第147回「『年』という言葉を用いずに年末年始の様子を描写せよ」
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時猫一二三
久方ぶりの境内は、いつかの賑わいを取り戻しつつあった。
相変わらず、吐息はマスクによって堰き止められ、白むことなく散っていく。それでも前回に比べれば、温かな触れ合いに満ちていた。
「やっぱり、屋台はまだ出てなかったわね」
すこし残念そうに妻が言う。
「仕方ないさ。こうして神様に会いに来れるだけ、ありがたいよ」
「食べたかったわ、イカ焼き」
「家で作ればいいじゃないか」
「こういうところで食べるのは、やっぱりぜんぜん違うのよ」
むくれる妻が愛おしくて、想わず懐へと抱き寄せる。恥ずかしいのか、彼女は一瞬だけ離れようとしたが、すぐに諦めてぼくに身体を預けてくれた。
苦しい世の中ではあるが、愛しい人と触れ合えるだけ、ぼくは十分恵まれている。
「ほらお賽銭。もう次が私たちよ」
贅沢なことに妻が差し出したのは千円札だった。
いいのかい、と瞳で尋ねると彼女は小さく笑って見せた。
「こんな世の中だもの、神様だって大変でしょう?」
「この五倍だって残念な顔をする子供たちが、うちには三人も居るのに?」
「だからこそ、よ」
「だからこそ、かぁ」
それはそうかと受け取って、ぼくらは神様に千円札を差し出した。
鈴を鳴らして、二礼二拍手。
頭に浮かべた願い事は、やっぱり無病息災だ。妻や孫たちが苦しい世の中にも負けず、健やかに過ごせますように。
「ねぇ、キミは何を願ったんだい?」
帰り道。ふと気になって妻に尋ねると、彼女はすこし気恥ずかしそうにこう言った。
「次に会いに来るときは、イカ焼きが食べられますようにって」
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八百津湊
「とうとうこの日が来た、か」
×で埋め尽くされたカレンダーを、コタツの中からぼーっと眺めながらつぶやく。
時計の針のカチコチという音だけが、部屋の中で響いている。
窓の外に目をやると、カーテンの隙間から雪が見えた。
「初雪かな。……たぶん」
現在俺は前務めていた会社の貯金だけで生活していて、面接以外では外に出ることもない。
だから、今降っているのが初雪かどうかは定かではない。
というかその面接自体、ほぼ受けていないんだよなぁ。
あの日から俺は、まるで気が抜けた風船のようになってしまった。
そしてこうやって部屋の中でひとり、過去に思いを馳せると、異世界で過ごした思い出ばかりが輝きを増していく。
「ダメだよなぁ。怒られるよなぁ」
ため息と一緒にそう吐き出し、一呼吸置いてからやっと俺はコタツから抜け出した。
「うう、寒い」
コタツ以外、暖房をつけていないので、家全体が冷え切っている。
男ひとりで住むには部屋の数も、広さも正直持て余していた。
凍り付くような廊下を通って、隣の部屋の押入れを開ける。
そこには箱買いしてあったアポロチョコが、段ボールの中ほぼ手付かずのまま大量に残っていた。
……自分であったっけ、なんて口走っておきながら、あることはわかっていたのだ。
買ってきても数日過ぎれば魔法のように消えていた、あの頃の感覚がまだ消えない、いや、消したくないだけなのかもしれない。
未開封のアポロチョコを一つ手に取る。
ひんやりとした感覚が手に伝わってくる。
俺はそれをジャージのポケットに突っ込むと、壁にかかっていたダウンジャケットへ手を通し、玄関の扉を押し開けた。
大通りに出ると、片側の車線だけが渋滞している。
それを横目にジャケットの襟へ口元をうずめながら、反対方向へと歩を進める。
大粒の雪が降ってはいたが、アスファルトの温度が高いのか、地面は薄黒く濡れているだけだった。
15分ほど歩いてたどり着いたのは、近所の寺が運営する共同墓地。
わざわざこの時期にやってくる人は皆無で、並ぶ枯れ木と相まって殺風景2倍増しって感じ。
墓地の端っこに立っているやや大きめの墓石の前で、俺は立ち止まった。
墓石には何十人もの故人の名前が、ずらりと刻まれている。
集合墓地ってやつだ。
刻まれた名前の、最後尾から3番目に、カタカナだけで書かれた少し浮いている名前があった。
おっと、まだ3度目の冬だというのに、もう苔が生え始めているじゃないか。
まったく生命力のたくましいことで。
俺は指で優しく名前をなぞるようにして、苔を取り払う。
「……よし」
きれいになった名前を見て、満足した俺はポケットからアポロチョコを取り出す。
コロコロ、と箱の中からチョコの転がる音が聞こえた。
この音を聞くたび、思い出が次々と脳裏に浮かぶ。
楽しいこと、辛いこと、嬉しいこと。
いろんなことがあった。
鼻の奥がつんとしてきたところで、自分がアポロチョコを握りしめ、棒立ちになっていたことに気が付いた。
「いかんな」
そう漏らしながらふと視線を墓石の名前に戻すと、
「それ、私のなんだから早くよこしなさいよ」
なんて耳にタコができるほど聞いたあいつの声が聞こえてくる気がした。
「はいはい、わかってるよ」
俺はコトリ、とアポロチョコを墓前に供え、手を合わせた。
――帰り道、俺はあいつと出会った時のことを思い出していた。
ちょうど、あの時もこんな雪が降っていた。
まあ、あいつの住んでいた地方は、季節関係なく雪が降っていたんだけどな。
異世界に飛ばされた俺が唯一持っていたのが、会社の連中から義理でもらったアポロチョコだった。
あいつと出会ったあと、アポロチョコをきっかけに打ち解け、一緒に長い長い旅をして……世界を救った。
相棒、親友。最高のパーティメンバー。
いや、そんな言葉じゃ言い表せない。
あいつは俺の中でそれ以上の、大切な存在になっていたんだ。
だから俺が元の世界に戻るとき、あいつが自分の身分や生活を捨ててまで、俺についていくと言ってくれて、心の底から嬉しかった。
絶対に幸せにする。
そう心に誓った。
きっと素晴らしい未来が広がっていると、その時はそう信じて疑わなかった。
でも現実は残酷だった。
あいつは、こっちに来て最初の冬に風邪を引いた。
なんでもない、普通の風邪だった。
だが、春が来て、夏が来て秋を超えても、病状は回復せず、あいつはどんどん衰弱していった。
病院に連れて行っても、ただの風邪だという。
後でわかったことだが、あいつにはこの世界の病気に対する抵抗力というものが、全くと言っていいほどなかったんだ。
そしてとうとう2度目の冬が来て、あの日を境に俺があいつのおはようを聞くことは、二度となくなった。
それでも、悲しむ暇すらなかったな。
あいつには戸籍もないもんだから、行政の手続きとか、そうそう、あの墓に入れることだって相当苦労したんだぜ。
あぁ、今でも昨日のように思い出せる。
あいつは最期の日の晩まで、何度も同じことを言っていた。
「わたしは、幸せよ! だから、あんたは笑ってなさい! 何があったって、ずっと、笑ってなさい! いいわね!?」
そりゃ、無理ってもんだろ、姫さんよ。
今まで聞いてきたわがままの中でも、一番難しい注文だよ。
信号待ちをしながら、ふぅ、と息を吐くと、吐息は白い蒸気となって流れ、消えていく。
隣で同じく信号を待っていた家族連れの子供がはしゃぎ声をあげた。
「姉ちゃん、神社まで、どっちが先につくか競争な!」
「こらこら、めでたい初詣で怪我したらどうするんだ」
父親らしき男がたしなめる。
信号が青に変わると、子供たちは親の制止を振り切り、笑いながら走っていった。
たとえ初雪でも、どんなにめでたくても、やっぱり俺は、今日という日が嫌いだ。
1月1日。
俺の愛したシャーロット姫の、命日だ。
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隻迅☆ひとみ
下界から吹き上がる風も、今晩は身を切るような寒さだ。
ガスストープを入れたテントにはこの冬にできた新しい彼女。日の出前まで寝ると言っていた。
僕は、目覚まし時計役だ。1日午後から出社だそうで、忙しいらしいので下山と同時に初詣も済まして帰宅する。
テントから周囲へ目を向ければ、暗い中にも小さい明かりが見え、ひそひそとした人気を感じる。
辺りが、どことなく静かで、どことなく厳かなのは、そろそろ聞こえてくる鐘の音が届くからで、煩悩を払う音は誰の身にも染み渡るだろう。
山麓には神社仏閣が多く、この天空の名所でもあるこの場所は、テントを張って冬景色を眺めるにも絶好の地である。
ラジオで確認したが、気候も安定し今夜は星もよく見える。きっと朝は雄大な世界を作るだろう。
都会の雑踏を裂けるように集まったテント達は皆同じ考えの信仰者だ。日本人の何割かは必ず居るもんだろう。
そう、今の時代でもこの先の時代でも、きっと続いている行事なんだ。
僕は夜空を眺めて満天を流れ進む流れ星に、どうか明日は雲が掛かりませんように。などと願うのである。
素人カメラマンの僕は以前にもここへ来たことがある。そのときは雲海の中、鼻水を垂らしながら独身の初日の出をシャッターに収めている。
その写真を始めて見せたのが今の彼女だ。
そしてこれが、彼女との初旅となる。
彼女と肩を並べ、告白を含める願い事を喉深く隠し、明日の朝日はまだ、まだと待ち遠しい。
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