月夜の浜辺
『月夜の浜辺』
月夜の晩に、ボタンがひとつ。
波打ち際に、落ちていた。
「じゃじゃーんっ!」
「どうしたんだ、それ?」
どこかで見たことあるボタンだな―――。
と、ふと思い出される情景。
「あのね―――秋先輩にもらったの」
僕は、はっとした。
妹が頬を薄紅色に染めた笑顔と共に、僕にそのボタンを見せてきたのだ。
よく見なれた学生服のボタン。
「あたし、ずっと秋先輩に憧れててね」
「告白した、とか?」
恐る恐る聞いてみる僕。テーブルに置かれたマグカップを握りしめる。
卒業してしまうから、せめて自分の気持ちだけでも伝えたい、というのはよくあることだ。
「ううん。第2ボタン下さい! って言っただけ」
「え、告白してないのかよ」
ちょっと拍子抜け。でもちょっと安堵して、マグカップから手を離す。
妹から目線を外して、リビングの掛け時計を見る。9時17分。
「してないよ。照れるもん。恥ずかしいもん。」
中学生男子の僕には、中学生女子の妹の気持ちはわからない。
もっとも、僕はもう学校を卒業したのだけど。
「秋先輩、ぶちってボタン取って、私にくれたんだ」
あいつもそんな力任せに取るなよ。まぁハサミの用意はなかっただろうけど。
「あのね、お兄ちゃん知ってると思うけどさ、秋先輩モテるじゃん。私の前に何人か、先輩とか、ボタン下さいって言ってたの見たんだけど、そのときは断ってたみたいでさ。で、だめもとで私も言ってみたら、私にはくれたんだ。制服のボタン」
自分が特別扱いされたと思って喜んでいるのか。
まったく、あいつも結構なことをしてくれる。
「お前―――知らないぞ」
「え? 何が?」
「いまのうちに、やりたいことでもやっておけよ」
「な、何よ? なんかあるの?」
僕は自分の部屋に戻った。
予想通り、僕の目の前で妹は破壊された。
あいつに、秋に、破壊された。
それを拾って、役立てようと、
僕は思ったわけでもないが。
なぜだかそれを捨てるに忍びず、
僕はそれを、スーツのポケットに入れた。
「お兄ちゃん―――なんで、助けてくれなかったの?」
か細い声で妹が言う。
「目の前で私が、たった1人の家族が助けを求めてるのに、なんで―――」
僕は答えない。妹を見つめるだけ。
「ねぇ、なんでよ? ねぇ、お兄ちゃんてば!」
ぼろぼろと大粒の涙を落としながら、僕の両腕を握りしめる妹。
僕は答えない。妹を見つめるだけ。
「あんな、ひとだなんて、」
妹の周りはひどく濡れていた。
赤い絨毯が、ところどころ深紅色に変わっていた。
「お兄ちゃん、助けてよ」
僕は答えない。妹を見つめるだけ。
抱きついてくる妹を放り、僕は立ち上がる。
倒れた妹のブレザーのポケットから、ころりと何かが落ちた。
金色の、学生服のボタンだった。
月夜の晩に、ボタンがひとつ。
波打ち際に、落ちていた。
「お前さ、あれはひどくねぇか?」
赤い絨毯の部屋から出た僕は、近くで様子を窺っていた秋に話しかけられた。
「―――他人のこと、ぜんっぜん言えないくせによく言うよ」
「で、どうするよ? これから」
「知らねぇよ。好きにしろ」
僕はひどく疲れていた。
上から2つ目のボタンが外れた学生服を着崩した秋は、爽やかに笑う。
「じゃぁそうするよ」
それを拾って、役立てようと、僕は思ったわけでもないが。
月に向かってそれは放れず。
浪に向かってそれは放れず。
僕はそれを、スーツのポケットに入れた。
僕は孤独になった。好んで孤独になった。
―――はずだった。
「お兄ちゃん、ただいま」
仕事が終わって帰宅すると、家の前に妹がいた。
「おかえり」
正直かなり驚いているが、平静を装う。
「お兄ちゃんに見せるのは初めてだっけ。どう? 似合ってるかな、この制服」
そういえばまだ高校生だったのか。
「似合ってるよ」
家の鍵を開けて入ると、当然のように妹も入ってきた。まぁいいだろう。
「あのね―――契約が切れたの」
「うん」
「だから、帰ってきたの」
「うん」
「だから、また、一緒に、暮らしてもいい?」
「いいよ」
「ほんとに?」
「だからいいよって」
抱きついてくる妹を放り、僕は夕飯の支度をする。
倒れた妹のブレザーのポケットから、ころりと何かが落ちた。
金色の、学生服のボタンだった。
月夜の晩に、拾ったボタンは、
指先に沁み、心に沁みた。
「ん? なんかあったか?」
砂浜に屈んだ僕を見て、秋が言う。
「いや、別に何も」
「そうか」
夜の海は静かだ。満月が煌々と水面に映える。
「今度は僕の番か」
「そうだよ。お前の番だ。よかったな」
「てゆかなんでこんなことじゃんけんで決めるんだよ」
「それが一番公平だからだろ」
「まぁそうだけどさ」
「面白くなりそうだな、今回も」
「そうだな。お前よりも面白くしてやるさ」
「あぁ、期待しとく」
ふいに笑いが込み上げてきた。
これからのことを想像し、大いに笑った。
秋はそんな僕が可笑しかったらしく、2人で笑い合った。
月夜の晩に、拾ったボタンは、
どうしてそれが、捨てられようか?
Fin.
引用:中原中也『月夜の浜辺』