑った。
……ああ、そうか。窓際の席かどうかじゃない。沖縄に行けるのがうれしいのか。
日本消滅の日、正確に言えば周辺の島々と沖縄だけがこの地球上に残った。そして人が住んでいた島はほぼ例外なく今は無人島である。
――沖縄を除いて。
もっとも、沖縄もすでに『日本』というわけではない。日本という国は名義上も存在していない。
沖縄はその存在位置と政治的理由から現在はアメリカ統治となっている。一応自治区という体裁はとっているが、事実上はアメリカ軍の前線基地という意味合いが強い。
現にその文化圏も、ここ10年で随分とアメリカに侵されたと聞く。すでに住人の半数以上は純粋な日本人ではないし、その『離島』という性質上もともと住んでいた沖縄県人も続々と離れているようである。
しかし、とはいえ、秋人にとってはもはや最後に残された『日本』であった。彼自身まだ日本が存在していた頃に沖縄に行ったわけではないし、これといって思い入れがあるわけではない。
それでもだ。秋人は日本文化飢えていた。それ以上に危機感を持っていた。
もう10年。ことあるごとに秋人はそう思う。10年は短い時間ではない。秋人の中の日本が薄れていくような感覚もある。
代表的なのはやはり言葉だろう。
もはや日本語と英語、どちらが得意なのか秋人の中でも分からなくなってしまった。秋人にとってはこの旅行で、日本語で話せるだけでもうれしいのだ。
「やだ~! 窓際がいいっ!」
「こら! ワガママ言うんじゃありません!」
通路を挟んだ横並びの席で男の子と、そのお母さんが言い合っていた。どうやら子供の駄々に困っているようだ。
秋人は少し逡巡した後にその親子に声をかけた。
「僕が変わりましょうか?」
「え! いいの?」
目をキラキラさせて、男の子は二つ返事だった。
「いえ、そんな……。迷惑になりませんか?」
「ああ、いいんです。まあ……僕もそういう経験がありますから」
お母さんはちょっと迷ったあとに、お願いしますと頭を下げた。秋人が席を立ちあがるとまるで滑りこむように男の子が窓際の座席に座って。
たちまち外の風景を眺めて喜んでいる。
秋人は苦笑しながら、その純粋さをうらやましく思った。もう自分にはないものだからだ。
子供が元いた、お母さんの隣に座る。
「ごめんさないね、ありがとう」
「いえいえ。元気なお子さんだ」
「元気すぎて困っちゃうの」
彼女は秋人の顔立ちをじっと見つめた。
「アリガトウゴザイマス」
それは、たどたどしいが間違いなく日本語だった。
「あ……」
「あら、ごめんなさい。日本人だと思ったんだけど、違うかしら」
「いえ、日本人です。……日本語が分かるんですか」
「分かるというほどじゃないわ。夫がオキナワで働いているの。だからちょっとだけね」
(そうか、そういうこともあるか……)
秋人は内心で妙に納得していた。そもそも最早観光地でもない沖縄に向かう人間など、そこで働いている者か、その家族か、あるいは――
「やっぱり多いのよ。日本人がオキナワに行くことって」
「そうなんですか?」
女性は答える代わりに目を走らせた。秋人もそちらを確認すると、確かに日本的な顔立ちの乗客が何人かいた。
「ね?」
「本当ですね。僕だけじゃないようです」
「気持ちは分からなくもないですけど。私も、もし自分の故郷がある日突然なくなったら居ても立っても居られないもの」
「そう……ですね。未練はあります」
「でもね、大きなお世話かもしれないですけど、オキナワにあまり夢は見ない方がいいかもしれないわ」
「どうしてですか?」
彼女はそれに答えず、通路を歩いていたキャビンアテンダントに声をかけた。
「オレンジジュースをひとつ。……あなたは? お礼におごるわ」
秋人もオレンジジュースを注文する。1分もしないうちにキャビンアテンダントが二つのオレンジジュースを持ってきた。
「ジュース、ありがとうございます」
そのお礼に反応せずに、女性はポツリと言った。
「あそこはもう、日本でもアメリカでもないわ」
その言葉に秋人はドキリとした。そしてそのまま言葉を発せずにいた。
しばらく沈黙が続いて、またも彼女が口を開いた。
「……ごめんなさいね。さっきから変なことを言って」
「いえ、言いたいことは分かるつもりです」
沖縄はおそらく、もう、日本とは呼べないのかもしれない。沖縄の政治的な価値を考えれば当然だろう。
秋人は背もたれに思い切り体を預けると、物思いにふける。
叶うならばもう一度日本の大地を踏みしめたい。そして、母親にもう一度会いたい。
――叶うならば。
秋人は衝撃で目を覚ました。地震かと思った。が、今自分が飛行機に乗っていることを思い出した。
まだ寝ぼけた頭を必死に覚醒させる。今は何時だ。ニューヨークから沖縄まで10時間以上はかかる。まだ沖縄ではないはずだが。
もう一度衝撃が起こった。
徐々に機内で眠っていた人々が起き始めた。最初はヒソヒソとした呟きが、徐々に大きくなっている。
「な、なにが起こってるの?」
あの男の子のお母さんも目を覚ましていた。しかしまだ状況が呑み込めていない。
当たり前だ。秋人も分かっていないのだ。
さらにもう一度衝撃が起こる。今までで最も大きい衝撃だった。
最早騒がしいほどの機内が、一瞬静まりかえった。
「ヤダ! 怖い!」
その機内で、あの男の子が、そう叫んだ。
瞬間機内はパニックになった。誰しもが最悪の状況を思い浮かべたのだ。
そしてさらに大きな衝撃。そして何かにぶつかったような鈍い音が飛行機中に響いた。
そして秋人の体を浮遊感が襲った。
(……落ちている!)
そう認識した途端、秋人は恐怖で目をつむった。