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短編小説

児童文学『風の庭園』

 風が光り、翼が羽ばたくような音がした。クロエは、此処に楽園を作ろうと思った。


 掌にある重い鍵は銀製。その表面は硫化してくすんでいた。けれど、鍵の端っこを煉瓦の高い塀に擦り付けると、そこから眩しい光沢が覗いた。光沢は目の形。邪悪な何かの目。いや、違う。何か神聖なものの目。クロエは、黒い鉄の扉の隅に隠れている鍵穴に、この銀の鍵を刺し入れる。その堅牢な空間に入るために。細い手首を返して回す。世界の螺子(ネジ)を巻くように回す。すると庭園はクロエの前に現れた。

 雑木林を風が青く渡り、まず扉近くのソヨゴの葉がサラサラと鳴り、次いでクロエの身体と心を()いて通り抜け、(クヌギ)の樹間をザアーッと鳴らして庭園の奥へ過ぎて行く。

「ああ、風よ。初夏の青い風よ。私の存在を擦り抜け、私が虚ろなることを示すお前はいったい何処へ行くのだ」

 クロエは詩を朗読するように言葉を紡いだ。右手を空に差し出し、天を仰ぐ。くるりと一回転する。

 樹々の隙間から見える晴れた空に太陽が輝いている。木洩れ日は青葉の色彩を写し取り地面に緑色のステンドグラスを貼る。

「私の庭に溢れる木洩れ日。それは、青林檎の味がするキャンディの色」


 クロエが初めて此処に来た時、此処には何も無かった。がらんどう。その言葉が此処の全てを表していた。ただ空間があり、涼しい風があり、音があった。そしてちっぽけな少女、クロエがいた。

「虚ろなるかな。此処も我も。ならば参加せよ。我は(いざな)うことを(くわだ)てる者なり」クロエは芝居掛かった抑揚で言った。すると、光と羽ばたきが賛同した。「お前たち、我が企てに参加するというのか? なんと心強いことだ! では、これより我らは此処に楽園を出現させることになるだろう!」

 クロエは一人、恍惚に震えた。クロエは何も無い此処に樹々の苗を植えることにした。まずは鉄の扉の外に出て、向かいの家の門を飾っていたソヨゴの若芽を手で千切った。鉄の扉を再び(くぐ)り、靴の踵で地に窪みを作り、そこに若芽を植えた。

「ソヨゴの若芽よ。(そよ)げ。此処には風がある。しかもそれは涼しいのだ」

 クロエはがらんどうを歩き、歩いているうちに日は暮れ、夜に追い立てられて此処を出ると、次は満月に追い立てられて家路を辿った。


 クロエは自分の部屋で夕飯のパスタを食べ終えた後、紅茶を()れながら、これから作り上げる楽園の全体図を想像していた。まず考えたのは、あのがらんどうを森にするということ。ドングリが生る樹を植えよう。銀の鍵で螺子(ネジ)を巻き、黒い鉄の扉が開く。ソヨゴがサラサラと(そよ)ぐ。その音は歓迎を示し、そして楽園への参加を続けるかどうかをクロエに確かめる。ソヨゴを越えると(クヌギ)(ナラ)(トチノキ)の、まだ(まば)らな雑木林が現れる。枝に鳥達が集い、異国から種を運んで来る。やがてその種が芽吹き、さまざまな植物達が深い森を作るだろう。森の中央には池を作る。きっと動物達が水を飲みに来るだろう。そして、その池の畔に小さな教会を作る。祈るのはクロエだけだから一人か二人が、やっと入れる大きさでいい。粗末でいい。清貧というやつだ。素敵な教会に惹かれて、いつか、天使が来てくれるだろう。その側には鞦韆(ブランコ)もあるといい。大きく成長した枝にロープを二本掛けて、家の物置で寝ている古びた桐の(マナイタ)を吊るし、横木にして、鞦韆を作る。クロエが乗って漕ぐと振り子のように高く揺れ、クロエの脚は教会の天辺にある十字架を蹴ってしまいそうになるのだ。

「……もし蹴ってしまうのなら、太陽に突き刺さるくらい高く強く蹴り飛ばしたいわ……」

「クロエ。ちょっといい?」クロエの母親が夢想を破って入って来る。

「なぁに?」

 振り向いた拍子に急須(ティーポット)の口から紅茶が三滴(こぼ)れた。

「街に住んでる伯母さん、前に夏休みに行ったことがあるから知ってるわよね。その伯母さんがあなたを暫く預りたいって言ってるのよ。街に慣れる良い機会だし、伯母さんは子供がいないから……」

「都会は苦手だわ。伯母さんもよ」

「はあー」母親は溜め息を()いた。「あなたは、いつになったら学校に戻るの?」

「私には地獄に行ってる暇がないの。そんなに言うならママが行くといいわ。学校でも伯母さんの所でも」

「うーん」母親は考え始め椅子に腰掛けたり立ち上がったりしたが、やがて言った。「そうね。ママも行きたくないわ。どっちにも。分かった。断ることにするわ」母親は自分の左目の下にある殆ど分からない小さな傷跡に触れて誰に言うともなく言った。「三角定規を投げ付けられたことを忘れていないのよ」

「ママも紅茶飲む?」

「そうね。頂こうかしら……あ、それはお客様用の紅茶じゃないの」

「お客様、こちらのお席にどうぞ」

「あら、ありがとう」

 二人の声と言葉使いはよく似ていたがクロエの方が半音高い。二人とも芝居じみている。何故、似ているのかと言えば、クロエが声色を変えて、自分と母親を一人で演じているからだった。本物の母親は既に墓の中。父親が再婚した継母が今は居間にいてドビュッシーの『牧神の午後への前奏曲』を聞きながら洋裁をしている。クロエは彼女と口を()きたくなかったし、目も合わせない。ほっといてくれればそれで良い。

「春摘みですのよ、奥様。柔らかい芯芽が三割程も入った最高級のお紅茶ですの」

「あら、小賢しいわね小娘。ワタクシ、味なんてどうでもいいのだわ。飲めさえすれば犬のオシッコでも構わないのよ」

 クロエは一頻(ひとしき)り笑った。下の階に聞こえないように努めて控え目に。それから自分で書いている戯曲を夜中まで音読し、不味いと思える箇所があれば何度も推敲(すいこう)した。

 欠伸(アクビ)が出始める頃、家族が寝静まったのを確かめてからクロエは風呂に入る。湯舟に仰向けに寝て、溺死したオフィーリアを真似るのが日課だった。数分の後、オフィーリアは突然に復活し、喋り出す。

「ここは尼僧院かしら? 扉の外にお客が並んでいる? さあ入ってらっしゃいな」

 クロエは自分の台詞にぞっとする。本当に入って来たらどうしよう、などと考え始める。

「『でも、これからどうなるのかなんて何にも分かりやしないのね』」

 風呂から上がり、髪と身体をぞんざいに拭う。下着を付け、すっぽりと寝巻きを被る。その淡い薄荷色はクロエのお気に入りだ。バスルームを出て、台所(キッチン)へ忍び足。冷蔵庫からミルクを盗んで飲んだ。窓からしなやかな月光が入ってくる。

「月よ。夜な夜な私がミルクを盗んでいることを誰も知るまい。そう、私とお前以外は」

 クロエの一日が終わり、クロエは寝台(ベッド)に入る。うとうとしながら心の中で呟いた。

「……楽園が出来上がったら名前を付けなくちゃ。何て名前にしようかな……風が気持ちいい庭だから、取り敢えずは『風の庭園』ということにしておこう……」


 翌日、クロエが風の庭園を訪れるとソヨゴの若芽は彼女の膝ほどにまで成長していた。光合成を行い、ぐんぐんと伸びる。今も、ほら、伸びて行くのが分かる。クロエは新芽の先に指を当てた。その指を押し退けるように芽は強く開いた。クロエは歓喜した。

「魔法が掛かっている! 此処は魔術師の庭だったのね! 鍵を拾った私は後継者なのかも知れない! 私は風の庭園に選ばれたんだわ!」

 クロエは駆け出し、庭園を出て、少し離れた所にあるアフィシェント公園に植わっている(ナラ)(クヌギ)(トチノキ)の若い枝を折った。抱え切れないほど抱えると、また走り出した。枝が落ちれば拾い、額に汗しながら不恰好に走って戻り、再び庭園に入る。

「私の庭。やがて此処は森になる」

 クロエは地面に枝を植え付けた。クロエは、それを繰り返した。庭園の中央は空けておく。後で池と教会を作るために。

「池の周りには何か白い小さな花、それも、池の水面へ長く垂れ下がるように伸びて、たくさんの花を付ける植物を植えたいわ。でもまずは池ね。池は……このくらいの大きさ」

 クロエは靴の爪先で地面を擦りながら大きな輪を描いた。そこを避けた所から放射状に枝を植えて行く。

 日暮れまでアフィシェント公園と此処を往復した。途中で気に入った花を見掛ければ少しだけ貰った。裏道の陽の当たらない隅に(コケ)が生えていたけれど、それは貰うのをやめた。風の庭園には相応しくないような気がしたから。

 その日は庭園の壁に沿って眠り草、蔓薔薇(ツルバラ)、ガザニア、萵苣(チシャ)の木、アネモネ、イベリスを植えた。


 次の日もクロエは風の庭園へ入った。樹々はクロエの肩に届くまでに育っていた。この日クロエは、姫踊り子草、針槐(ハリエンジュ)、釣鐘草、ブラシの木、オキザリスを植えた。


 二週間も経つと、此処は立派な雑木林になっていた。小鳥が来るようになった。ちちち、ぴぴぴ、じゃーじゃー。鳴き声の違いから何種類もの鳥が来ていることが分かる。鳥は遠くの樹々の実を食べ、此処まで飛んで来る。そして滞在する間にフンをする。そこには異国の樹々の種が含まれているだろう。やがて種は芽吹くだろう。風の庭園が森になるのも近い。

 今日は、春紫苑(ハルジオン)、チューリップ、庭石菖(ニワゼキショウ)、カルミア、灯台躑躅(ドウダンツツジ)を植えた。


 次の日は池を造ることを始めた。爪先で描いてあった輪の中を掘り始める。家から持って来たスコップで。堀った土は輪の外に出す。次第に土は湿り気を帯び始めた。黙々と土を掘った。その途中、恐竜の化石が出て来れば面白いと思ったが、そんなものは見当たらず、湿った土と小石だけが掘り返された。更に掘り進めるとスコップは思わず蚯蚓(ミミズ)を真っ二つにし、螻蛄(ケラ)を追い立てた。

「ああ、蚯蚓! 何故そんな所に出てくる! 私のせいじゃない、私のせいじゃない! ああ、お螻蛄(ケラ)! お前のせいだ! お前さえいなければ、私と蚯蚓は上手くやれていたのだ! 誰か! 誰か、医者を呼んでくれ!」

 クロエは真っ二つの蚯蚓をスコップで(すく)って輪の外へ移動した。だんだん乾いてくる蚯蚓。

「……み、水を……水をください……」

「今、医者を呼んでやった。頑張れ、頑張るんだ蚯蚓っ」

「……ああ……私は、もうダメです……『あなたは下手人です…人殺しが幸せになれるものなら、あの女と一緒にお暮らしなさい…もし私に会いたいと思ったら駅のホームで私の死体をご覧になれるでしょう……』うっ、ばたり……」

「ああ、蚯蚓。お前の魂が蝶になれるように私が祈ってやろう。アーメン」

 穴堀りに飽きたクロエはその後、雑木林の散策をして回った。涼しい風がクロエの歩く先々を流れて過ぎる。此処は不思議だ。今やクロエが植えた以上の樹々が生え、大きく成長している。

 今日は、苧環(オダマキ)、クレマチス、吸葛(スイカヅラ)を植えた。クロエは、穴を掘るという慣れないことをして疲れたので、この日は早めに帰ることにした。掘った穴は、落とし穴にもならないほどであったが。


 帰宅すると継母が電話をしていた。何やら怒っているようだ。クロエは気付かれないように居間の横の廊下を通り抜けた。二階に上がっても声が聞こえて来る。クロエは階段の底を覗いたまま継母の声を聞いていた。

「土曜日には絶対に帰って来て。もし帰って来なかったら、押し掛けて行って、そっちをメチャクチャにしてやる。ええ、ひとが死ぬかも知れないわね。でも、その後で私は手錠をしたまま、クロエとディナーに行くから」

 継母が電話を切るとクロエは芝居のように言った。

「人殺しとディナーですって? 私はご遠慮するわ。血の匂いで食欲が失せるじゃないの。そこの給仕さん、人殺しのテーヴルを此処から離して頂戴。そしてコウベ牛を生で頂戴。五百グラムにして頂戴。コウベ牛が無いなら、今そこで死んでるパパの脳ミソを頂戴。生で御願いね。檸檬(レモン)の汁も忘れずにね。おえー、不味そう」

 クロエは優雅さを気取った身振りで言いながら自分の部屋に入って行った。


 翌日、庭園の中央に描いた輪は池になっていた。澄んだ水が湧いている。小石が敷き詰められた水底から梅花藻(バイカモ)が群生していた。花は水の中でゆらゆらしている。手を入れてみると、とても冷たい。池の周りは四角い岩で円く囲まれ、黄色い蝶々が二匹、ヒラヒラと舞っている。前衛的な舞いで花から花へと移り、蜜を吸う。

「ああ。水辺。庭園の中心が出来た。それに蚯蚓。あなた良かったわね。蝶になれたのね。しかもパートナーまで得て。祈った甲斐があったわ。それにしても池。素敵な池になった」

 池の周りには見たことの無い花が植わっていた。白い小さな花の房が枝から幾つも立ち上がって、たくさん咲いている。知らないうちに自分が植えたのだろうか。梅花藻もクロエが植えた覚えは無い。

「風か鳥が植えたのか……或いは私は夢遊病者」

 ブルーベリーの繁みから不意に野兎が現れてクロエを見た。池から水を飲み、暫くすると雑木林の奥へ帰って行った。

 クロエはロープを二本と古びた桐の(マナイタ)を持って来ていた。此処に鞦韆(ブランコ)を造るためだ。辺りを見回し、池の側にある大きな(ナラ)の枝にロープを掛けようと決めた。だが上手く出来なかった。力が足りないので枝に届く程にはロープを投げることが出来なかったのだ。クロエの額には汗が珠のように浮いている。

「ああ、無理だわ。無理なものは無理なのよ。魔法でも無い限りね。いいえ、知恵でも何とかなるかも知れないけれど、今のところ私にその知恵は無いし、あったとしても絞り出したくない」

 鳥の鳴き声が、樹々のざわめきが、心地いい。爽やかな風が吹き抜ける。クロエは靴下を脱いで段になった岩に座り、澄んだ水へ足を浸した。

「冷たい。なんて気持ちがいいの」

 クロエは夕暮れまでの時を池の畔で過ごした。


 家へ帰ってから水辺の白い花のことを植物図鑑で調べてみると、それは姫空木(ヒメウツギ)だと分かった。クロエが知らなかった植物。誰が植えたのだろうか。

「……私の他に、誰かが風の庭園に入っている?」

 庭園には人の気配があったような気もするが、しかし、誰の姿も見ていない。植えた覚えの無い植物が繁っている。とても素敵な配置だった。花も岩も。魔法懸かりの庭なのだから、全ては当然で必然のことなのかも知れない。

「明日行けば、鞦韆(ブランコ)は出来ている。何故なら私は鞦韆の部品を用意し、私は鞦韆に乗って遊びたいと思っているからだ」

 クロエは植物図鑑を閉じ、原稿用紙を広げると、戯曲の推敲(すいこう)を始めた。


 次の日、果たして池の畔には鞦韆(ブランコ)が大きく高く揺れていた。風は微風(そよかぜ)。では、何故か。まるで誰かが、(マナイタ)で作った横木に乗って漕いでいるかのようだ。誰かが此処にいる。

「……誰かいるの?」クロエは恐る恐る尋ねた。返事は無い。「それって私の鞦韆よ。どうしても乗りたいなら貸してあげるけど……」

 返事は無かった。だが、鞦韆は止まった。クロエは恐ろしくなり、逃げるようにして風の庭園を出た。

 夜半からは雨が降り出した。


 翌日は雨が降り続けていたために庭園には行かなかった。クロエは一日中考えていた。

「風の庭園は、私の庭よ。何人たりとも許可無しには入れないのに……。頭にくる。そうよ、そうよね、私の庭だってことをはっきりと言ってやらなくちゃならない。たとえ、見えないそれが悪魔だとしても……。そうだわ……教会……。教会を造れば悪魔も庭園に入りづらい筈よ……」


 三日後の昼下がり。クロエは庭園の水辺にいた。此処は既に深い森になっていた。クロエは午前中に町を回って板切れを集めていた。教会を造るために。集まった板は小さいのが五枚。だが、クロエは気付いた。板切れを静かに岩の上に置いた。森を見回す。荘厳な樹木の列。森が造る円蓋を見上げる。此処は閉ざされた神聖な場所。

「まるで、この森が教会みたい……」

 鞦韆が微かに揺れる。近付いてみると横木の上に小さな石が置いてある。クロエが拾い上げると射し込んだ陽光を反射して光った。鮮やかな青紫の欠片が小石の中に埋まっている。

「綺麗……。誰かが此処に置いた……。どういう意味で置いたんだろう」

 クロエは小石を握ったまま鞦韆に乗って漕いだ。もう邪悪なものがいるとは考えなかった。いたとしても、それがどうしたというのだ。風が気持ちいい。それだけで良い。親子だろうか。見覚えのある野兎が子供の兎を連れて水を飲みに来ていた。脚の無い、ツバメに似た鳥が休むこと無く飛んでいる。聞こえる。水の音が、鳥の声が。風がクロエの背中を押してくれている。鞦韆は高く揺れていた。

 クロエは小石を自分へのプレゼントだと思うことにした。そして、そのお返しに庭園の草花で編んだ冠を作った。それを鞦韆に置いてから此処を後にした。


 次の日、クロエが庭園に行くと、鞦韆に置いた筈の花冠はなくなっていた。クロエは微笑んだ。此処には誰かが、いる。しかも意思の通じる相手だ。

 クロエは嬉しくなり、鞦韆を漕ぎながら芝居掛かった会話を始める。

「そこにいるのは此処の持ち主だった魔術師ね。私はあなたの後継者よ」

「え? 僕はそんなんじゃないよ」

「なあーんだ。緊張して損したわ。じゃあ、あなたはダフニス?」

「いや、僕はそんな大層な名前じゃないよ。誰だい? ダフニスって」

「私はクロエだから、あなたはダフニスだと思ったのよ。ラヴェルのバレエ曲にあるのよ。『ダフニスとクロエ』って」

「でも僕は違うよ」

「それなら、あなたは……」

「僕もあの時、君が此処を楽園にするって言った時、君に誘われて参加を表明した一人なんだ。そこに姫空木(ヒメウツギ)を植えたのは僕さ。ブルーベリーも植えたよ。うちの庭に植わっているのを株分けして来たんだよ」

「まあ、そうだったの。あなたは風の庭園の仲間だったのね。私はクロエ。あなたの名は?」


 シュルエル。


 クロエは息を飲んだ。会話はクロエの一人二役。ただ、見えない者へ名を尋ねた時、頭の中に響く声があった。

 クロエが立てた『風の庭園の企て』には、教会へ天使が降りてくることが含まれていた。だとすれば頭に響いた声は天使の声。その名はシュルエル。『神の城壁』という意味。

 風が眩しく光り、大きな翼の羽ばたく音がした。クロエは身体の芯が冷たくなってくるように感じた。脳髄が揺すられているような感覚。目眩(メマイ)がした。理由は分からないけれど、すぐに庭園から出なければならないのだと感じた。鞦韆から降りて走る。森の中を突っ切って走り、黒い鉄の扉の前に来た。扉が重く(きし)む。その側でソヨゴの若芽がカラカラに乾いていた。クロエに千切られ死んでいた。振り返って庭園を見渡せば枯れた枝と萎れた花。ロープが二本、古びた桐の(マナイタ)がひとつ、土埃に(まみ)れて転がっている。そして、ぼんやりしたまま突っ立っているちっぽけなクロエ。掌には汚れた鍵。神の城壁の中は、がらんどう。此処では何も育たないのかも知れない。たとえ何か育つものがあるのだとしても、クロエには分からなかった。

「……魔法の期限が切れた……私も参加者の一人に過ぎなかった……」

 クロエは、がらんどうを出て、走った。もう走れなくなると立ち止まり、その時、少しだけ泣いた。それから町を歩いた。五月の爽やかな風が吹く。茉莉花(マツリカ)の香りが流れて来た。この町では門扉や庭を草木で飾る家が多い。それぞれの家が趣向を凝らし様々な品種を植えていた。

「風の庭園には、いったい何人が参加していたのだろう……もしかすると、この町の人が私の他にも……」

 通り沿いの家の花を見て歩く。姫空木(ヒメウツギ)を育てている家はあるだろうか。ブルーベリーを育てている家はあるだろうか。だが、それは無く、代わりに梔子(クチナシ)がたくさんの蕾を付けていた。蜜柑の花が香る。さくらんぼをもいで口に入れると渋かった。イチゴは酸っぱかった。

 通りを抜け、川に差し掛かると岸辺に長実雛罌粟(ナガミヒナゲシ)が群生していた。まるでオレンジ色の絨毯を敷いたようだ。その光景に暫し見とれた後、クロエは自分のスカートのポケットに鍵と小石を入れたままであることに気が付いた。橋を渡り、その中程まで来るとクロエは言った。

「さようなら、私の庭」

 橋の上から鍵を投げ棄てた。鍵は宙にある間、眩しい陽の光を受けて、透き通る硝子のように見えた。


 歩き疲れたクロエが家に帰ると継母は夕餉(ゆうげ)の支度をしているようだった。台所(キッチン)から鼻歌が聞こえて来る。誰もいない居間を覗くと、縫い上がったばかりのワンピースが洋服掛け(ポールハンガー)に掛けてあった。淡い薄荷色をした涼しそうな夏のワンピース。裾と袖に真っ白なレースが蔓のように()っている。窓辺の白いカーテンが揺れた。窓は開いていた。その隙間から継母が作った庭が見える。リラの花が薫っている。通路にするため埋められた煉瓦。綺麗に刈られた芝生が地面に抑え付けられている。抜かれた雑草が庭の隅で色褪せ、乾いていた。クロエは黙って庭を見ていたが、やがて目を閉じて言った。

「……カップか何かに土を入れて、そこで(コケ)を育てよう。薄汚れてジメジメした日陰の苔を。私が手を掛ければ、それは、きっとどんな植物よりも鮮やかな緑になるだろう。そして、そうでなければならない」

 涼しい風が居間に迷い込みクロエの心と身体を透明にする。クロエは言った。

「ああ、風よ。初夏の青い風よ。私の存在を擦り抜け、私が虚ろなることを示すお前は、いったい何処へ行くのだ」

 此処にいて見えない誰かが、共に声を合わせて来るような気がした。小石の中の色を見る。青く紫。そこにも涼しい風が、あるような気がした。




       『了』




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