第85回「言葉がおかしくなるほどの激しい怒りを表現せよ」
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noname_000
ビシィッッッ!
ゴゴゴゴゴ!
赤を通り越して、黒い。
倒れた。
脳の中で血管が切れたそうだ。
手術でも治らなかった。
死んだ。
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髭虎
薄く開いた視界に、規則正しい心電図の音が聴こえる。ここはどこだろう。思考の焦点も上手く定まらない。視界にはただぼんやりとシミひとつない天井だけが映っていた。
「……ん、起きたか」
ふと、見知った声が聞こえた気がする。ベッドの脇、目線を動かすと懐かしい匂いがした。
「声は、聞こえてるみたいだな。言葉は分かるか?」
男の……父の言葉に力なく頷きながら、けれど私の意識の大半は目の前で父親面している男より、自分の今の状況に向いていた。
思い出せる最後の光景は手のひらから溢れるほどの錠剤を、自分の口に放り込んだ瞬間まで。つまり……あぁそうか。
失敗したのか私は。
死にかけた実感もなく、生きているという感覚も薄く、ただそれだけを思った。それだけしか感じなかった。
年に数回と会わない父が…………父という名の他人が連ねる雑音を聞き流す。
きっともう何もかもどうでもいいのだろう。生きるための熱量は全て使い果たした。あとはもう死んだように生きるか、死ぬために生きるかでしかない。そう私には何もない。もう何も残ってやしないのだ。
こいつが次の言葉を囀るまでは。
「それで、あとは医者の言うことをちゃんと聞いておけ。はぁ、まったく忙しい時期だというのに——いったい誰に似たのか」
ピクリと指先が震える。…………それは、誰に向けた言葉だ? いったい誰を揶揄する言葉だ?
「……ざ、け……な」
「……ん、どうした。何か言ったか?」
「ふざ、けるな……って言った、んだよ」
体に付いた煩わしいチューブの束を引き剥がして、男のスーツに手を伸ばす。
「誰に似たのかって? お前がそれを、言うのかよ。母さんを追い詰めたお前が」
スーツの端を握り締める。瞬間、涙が滲むほどの痛みが奔った。急に動かした筋肉が軋みを上げた。どうにも、お使いの脳みそはまだまだ正常なようで、これ以上はやめろと必死に警告音を鳴らしている。あぁ、そうか。ならばもっとダメになるまで使い込んでやらないとな。
「誰が孕ませたよ。お前が、無理矢理にだろ。何であんなッ、クソみたいな場所に押し込めたよ。お前の罪を隠すためだろ! なあ、身寄りのない女、手籠めにするのは、ハァ、楽しぃ、かったか?」
「もう、大人しくしていろ」
「父親面、すんじゃ……ッ!?」
力強く肩を掴まれ、無理矢理ベッドに押し戻される。ハハッ、こっちの体のことなんて欠片も考えちゃいない、そのくせ外面ばっかりいい。きっと傍から見たら、錯乱した娘を想う父に見えることだろう。いつものように。母がそうだったように。そしてこれからも。
「ぁ、ぐっ、ハハッ、ハハハハッ!! そういえば葬式、上げなっ、かったよなぁ。上げて、くれなかった」
「もう黙れ」
臓腑が煮え立つような感覚が身体を支配していた。まったくどこに残っていたのか、身を焦がすほどの激情が思考を置き去りに口の端から溢れて止まらない。
「なぁおい。いつまで、気取ってやがるッ。紳士か、良い大人ぶりやがって。お前の本性は何だ!? 本当は、ハァ、娘を想う父なんですぅ、ってか? 娘が自殺しようとして気に病んでますってか!?」
視界が、チカチカと点滅している。クソみたいな男が何か言ってるっぽいが、もうほとんど聞き取れやしない。けれど全身を流れる血流はまだ熱い。まだ口は動かせる。あぁ、まるで焼けた鉄を胸に押しつけられているみたいだ。怒りが、熱が、絶叫が。苦しいほどに込み上げる。
「違うだろ、違うんだよ。お前はクソだ。私と一緒のクソだよ! 私はお前に似たんだ!! 母さんに似なかった!!! だからこんなクソみたいな娘が生まれてんだよ!!! なあ!!?」
ふと、呼吸が苦しくなる。
首を、何かに圧迫されているのを感じる。
「かッ、はっ…………」
「はぁ、まったく……個室でよかったと心底思っているよ」
まただ。また、私は何もできない。何もこの男に傷をつけられない。クソだ。いつも諦めて。私は弱くて子どもだから。こいつは強いから。それを言い訳に母を助けることもしなかった。助けようともしなかった。あぁ、なんだ。強かった母を、優しかった母を死へと追い詰めたというのなら、それは私もじゃないか。
意識が、薄れていく。死の淵へと落ちていく独特の感覚。けれどきっと今回も死にはしない。殺されはしない。
思考も感覚も消えていくその中で、焼け付くような熱だけが絶えず胸に燻り続けていた。
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くまくま17分
塔の階段を息を切らして駆け上り、やがて広い空間へと出た。辺りを見渡すと視界に飛び込んじゃない来たのは、肩で喘ぎ鎧を紅く染めた少女。
鮮血を床に散らし、突き立てた剣にすがって膝をついていた。
「姫、様………」
掠れた声で呟いた。
火照った身体が水を打ったように冷めていく。
胃の府が底冷えする。
背筋が凍って寒い。
「来ちゃ、ダーーー」
蹴倒されて床に激しく背中を打った。
剣が音を立てて転がった。
咳込むよりも早く足が胸を踏みつけて圧迫する。
「イヒヒヒヒ。遅かったなあ。え、騎士様よ?」
少女を踏みつける男が剣を肩に担いで下卑た笑いを響かせる。
「武装解除だ。鎧も脱げ」
油断無く剣を少女の首筋に宛がい、鋭く睨み付け冷酷に言い放つ。
「………けろ」
「あ?」
項垂れたまま呟く声は少女たちに届かない。
「早くしろ。脅しじゃーーー」
「退けろと言った!その汚い足を!」
全身から怒気を立ち昇らせて激昂し、衝動の赴くままに盾を投げ付けた。
「ーーっぶねっ」
横に飛び退いて交わすと、続けざまに剣も投擲された。
寸での所で身を屈め辛うじて遣り過ごす。
「おおおおあああああああっ!」
男の注意が逸れた隙に少女の剣を拾い上げ、地を這うような獣の疾駆で斬り掛かった。
「チィィィッ」
男も剣を構えてそれに応じた。
閃く二つの白刃。火花を散らして舞い踊る。
怒りで頭が白熱し、浮かんだ言葉が掻き消える。
何も考えられない。
ごうごうと血流が耳元でうるさい。
コイツを殺す。
怒りに我を失う身体を、明確な殺意が辛うじて手綱を握る。
見え透いた、理合いも無い単調な太刀筋。
それでも、太刀筋に乗せた暴力的な威力が反撃を封殺する。
言葉にならない獣のごとき咆哮を上げ、一方的に押していた。
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