怖い森は不思議な処
『怖い森』がいつからそう呼ばれるようになったか亮太は知りません。お父さんのお父さん、そのまたお父さんがほんの小さな子供だった頃からずっと使われてきた名前でした。
怖い森に入ってはいけない。特に子供は近づくことさえも禁じられていました。それは村の掟であったし、今まで誰一人として破った者はいませんでした。ひげを生やした屈強な猟師の大人達でさえも森の一帯は避けて、獣が逃げ込んだとしても、そこで諦めていました。
人の手が及ばないことから、外見草木が荒れ放題で、怖い森は不気味な雰囲気を醸し出していました。作られた道もなく、また中がどうなっているのか誰もわかりません。唯一それを知っているのは、森にすむ獣達だけでした。
三月のある日、亮太は村の掟を破ってしまいました。山道を飛ぶ蝶を夢中で追いかけているうちに、怖い森のほうへとやって来てしまったのです。
ヒラヒラと手の届きそうな距離で優雅に舞うこの蝶は、畑などでよく見かけるモンシロチョウとは違いました。小さいわりに色鮮やかで、何やら賢そうでもありました。亮太にはまるで自分をどこかへと案内しているようにも思えました。
「おめぇ、おらを騙してねぇか?」追いかけながら亮太は蝶に尋ねました。
まだ獣道を少し入っただけで、すぐに引き返すことができました。今ならば来た道を反対に歩けば帰れるのです。不安になった亮太は一度立ち止まり、大きく目を開いて見上げました。
「雨はふらねぇって、おとうは言ってだども」
気になるのは陽の高さでした。
良く晴れた昼下がり。木々の枝葉の間から、眩しいほどの青々とした空を望むことができました。これなら大丈夫。そう思い、亮太は蝶を追い続けました。
蝶を見失った亮太の前に現われたのは木苺でした。赤く熟れていて、一粒だけ口の中に入れてみると、プチプチと弾け、すぐに舌の上で溶けて消えてしまいました。甘酸っぱい、けれども今までに覚えのない、後をひく不思議な味でした。休まず手が動き、亮太は生っていた木苺をあっという間に食べきってしまいました。
亮太の目に別の蔦が映りました。木苺は獣道の脇に沿って、少しずつ生っていました。食べ足りないという思いで頭の中が一杯でした。次いでお腹が満たされてくると、今度は家で寝ている妹にも食べさせてあげたいと思うようになりました。亮太はどんどん森の奥へと入っていきました。
こんな味だったろうか。全てを取り終わって、ふと亮太は首を傾げました。そもそも春になったばかりのこの時期はツボミか早くても花のはずです。山裾ではまだ実が生ってはいませんでした。
気がつくと太陽はだいぶ傾き、西の空がほんのりと黄色く染まろうとしていました。
「早く帰れねえと」
薪割りの仕事は残っているし、妹の子守もしなければなりません。そして、なによりも亮太自身が家に帰りたくなっていました。
進んできた道を戻るだけの簡単なことです。けれど、いつまで経っても獣道を抜け出せませんでした。歩けど歩けど森は開けず、荷車の車輪の跡がついた山道は一向に現われません。亮太は見慣れた山の入り口がとても恋しくなりました。それでもなぜか涙はこぼれませんでした。
亮太がたどり着いたのは見知ったふもとへの山道ではなくて、大きな樹の下でした。根の先が浸るほどのところに小さな丸い湖が広がっていて、枝葉で覆われていた天井にポッカリと同じ形の穴が開いていました。それ以外は特に何もない、寂しいところです。亮太は大きな樹を背もたれにして地面に腰を下ろし、夕暮れの空を眺めました。今日は新月のようです。
「おっかあが心配しとるだろうか。おとうは怒らねぇだろうか」
薪割りのこと、妹のこと、そして昨日の夕飯の光景を思い返すと、悲しくて声が震えていました。早く帰りたい。でもここは怖い森です。誰も探しには来てくれないでしょう。
段々と日が沈んでいくのが怖くて、亮太はしばらくの間、じっと目を閉じていました。それでも時が経つのはわかるもので、次第に肌寒くなり、どこからかオオカミの遠吠えが聞こえました。こうしてはいられない。そう思い、亮太は立ち上がりました。
妹のために集めた木苺を一粒だけ取り出して口に入れました。少し前に食べたときよりも甘く感じました。すると……
「ひゃっ!」亮太は驚いて固まりました。
陽は西に落ち、真っ黒くなった湖の水面に自分とは他人の姿が映ったのです。女の子でした。
亮太はどうしていいのかわからず、足元に映る女の子にぺこりと会釈をしました。向こうもこちらに気がついているようでした。
女の子は何かを口にいれる仕草をしてみせました。どうやら木苺を食べて欲しいようです。亮太はその通りまた一粒口に入れました。
ポッと湖の水面に明かりが灯りました。月やその他の星とは違う、人の温か味がある蜜柑色の光。家から漏れ出ているのだと、亮太はすぐにわかりました。
亮太は湖畔を顔を上げて見渡しました。しかし、依然として辺りは暗いままです。水面の少女はもう一粒食べる真似をしました。
「食べるのか?」亮太は尋ねました。
うなずく姿を見て、亮太は一粒、また一粒と木苺を口に放り込みました。寂しさから少し焦っていました。
効果はすぐに現われました。一粒、奥歯で噛み潰して喉へと通すたび、湖の中の明かりは増えていきます。そして木苺が残り五粒となったとき、突然眩しくなって亮太は目をつぶりました。
「眩しい! いったい何が!」
両手で顔を多い、とっさに身をかがめました。それでも、いつまで経っても何も起きません。危険はないようでした。
慣れてきて、閉じていたまぶたをようやく開けることができるようになったとき、少女の声が耳に届きました。
「ゆっくりと目を開けてごらんなさい」
亮太は言われるがまま、そうしました。するとどうでしょう。自分の目の前に水面に映っていた女の子が立っていたのです。
「これはいったい」
「ここは月ノ葉村」
周囲を見まわすと、湖の周りにいくつもの家が並んで村をつくっていました。全て水面に映っている場所と同じでした。
「あなたはどこの村?」
「おら、山のふもとにある村から来たんだ」
これまで使う必要がなかった為に、亮太は自分の暮らす村の名前を知りませんでした。それでも女の子は疑うことはせず、小さくうなずいてくれました。
そこで蝶を追っていたこと、木苺を摘んでいるうちに迷ってしまったことを亮太は正直に話して、それから尋ねました。
「おめぇさ、怖い森の抜け方を教えてくれんだろうか?」
「怖い森?」
名前がこの森につけられたものだと知ると、女の子はどこか悲しげな表情をしました。どうやら違う呼び名があるようです。傷付けてしまったのかもしれないと思い、亮太は気をつけようと心に留めました。
「森の抜け方は知っているわ」少女は言いました「でも、どうせなのだから、この村の踊りを覚えてから帰ってね」
少女は亮太を自分が立つ湖の中に招きました。仕方がない。負い目を感じていた亮太は渋々従いました。
「おや?」湖に足を入れて亮太は少しだけ驚きました。
くるぶしのところまでしかなくて、深くありません。そして何よりも日も暮れたというのに、湖の水は全く冷たくありませんでした。ひんやりとした井戸水の冷たさを想像していた亮太は気が楽になりました。
亮太の指先に少女のそれが触れました。温かい、人肌の温もりがします。手を引かれながら、亮太は彼女が幻ではないのだと思いました。
亮太は湖の中心へとやって来ました。すると、どこからか鼓と笛の音が聞こえ、湖の周りを村人が囲んでいました。
少女に教わりながら踊りが始まりました。初めのうちはぎこちなかった手足の動きもすぐに慣れました。村人達の明るい調子にのせられて、亮太は長い時間踊り続けました。こうして夜は深まっていきました。
踊り疲れた亮太が少女と岸に戻ると、すでに宴の準備が整っていました。村人全員が大きな焚き火を囲んで座り、笑ったり泣いたり、また隣の人と話をしながら炎を見つめています。亮太も少女に連れられ、輪の途切れていたところに座りました。
「今日は年に一度のお祭り」少女は言いました「山の下で暮らす人達の幸せをお祈りする、大切な夜なの」
お祭りの夜ならば納得がいく。どうして村人達が陽気なのか、亮太はわかった気がしました。そこで、頭の片隅に置いておいた質問をしてみました。
「おらは亮太。おめぇは何ていうんだ?」
「ナツ」
「歳は? おら九つだ」
「八つ。いっこ下だ」
五つか六つといったところでしょうか。八つというにはナツの体は小さすぎるように、亮太は思いました。
一方、ナツは亮太の名前や歳などあまり関心がないようでした。他の村人達と同じように炎を見つめています。その為、亮太は話を続けることができませんでした。
することがなく、亮太は村人達を順番に眺めました。全く知らない顔がほとんどで、いくつかは見覚えがあるような気もしました。しかし、はっきりとは思い出せません。そうしているうちに飽きてきて、今度は炎を見つめました。
赤い、紅い炎。ときに深くなり、また淡くなります。薪をくべるたびにパチパチと音をたて、一瞬の間でさえ形を残すことはありません。吸い込まれそうなほどに、それは綺麗でした。
「亮太のおとうは何をしとる?」
不意に隣から尋ねられ、魅せられていた亮太はハッと我に返りました。
「おとうは猟師だ。山で鹿を狩っとる」
同じ問いをナツにすると、彼女もまたお父さんは猟師だと答えました。
村を見渡して、亮太はそうなのだろうと思いました。なぜなら、この村には畑や田んぼがないからです。家畜の鳴き声も聞こえませんでした。狩った獣の肉や毛皮を売って、生活をしているのでしょう。おそらく村の男達はみんな猟師なのです。
「んだら、山で会っとるかもしれん」
亮太はふと家のことを思い出しました。きっと今頃、両親が心配しているに違いありません。急に不安になってきました。
「おとうと、おっかあと妹が待っとるから、早く村に帰りたいんだども」
「まあ、待ち。いま飯さ配られるから」
そう聞いた次の瞬間には焼き魚と木の実、そしてめったに見ない白い米が亮太の目の前に出されていました。大人達にはお酒も並べられているようでした。
お腹も空いていたので、亮太はご馳走になってから帰ることにしました。
「いただきます」村人全員、声を合わせて言いました。
まずはお米を頂こうと思いました。炊き立てで、甘い湯気が鼻先をくすぐります。箸でつまみ、亮太は大きな口で頬張りました。
「あれ?」亮太は首を傾げました。
続いて魚、木の実を口に運びました。どういうことでしょう。匂いはこんなにも美味しそうなのに、全く味も歯ごたえも感じないのです。まるで谷底に溜まる霧を食べているようでした。
亮太の様子に気がついたナツが言いました。
「木苺を食べて」
亮太は一粒口に入れました。すると驚いたことに、ご飯も焼き魚もみんなそれぞれ美味しく感じられました。はっきりと食べているのだとわかります。さらに、向かいの席で大人達がする笑い声も鮮明に聞こえるようになった気がしました。
他の村人達と同じく、亮太もお腹が一杯になりました。そんなとき、数人の大人達が一頭の大きな猪を輪の中に運んできました。
「崖から落ちたらしい」大人のひとりが言いました。「脚ば怪我しとる」
猪は瀕死の状態で、息をするのがやっとの様子でした。人間達に囲まれてもピクリとも動きません。脚からはたくさんの血が流れていました。
村の人達は焼いて食べるわけでもなく、また手当てをする気でもなく、横たわる猪をただ見つめていました。
「助かるじゃろうか?」亮太はナツに尋ねました。
何故だか亮太はこの猪のことがとても気がかりでなりませんでした。
「助けたいなら」ナツは囁くように小さな声で言いました「木苺さ、食べさせておあげ」
亮太は決心して立ち上がりました。そして猪のもとへと恐る恐る近づき、尖った口の中を無理やりこじ開けて、木苺を放り込みました。抵抗はありませんでした。
ブヒィイイ!
すると突然、今まで虫の息だった猪がムクリと起き上がり天を裂くほどの大声で鳴きました。そして囲っていた人の柵を高く飛び越え、矢のような速さで茂みの中へと走り去っていきました。亮太は危うく跳ね飛ばされるところでした。
「もう大丈夫。あれで元気になったさ」
隣に戻った亮太にナツは微笑んでそう言いました。どうやら怖い森には不思議なことがたくさんあるようです。こうして木苺はあと三粒となりました。
食事の後、すぐに帰るつもりだった亮太は大人達の話を聞いていました。面白い話。怖い話。そして自慢話。全く知らない話もあり、またどこかで聞いた憶えのある話も混ざっていました。とても楽しい時間が過ぎていきました。
「もう夜も遅いから」思い出させたのはナツでした「帰り道さ案内するよ」
亮太自身、すっかり帰ることを忘れていました。それでも、いつまでもここにいるわけにはいきません。残念そうな村人達に挨拶をして、宴から離れたナツの後に続きました。
どうやら行きと同じ獣道をつかって帰るようです。二人は大きな樹の下へと向かっていました。
「今日は本当にご馳走さま」亮太は名残惜しい気持ちを抑え、ナツの背中に言いました「とても楽しかった」
言葉が届いていないのか、前を歩くナツからは何も返ってきませんでした。そこで亮太はあらためて声をかけました。
「ご馳走さま。また今度ここへ来るから」
すると、前を歩くナツは立ち止まり、驚くほど張り詰めた表情で振り返りました。
ナツは言いました。
「家に帰ったら、これから言うことを忘れずに済ませてちょうだい」
「う、うん。なんだい?」
「熱いお湯を沸かして茶碗一杯、冷めないうちに飲み干して。それから今日ここであった出来事は誰にも言わないで。約束よ」
亮太は黙ってうなずきました。
大きな樹の下までやって来ました。それまでの間、亮太はナツのことを考えていました。いったいどうしたのだろう、と。
「そういえば」亮太は立ち止まって口を開きました。「綺麗な蝶を見たんだ。この辺ではよく飛んでいるんか?」
それは会話のきっかけとして亮太が考えた、何でもない問いかけでした。
「蝶を見たいの?」ナツは尋ねました。
『見たい』と亮太が言うと、ナツは静かに考え込み、それから答えました。
「見たいなら、木苺を一粒」
亮太は食べました。残りは二粒です。
一瞬、またしても眩しさが襲い、そして見上げた夜空に亮太は言葉を失いました。
何百頭、何千頭でしょうか。まるで輝く星々のように、数え切れないほどの蝶達が二人の遥か上をキラキラと光り飛んでいました。昼間に見たそれよりも大きいようです。
「はい、これ」亮太は木苺をナツに差し出しました。「これを食べると見えるんだろ?」
ナツははじめ困惑した様子でした。それでも何度か勧められると『ありがとう』と言って受け取りました。寂しそうでもあり、また嬉しそうな笑顔でした。
こうして最後の一粒を残し、亮太は妹のために集めた木苺を全て使ってしまいました。
夢のようで、ずっと見惚れていました。いつまでもここにいたいと思う気持ちさえしていました。そんなとき、隣にいたナツが亮太の手を握って、小さな声で言いました。
「ずっとここにいて。寂しいから、ナツのそばにいて」
消えそうな声で『寂しい』と伝えた言葉の意味が亮太にはわかりませんでした。ここは彼女の村なのです。当然、彼女には自分と同じように両親や家族がいるはず。決して独りではないだろうと思いました。
そのとき一軒の家の明かりが消えました。
もう寝る時間なのでしょうか。ポツリポツリと湖畔が暗くなっていきます。しかし目を凝らしてよく見ると、消えたそれは明かりだけではないとわかりました。家自体が無くなっているのです。
驚く亮太にナツは頼みました。
「木苺を食べて」
「駄目なんだ。これは妹の分だから」
家族のことを口にして、亮太はあらためて自分のおかれた状況に気付きました。あれほど村の大人達から入ってはいけないと教えられていた怖い森の中にいるのです。
「なあ、おらを帰してくんろ。村へ帰して」
これ以上木苺を食べたら自分はどうなってしまうのだろう。そもそも消えたり現われたりする村なんて普通ではない。どうして、そう思えなかったのだ。生まれた不安は湖畔の明かりが一つまた一つと消えるたびに膨れ上がっていきました。
「なあ、帰してくんろ! おらを帰して!」
早く帰らなければいけないと感じた亮太は慌ててナツに頼みました。それでも彼女はうなずきませんでした。泣きそうな顔で首を懸命に横に振っていました。
「もう一粒、あともう一粒食べれば、ずっとここにいられる。だから、ずっとここにいて」
とうとう村の灯が全て消えてしまいました。それでも湖の上を舞う蝶達の姿はまだ目で見ることができました。他に明かりのあったそれまでとは異なり、どぎつく光る蝶の群れは亮太にとって不気味に思えました。
「お願いだから、ずっと一緒に……」途中からナツの言葉が聞こえなくなりました。
蝶の光しかない暗闇の中で亮太は見つけました。そこは大きな樹の根元、夕方に亮太自身が寄りかかり、腰を下ろしていた場所です。一輪の白い水仙の花が真っ直ぐに咲いていました。
淡く光る花びらの先には、他とはひとまわりほど小さい蝶がとまっていました。亮太はすぐにそれが昼間の蝶であるとわかりました。
「この花は……おらか?」
するとこの蝶は……。確信を与える何かがありました。
「やだ! 放せ!」
亮太は急に恐ろしくなって、ナツとつないでいた手をとっさに振り解きました。そのとき彼女と目が合いました。
ナツの瞳は真っ直ぐ亮太を見つめていました。口を動かし、何かを訴えます。けれど声が聞こえず、彼女が何を伝えたいのか亮太はわかりませんでした。
そして不意にナツは抱きつきました。
「や、やめろ! やめろ!」
つかみ合い、もみ合った末、必死で離そうとしないナツを亮太は力づくで突き飛ばしました。バシャンという音をたて、彼女は背中から湖に倒れました。
「ふゃ!」亮太は小さな悲鳴を上げました。
いけないと思い、助け起こそうと湖に右足を入れたのです。何故か凍てつくほどに冷たくなっていました。
湖の中、立ち上がったナツは泣きだしそうな顔で何かを叫びました。一頭ずつ蝶の姿が消え、さらに暗くなり始めたなかでも、その表情と姿だけはハッキリと亮太の記憶に焼きつきました。
恐ろしくて、亮太はナツを残したまま月ノ葉村から逃げ出しました。暗い獣道を手探りで進みました。しかしながら、茂みで挟まれた狭い道です。なかなか前に進めず、急がないと捕まるのではないかという焦りだけが亮太の心を覆いました。
「うっ!」
爪先が木の根に引っかかり、亮太は前に転んでしまいました。額をしたたか打ちつけました。そこで意識が薄れていき、いったんまぶたを閉じました。
ズキズキとした頭の痛みで起こされた亮太は、自分の状況をすぐに把握することができませんでした。
フカフカとした何かに乗っています。そしてそれは生き物で今も動いています。どうやら自分を背中に担ぎ、どこかへ運んでいるようです。時折り『ブヒブヒ』という鳴き声を上げます。正体は宴の席で助けた猪でした。
目を開けると、まるで行灯が並んでいるかのように、獣道は闇夜の中で明るくなっていました。煌々と光っていたのは、いくつもの木苺の花でした。昼間は実だけがなっており、一輪も咲いてはいませんでした。
「ナツが助けてくれた」朦朧とする中、亮太は呟きました。
ナツは自分を殺そうとしたのではない。彼女は自分を怖がらせようとしたのではない。そう確信した亮太は嬉しい反面、今更ながら申し訳ない気持ちになりました。
獣道をひたすら走る猪の背に乗り、再び亮太の意識は薄れていきました。
次に亮太が目を覚ましたのは、毛皮を着込んだお父さんの背中でした。ようやく怖い森を出ることができたのです。
お父さんが言うには、山道の脇で眠っていたそうです。大きな猪や輝く蝶、それに怖い森のことは少しも知らないようでした。亮太も話しませんでした。
家に帰った亮太をお父さんは叱りませんでした。お母さんも心配が取り除かれたとたん、おいおいと泣いてしまいました。代わりにお説教をしたのは隣の家に住むおじさんでした。
約束は決して忘れていません。一段落ついてから、亮太は言われた通りお母さんにお湯を沸かしてもらいました。並々とお茶碗一杯に注がれた熱湯、それを少し冷ましてから亮太は一気に飲み干しました。あとは妹に木苺のお土産を渡すだけです。
「そうだ。夏子にお土産――」
妹の名を声に出して、初めて亮太は気付きました。夏子はもうこの家にはいません。亮太が七つのときに、妹は風邪をこじらせて亡くなっていたのです。それは一昨年前の冬のことでした。
*
それから何度も怖い森に入り、亮太は月ノ葉村を探しました。しかし、色鮮やかな蝶はおろか、移動するはずのない大きな樹と湖さえも見つけ出すことはできませんでした。もはや成長した亮太にとって、怖い森は何の奇跡も用意してはくれないようでした。
全ては夢だったのだろうか、と時折り亮太は疑問に思います。しかし、そのたびに渡すことのできなかった木苺の実が、腐ることなく亮太の心に希望をもたせてくれます。
そして蝶を見ると、亮太は決まってあの月ノ葉村で習った踊りをします。どんな種類であっても構いません。彼らが自分の様子を妹へと知らせてくれるよう、亮太は期待しているのです。
了
題名『怖い森は不思議な処』
蒼井 果実
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