真夜中の鏖殺
その日の夜、皆が寝静まった頃を見計らってライルはそっと自宅を後にしていた。
「…………寒いな」
家から持ち出してきた外套をしっかりと被りながら小さく震えるライルの口元は、何故か笑っていた。
魔王として城にいた頃には、外気に触れることすらなかったので、熱いとか寒いという感覚を味わうのは攻撃魔法ぐらいのものだったが、こうして気候変動によって感じる寒さは、思わず口に出してしまうものの、何処か新鮮で感慨深いものだった。
決して死んでしまうような熱があるわけでも、凍えて動けなくなってしまうほどの寒さでもないのに、思わず「熱い」だの「寒い」だの口に出してしまう。人間のそんな脆弱さをライルは密かに楽しんでいたのだ。
「……さて」
一通り家の中と外の温度の違いを堪能したライルは、大きく息を吐きながらこれまで十五年、発動し続けていた神々の領域を解除する。
「――っ!?」
魔法を解除すると同時に神々の領域に費やしてきた魔法のリソースが戻り、十五年ぶりに力を取り戻したライルは、思わずその反動に驚いて膝を付く。
「ククッ……そういえば、それだけのポテンシャルの持ち主だったな」
久しく忘れていた感覚を確かめるように、ライルは何度か右手を閉じたり開いたり繰り返し、試しにいくつかの魔法も使って見る。
「うむ、問題ないな」
長年使っていなかったが、神々の領域以外の魔法も無事に使えるとわかったライルは、顔を上げると、闇の中へ向けて歩き出した。
そうしてライルは、明かりもつけずに散歩するかのように寝静まった村の中を歩く。
山の中にあり、住んでいる人の殆どが農業を生業としているので、日付が変わろうとする時分にもなると、起きている者などあろうはずもない。
誰にも見咎められる心配がないからというわけではないが、ライルは道の真ん中を悠然と闊歩しながらある場所を目指していた。
急ぐことなく、まるで王者の行進といった貫禄さえ漂わせながらライルは村を抜けて、街道へと出る。
そこまで来たところで、何やら道の先に黒い巨大な塊が見えてくる。
闇の中、蠢くように黒い集団は、まるで押し寄せる波のように一塊となって徐々にこちらに近付いているようだった。
ただ、その塊の正体に気付いたら、殆どの者は思わず卒倒してしまうであろう。
黒い塊の正体は、数え切れないほどに集まった魔物の大群だった。
「……ハッ、予想通り過ぎて全く笑えないな」
軽く百を超える魔物の群れを前に、ライルは犬歯を剥き出しにして獰猛に笑う。
これらの魔物は、魔王の命令で勇者を殺すために集まったのだが、ライルが神々の領域を展開し続けてきた所為で、壁に阻まれてリリィに近付くことができなかった魔物たちだった。
大方、ライルが神々の領域を解除したのを見計らって、全員で勇者を殺せと徒党を組んでやって来たのだろう。
(……まあ、こうして一斉に襲い掛かってきてくれれば、一掃するのも容易いのだがな)
魔物たちの構成を眺めながら、ライルはどうやってこのルール無用の愚か者たちを葬り去ってやろうかと考える。
ライルがここにやって来たのは、リリィの旅立ちという晴れの舞台を邪魔しようとする魔物たちを排除するためだった。
(特に母と……ついでにババァとは当面の間会えなくなるのだからな)
だからリリィの旅立ちの時は、家族皆で穏やかに送り出してやりたい。
それはライルの様式美ではなく、この十五年間、一緒に過ごしてきた家族として、兄としてのせめてものはなむけであった。
「行け! 勇者の村を蹂躙するんだ」
すると、蠢く影の最後方から何やら威勢のいい声が聞こえてくる。
「勇者を殺した者には、魔王様から魔将軍へと引き立てていただけるぞ! お前たち、気合を入れろよ!」
その声に、理解しているのかどうかわからないが、各々の魔物たちが気合の雄叫びを上げる。
「あれは……」
魔物たちを鼓舞する者の姿を見て、ライルは眉を顰める。
これまで二度ほど見た特徴的な二本の角と、紫色の肌を持つ人型の魔物……七十二人もいるというベリアル七十二柱の一人とみて間違いないだろう。
「まあ、今更あの程度の魔物が増えたところで関係あるまい」
ベリアルを真っ先に倒せば、魔物たちの統制が取れなくなって烏合の衆と化すだろうが、それでは魔物たちが分散して、一匹や二匹、逃がしてしまうかもしれない。
そうなれば神々の領域で守られていない村の中に魔物が侵入して、犠牲者が出てしまう可能性もある。
「ならば……」
そう言ってライルが見据える先は、魔物たち大群の中に何匹かいるオレンジ色をした猛毒を持ち、且つ肉が吐き気を催すほどマズイと評判のカエルの魔物……ゲロゲロフロッグだった。
見える限りのゲロゲロフロッグに目標を定めたライルは、
「君の心臓をたべたい!」
自身が開発したオリジナル魔法をゲロゲロフロッグへ向けて放った。
闇夜を切り裂くように、放たれた桃色の閃光が、複数のゲロゲロフロッグへと吸い込まれる。
そうして全てのゲロゲロフロッグに魔法が入ると、近くの魔物たちが、一斉に魔法を受けたゲロゲロフロッグを見やる。
「…………ゲコ?」
周囲からの視線を一斉に浴びたゲロゲロフロッグは、周りの目が明らかに怪しいことに気付いて思わず後退りする。
「グゲッ!?」
「ギャギャッ!」
不気味な鳴き声を上げる魔物たちの目は、恋する乙女のようにハートになっていた。
「ゲ……コ」
これは一体どうしたことかと狼狽するゲロゲロフロッグたちだったが、次の瞬間、魔物たちが一斉にオレンジ色のカエルたちへと襲いかかる。
ゲロゲロフロッグたちは、一瞬で同族である魔物たちに倒されてしまうが、そこから先の出来事は地獄絵図だった。
ゲロゲロフロッグを倒した魔物たちが一斉にその肉に喰らいつき、捕食し始めたのだ。
しかし、その肉は当然ながら吐き気を催すほどマズく、毒もあるので、ゲロゲロフロッグを食べた魔物たちは毒の効果でのたうち回り、力の弱い魔物から徐々に力尽きていく。
「うむ、上手くいったな」
魔物たちがゲロゲロフロッグを食べて死んでいく様を見ながら、ライルは満足そうに頷く。
ライルが放った魔法『君の心臓を食べたい』は、かけた相手が周りを無差別で魅了するチャームの効果がある魔法だが、その愛はとてもつもなく重く、相手を殺して食べてしまいたいと思うほどだった。
この魔法を披露した後、魔王は、恋人になったら独占欲が強過ぎて監禁されそうな異性ナンバーワンに十年連続で選ばれ……以下略。
そうして、殆どの魔物はゲロゲロフロッグの毒の効果によって力尽きていったが、
「ば、馬鹿な……一体何が…………うぐぅ……は、腹が…………」
ベリアルをはじめとする一部の力ある魔物たちはそう簡単には死ねず、毒を摂取したことによる地獄の苦しみに悶絶していた。
「ほう、まだ息がある者がそこそこいるな」
それなりに生き残った魔物たちを見て、ライルは感心したように笑みを見せる。
「お、お前は……」
すると、ライルの姿に気付いたベリアルが、紫色の肌をさらに青くさせた顔で腹部を押さえながら苦しそうに命乞いをしてくる。
「わ、悪かった……おとなしく帰るから今日のところは……」
「黙れ。鬱血する絵画」
だが、そんな戯言をライルが受け入れるはずもなく、自身の外道魔法を使って、生き残った魔物たちに容赦なく止めを刺していった。